紹介:齋藤 瀏と二二六事件

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紹 介:


        齋藤 瀏と二二六事件



  齋藤 瀏の著書を三冊持っていました。以下の通り──


  『 惡童記 』 ( 三省堂、昭和15.6.10 ) 定価 1圓60錢

  『 獄中の記 』 ( 東京堂、昭和15.12.27/18.4.30 78版 ) 定価壹圓六拾錢

  『 二・二六 』 ( 改造社、昭和26.4.26 ) 定価 230円


  最初の二冊は、佐佐木信綱の弟子の歌人らしく、和歌が散りばめられています。

  三冊目は、戦後になってやっと書けた二二六事件の 「 真相 」 本です。

  末尾の広告によれば、歌集を何冊か出し、ほかに 『 防人の歌 』 『 信念の書 』 という著書もあるようです。


  齋藤 瀏は明治12年 ( 1879年 ) 4月16日、長野県の寒村生れ。自身の叙述によれば──

  「 歸農した貧乏士族の末子に生れ、造り酒屋の丁稚となり、救はれて後軍籍に身を置き、青年將校で日露戰役に從軍して負傷し、壯年の時西比利亞出兵に加り、中老兵を率ゐて濟南に出動し、軍職を退いて後は國家の改造運動に參し、遂に二・二六事件に連坐して牢獄生活を爲すに到つた 」 ( 『 惡童記 』 序 1頁 ) 。


  ここに書いていない重要事項が三つあります。


1. 実父の姓は三宅、丁稚奉公に言った先が齋藤、ここで見込まれて進学、養子になること。


2. 昭和 3年、田中義一政友会内閣の下、第二次山東出兵で旅団長として出陣し、蔣介石の北伐軍の略奪暴行を寡兵よく制し、武装解除して邦人保護の任務を達成します。そして翌年凱旋しますが、民政党との政治的妥協のとばっちりを受け、少將で予備役に編入されること。


3. その後、恩給で暮すが、二二六事件への関与で恩給を打切られて窮迫すること。


  齋藤 瀏の著書が多く、また全国を講演して回ったのは、家族を養うため稼がざるを得なかったためのようです。


  さて、注目すべき箇所を幾つか紹介しましょう。漢字・仮名遣いは原文のままです。


  『 惡童記 』 59頁に曰く、 「 支那軍の略奪無錢飲食は役徳 」

  私 ( 齋藤 ) は支那の略奪を數々見聞した。此の略奪は兵士・窮民・乞食・普通人によつて三重にも四重にも行はれる。

  兵士は武器脅迫で金錢並に貴金屬といつた目星い物を略奪し、家財什器はその部屋で幾らと競賣に附する。すると贓物故買の本職が待構へて居て、見切り倒しに買取つて行く。

  兵士の略奪が他へ移つた後は何千何百と言ふ窮民乞食の數が雲霞の如く押寄せて手當り次第、便所の羽目板まで剥がして行く。かくて一空洗ふが如き廢墟の姿となり果てる。

  この廢墟に附近の貧民共の女小供婆さんが手籠を提げて摘草でもするやうに落ち屑を拾つて歩く……


  67頁に曰く、

  5月1日、濟南市街には青天白日旗が一齊に掲げられ、宣傳ビラも貼られた。

  その變化の急遽さに驚き、調べてみたら、是は支那人一流の迎合主義にもよるが、實は 「 早く既に濟南に入り込んだ蒋軍便衣の政治工作部隊が市民を脅迫強要し、携へて來た青天白日旗を購求せしめ、之を掲揚させ、且つ種々の宣傳ビラを張り、傳單を配布したことが判つた。


  宣伝と商売を兼ねていたんですね。


  本書末尾に歌人らしい言葉の説明があり、興味津々ですが、紹介は一つだけにします。

252頁に 「 神 」 カミを 「 上 」 「 頭 」 「 髪 」 「 守 」 と、上にあるもの・上に立つものと共通でくくっています。

  なるほど、頭も髪も上にありますね。


  『 獄中の記 』 は、知識人が俄かに独房に閉じ込められた時の悲哀が歌に文章に切実に表明されていて、共感をそそります。

  意気阻喪する齋藤 瀏を支えるのが、 「 どうしても生きて天下にあの事の趣旨を告げ、あの人等の心情を談らねばならぬ 」 「 生き残つた者には義務が託されて居る 」 「 助かつた私は戰友の骨を拾ひ、魂を浮び上らせねばならぬ 」 という使命観です。これが戦後、 『 二・二六 』 を書かせます。


  『 二・二六 』 の開巻劈頭に、著者が陸軍を辞める破目になった濟南出兵の経緯が出て来ます。


  7-8頁:濟南出兵は、田中義一政友會内閣が主張・實行したが、田中義一總理が張作霖爆死や賣勲問題に絡んで辭職したので、出兵反對・日支親善を主張した濱口雄幸民政黨内閣が出來、これが處理したので、濟南事件は喧嘩兩成敗的に終り、何の爲の出兵か、不明瞭となつて了つた。そして宇垣一成陸相が民政黨の次期總裁を夢見、幣原日支親善外交に追從した結果、濟南事件に關係した軍首腦を一切馘首したので、宇垣軍を賣るの非難を生ずるに到った。


  100頁:昭和9年 ( 1934年 ) の 11月20日事件 ( 士官学校事件 ) で停職になった村中孝次歩兵大尉が士官候補生に語った言葉、

  「 吾人の挺身蹶起は、君側の奸臣・國體歪曲の元兇を芟除すれば足る。その結果、眞に至誠盡忠の士が側近に侍して、正しき輔弼行はるゝに到るべしと言ふに在り 」

が二二六事件の失敗原因の一つです。

  後始末を人任せにしたため、勝手な処理をされてしまいました。


  139頁:2月20日、栗原安秀中尉が齋藤に 「 実行 」 を告げます。

  そして、実行する理由をこう説明します。

  「 第一師團は滿洲駐箚の爲今年三月末か四月に出發する。滿洲へ行けば、私共の居る間に、日蘇か日支か、或は蘇支と日本との戰爭が始るやうに思ふ。此の場合英米佛が向ふに加はる。殘念だが私共は犬死しさうだ。死んでも日本が救はれればよいが……どうせ死ぬなら國内で死に、國民を國家を醒めさせたい。かくした方が國を救ひ得るやうに思へる。それで國内で死ぬことに決めました 」


  208-209頁:彼等の目的は、暗殺ではない。岡田啓介首相秘書だつた女婿迫水久常氏の如きは、暗殺だと考へて居たやうだが、目的はさうではなくて昭和維新の扉を開くにあり、更に具體的に言ふなら、現状の打破であり、重臣・財閥・特權階級・軍閥・腐敗政黨・既成權威の褫奪であり、之に反省を促して蟄居せしむるにあつて、現今ならば追放である。必ずしも此等の息の根を斷たねば置けぬわけではない。これが、栗原安秀が首相官邸の屍に對して多少の疑惑を持ちながら敢て追究せず、安藤輝三が鈴木貫太郎侍從長を負傷させたに止め、河野壽が牧野伸顯伯を見逃す心の存した所以である。


  彼等はかくして戒嚴令が布かれ、現態勢が崩れれば、勢ひ後に來るものは、彼等の念願するものであると信じて居た。從つて又、とことんまで徹底的に此の行動を續ける意志は初めより持つて居らず、又政治は政治人がやるべきだと考へて居つた。手取早く言へば、あの行動によつて戒嚴令を布かせたら成功だと考へて居た。それ故念願は昭和維新にあつたが、目的はこれを持ち來す第一段階の實現にあつたと言ひ得る。


  夫故彼等は、戒嚴司令部が出來、陸軍大臣の告示が出た時は喜んで居り、部隊の集結を始め、行動の熱は冷めて居、是れ以上の行動を無意味と考へ、茲で自決し去らうとしたのだ。即ち彼等蹶起の目的は達成し成功したと考へたのである。


  以上の三段落に、二二六事件を起こした青年將校の考えの精髄があります。彼等は天皇と日本の國體を心から信じていたのです。だから 「 君側の奸 」 を除けば、あとは日本の麗しき國體が自ずから顯現する、と。


  以上、注目点を二、三、紹介しました。

  二二六事件について一通りのことをご存じなら、これで充分な筈。


  よく判らぬ場合、工藤美代子の 『 昭和維新の朝 』 か、北博昭 『 二・二六事件全検証 』 ( 朝日新聞社、朝日選書 721, 2003.1.25 ) をお読み下さい。


  いままた私達は 「 日本の國體を再確認する 」 必要に迫られているのではないでしょうか。


( 平成20.5.13記 )