『 昭和天皇 』 二冊

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伊原註: 『 関西師友 』 平成20年10月号に掲載した 「 世界の話題 」 ( 227 ) の増補版です。




   壯大な日本現代史論



        『 昭和天皇 』 二冊


  福田和也 『 昭和天皇 』 ( 文藝春秋、2008.8.10 ) の第一部・第二部の二冊を読みました。

  福田和也は目下 「 昭和天皇 」 を 『 文藝春秋 』 に、 「 大宰相・原敬 」 を 『 ヴォイス 』 に連載中で、前者の既掲載分を二冊出したのです。

  今回はその一冊目 「 日露戦争と乃木希典の死 」 を紹介します。


  福田和也のものは、これまでも 『 乃木希典 』 『 地ひらく──石原莞爾と昭和の夢 』 ( 何れも文藝春秋 ) を読んで啓発を受けました。


  福田和也に一番感心したのは、 『 第二次大戦とは何だったのか?──戦争の世紀とその指導者たち── 』 ( 筑摩書房、2003.3.25 ) で、ロイド・ジョージを高く評価した點です。


  第一次大戦時のロイド・ジョージと、第二次大戦時のチャーチルと、指導者としてどちらが偉いか? 前者が断然偉い。チャーチルは歴史の流れを変えていないが、ロイド・ジョージは変えたからだと。彼は弱肉強食社会を福祉社会に変えたのです。


  しかし、人氣の點では、斷然チャーチルの方が高いですね。ロイド・ジョージは英国でも日本でも實力に評判が伴いません。人氣なんていい加減なものであることが判ります。


       創業精神の衰退


  本書は 「 明治の精神 」 と題する乃木大將の話から始まります。

  そして殉死。

  明治人の徳富蘆花や漱石・鴎外は重く受止めるのに、明治の二代目志賀直哉や武者小路實篤は軽蔑したり憐れんだりと価値観がずれます。


  昭和の最大の悲劇は、人物の小粒化です。

  幕末明治の大人物が大正から昭和にかけてどんどん死に絶え、小者があとを埋めて行きます。

  人物の器量は、視野の廣さと洞察力に現れます。


  註:最近の日本では、指導者の第一條件として擧げるべきは 「 決斷力 」 でしょうね。

    正論を唱える人は結構居ますが、行動をしない人・優柔不斷な人だらけですから。


  因みに民主主義は 「 次の選擧 」 での当選で政治家を視野狹窄にし、党利党略を蔓延らせる欠陥があります。つまり、指導的人物を矮小化する効果があるのです。


  20世紀最初の1901年に生れた天皇裕仁は、戦中戦後、 「 お文庫 」 と称した地下防空壕に住み、ここで執務なさった。

  その部屋の飾り棚に二つの胸像が置いてありました。

  上段にリンカーン、下段にダーウィン。


  福田和也は、日本兵の髑髏を執務室の机上に置いていたフランクリン・デラノ・ローズヴェルトと比較して、昭和天皇のリンカーンに 「 凄味 」 を感じています。


  昭和天皇はリンカーンの何に惹かれたのでしょうか? リンカーンは、米国の分裂を阻止すべく南北戦争を戰い抜いた大統領なのですが。


       天皇の交友範圍の狭さ


  本書の特徴は、第二次大戦で顔を合わす世界の指導者の人間関係の挿話を同時進行で積重ねて歴史を綴ったことです。

  何と多彩な人物が個性的に活躍することか!


  その中で、天皇裕仁はひたすら生真面目かつ誠實に育ちます。

  些か不器用ながら、手を抜かずに最後までやり遂げる不抜の真面目さ。


  御學業のため御學問所を設け、当代一流の學者が講義しました。


  同級生が五人、というのが、昭和天皇の交友範圍を狭め、日本語の應答能力までおかしくします。そのためこのあと、輔弼者が屡、陛下の御言葉の解釈に苦しむことになります。

  弟君秩父宮が陸士に學び、高松宮が海兵に進んで共に幅廣い交友を持ち、世情に通じておられたのと大違いです。


  昭和天皇の側近も、似たような几帳面な人達でした。

  その顕著な実例が、鈴木貫太郎です。


  天皇と鈴木貫太郎 ( 侍従長/終戦内閣の首相 ) の組合せは、 「 真面目と誠実 」 で一貫します。

  そのお蔭で日本はあの戦争を終えられましたが、余りの生真面目さに福田和也は、 「 高度の政治性から來る狡猾さ・悪辣さ 」 が欠けている、と批判します。


  山縣有朋が 「 箱入り教育がいかん、大事にするばかりで外の風に当てようとしない 」 と嘆いたほどの几帳面な天皇教育がなぜ行われたか?

  世の中が落着き、明治初年の自由奔放さが消えた上、大正天皇を病弱の故に我が儘者に育ててしまったという反省が強く働いていました。


  因みに、昭和天皇が生物分類學を專攻するのは、慎重な観察と緻密な考察を要する分類學が、天皇の几帳面さにぴったりだったからです。

  かくて進化論への敬意と、ダーウィンの胸像を執務室に置く行為が生じます。


       昭和の不調の兆し


  大正期に、昭和の政治が昏迷する予兆が生じます。


  第一に、桂太郎の内大臣祭上げです。

  政治上の重要職位を政争に使う堕落の始りです。


  第二に、當の桂は、天皇の優諚を政治工作に使います。天皇の政治利用です。


  こういう政治の堕落を見て、昭憲皇太后 ( 明治天皇の御妃 ) が大正3年4月9日、 「 30年後の日本の姿は見たくないものを 」 と仰せられてお亡くなりになります。

  30年後は昭和19年、日本の敗戦直近の年です。

  恐るべき洞察力!


  第三に、宮中某重大事件では、皇太子の結婚問題という皇室の内輪の問題が、世間の論議と騒動の中で決着します。

  これは 「 極めて不吉なこと 」 でした。

  なぜなら、皇室が大衆政治の俎上に上る混亂が、ここに始るのです。


  第四に、皇太子 ( 昭和天皇 ) の歐洲訪問が反対論の高まりで迷走し、旅程が決らぬまま船出したのも、支那事変が迷走する前触れと見えてきます。


  見通しのないまま 「 何とかなるだろう 」 と重大な一歩を踏み出してしまう昭和の危機の幕開け、昭和日本の宿痾となる 「 国家意志の機能不全 」 の始りでした。

( 2008.8.15/10.3増補 )