『 昭和天皇 』 第二部

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伊原註:以下は 『 關西師友 』 平成20年12月號に掲載した 「 世界の話題 」 ( 228 ) の増訂版です。

  今回から、漢字はできるだけ正字を使ひ、假名遣ひも歴史的假名遣ひにします。

  戰前の書物との連續性を保つためです。




    『 昭和天皇 』 第二部


      皇太子の歐洲訪問


  福田和也の 『 昭和天皇 』 ( 文藝春秋、2008.8.10 ) 第二部は 「 英國王室と關東大震災 」 が主題です。

  御召艦 「 香取 」 と供奉する 「 鹿島 」 の二隻で横濱港を出航した裕仁皇太子は、艦内で食事する際、マナーの惡さを暴露して周圍は愕然とします。

  スプーンを皿にあててカチャカチャ音を發する。

  威勢よくスープを啜る。

  肉がうまく切れぬと、フォークを鷲掴みにして肉を抑へ込む。


  フランス語を教へてゐた東宮御用掛の山本信次郎大佐が、語學指導にかこつけてテーブルマナーを教へました。


  艦内で樂しんだ柔道や相撲でも、西園寺八郎 ( 公望の養子 ) らは手加減せず皇太子を投げ飛ばし、これまで側近がいかに特別扱ひしてきたかを思ひ知らせました。


  皇太子は日本を離れて初めて 「 人間扱ひ 」 されたといふ譯です。

  第一次大戰の餘燼醒めやらぬ歐洲訪問の半年間に、皇太子は 「 箱入り 」 でない實人生を味はつたのです。

  側近の方も、寡黙で人附合の惡かつた君主が、堂々と外國君主を應接するのを見て喜びます。


  スコットランドのアソール公の許で過した二日間は、皇太子には至福の時でした。

  「 豫定 」 のない自由な時間の過し方と君臣一體の妙。

  君主の在り方の模範と見えました。

  深い感銘を覺へた皇太子は、即位後の皇室改革を決意して歸國します。


       政爭の果ての暗殺


  裕仁皇太子歸國後の大問題が攝政設置でした。大正天皇の病状が惡化し、儀式臨席・詔書朗讀など天皇の職務が務まらなくなつてをられたのです。

  當時の最重要問題は、ワシントン會議です。

  孤立主義を捨てて世界の事務に介入し始めた米國が、當面の標的 「 日本 」 を牽制壓迫した國際會議です。

  海軍軍縮 ( 主力艦の制限 ) ・日英同盟廢止・日本の支那權益吐出し。

  時の首相原敬は對米協調論者です。そのため、19世紀型對英協調論者の加藤高明と對立しました。

  その原敬が大正10年11月4日、東京驛頭で中岡艮一に刺殺されます。原は安政 3年 ( 1856年 ) 生れの66歳。

  福田和也は、 「 10月末、五百木良三が近衞文麿を訪ねてきて、あと二、三日で原が殺られます、と述べた 」 「 五百木は、柴四朗、中村彌六の仲間である 」 と書きながら、中岡艮一の單獨犯で通します。

  當時、 「 宮中某重大事件 」 と稱ばれた皇太子妃候補 ( 良子女王 ) の色弱問題で、 「 右翼 」 が政治の舞台に登場します。五百木に脅された近衞文麿も、以後、右翼に甘くなりました。

  私は長文連の 『 原首相暗殺の眞相 』 ( 三一書房、73年 ) により、原敬が政爭の犠牲者だつたと承知して居ります。この本は再刊さるべき良書です。


       原敬暗殺の衝撃


  「 もし原敬が昭和10年ぐらゐまで生きてゐたならば、歴史はかなり違つたものになつたらう 」 と福田和也は書きます。張作霖爆殺事件・ロンドン海軍軍縮條約問題・滿洲事變などの處理は適正になされただらうし、抑かうした難題は生じなかつた筈だ、と。

  實際、原が元老として牧野伸顯内大臣や昭和天皇に助言してゐたら、昭和史は好轉してゐたでせう。

  「 重厚な現實主義者だつた原敬ならば、米國の覇権と新支那の擡頭といふ現實を受入れながら、國内の諸勢力の要求を巧みにさばいて立憲政治の基盤を擴大できたに違ひない 」


  大正から昭和にかけて、人材が急減します。後繼者は官僚型の小者ばかり。そして徒黨を組んで權限爭い・豫算獲得に狂奔して國をないがしろにし、遂に大日本帝國を滅ぼします。


       運命の関東大震災


  大正が昭和を殺す原因の一つを成すのが、關東大震災です。

  福田和也は、關東大震災より虎の門事件 ( 攝政裕仁狙撃事件 ) を大きく扱つてゐますが、これは弱蟲難波大助の父殺しに過ぎません。

  怖い父を心底憎んだ大助が、直接殺せず、その代りに父が崇める天皇を狙つた間接的な尊属殺人事件です。


  虎の門事件などより、關東大震災の方が餘程影響大です。


  第一に當時の日本人は、日露戰爭後のふやけた世の中に對する天譴と受止めました。

  このあと、緊張緩む日本がどんどん天運に見放されて行きます。


  第二に經濟の重荷を昭和に齎します。

  積極財政の政友會 ( 原内閣の高橋是清藏相 ) は、世界大戰後、戰時中の水増し經濟の戰後處理 ( 引締政策實施 ) を怠りました。

  やつと實施しかけた時に地震が起き、信用杜絶・經濟破綻を防ぐべく、震災手形の救濟措置を講じます。これが、整理さるべき水増し企業を生延びさせ、その處理が昭和に持越されて昭和金融恐慌の引金になるのです。


  經濟の整理は、先に延ばすほど必要經費が急膨張します。

  しかもこの整理が世界大不況とぶつかり、さらに世界的豊作貧乏が追打ちをかけて農村不況となり、政黨政治の無能化・軍部の政治關與を招くのです。

  高橋是清が晩年に經濟再建に奮闘するのは自己の放漫財政の罪滅ぼし、二二六事件で殺されるのは、歴史の因果と私には見えます。

( 2008.8.22/11.30増補 )