紹介:藤代 護 『 海軍下駄ばき空戦記 』

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読書紹介:



       藤代 護 『 海軍下駄ばき空戦記 』

               ( 光人社、1989.11.12 )  1,359円+税


 下士官飛行兵を養成する予科練出身者の戦闘記録なので、 「 同期の櫻たちの生と死 」 という副題がついています。下駄履き機の戦場経験を読んだのは初めてです。


 ここでいう 「 下駄履き機 」 とは、零式戦闘機 ( 「 ゼロ戦 」 とは アメリカ の 命名なので、日本人なら 「 レイ戦 」 と読んだ方がよろしい ) を複葉にしてフロートをつけた 「 零式水上観測機 」 「 零式水上偵察機 」 を言います。偵察が主任務ですけれども、250キロ爆弾を抱き、銃爆撃もします。

 著者はその偵察員として、超ヴェテラン に育ちます。こういう人があの戦争を支えたことが、よく判りました。

 著者はなにしろ、離陸に失敗して松の木にぶつかった飛行機事故を目撃して 「 勇ましいなあ、男らしいなあ 」 と感激し、断然、飛行気乗りになろうと決心した人です。


 予科練に入るのですが、その正式呼称は以下の通り。

  「 第九期乙種飛行予科練習生 」


 著者は、操縦適性があったと思われるのに、偵察に回され、悔し涙に明け暮れます。そして、ならば誰にも負けない偵察員になってやろうと決意する。ここがいかにも不屈の闘志を持つ著者らしいところです。


 昭和15年 3月、実習航空兵として戦艦陸奥に乗組み、台湾海峡を通過。これで支那事変に参加したことになり、従軍記章と金45円也の国債を頂戴しました。高雄入港後、バシー海峡を経て東進し、激しい演習の中で艦艇対飛行機の戦いを具に見て 「 航空機の威力 」 を確信します。

 これが砲兵中心の帝国海軍軍人には最後の最後になるまで判らなかった。

 海軍將校は 「 頭コンクリ 」 ( 李登輝総統の中共指導者批判の言葉 ) でした。


 昭和17年 7月、著者はマレー半島西側のペナン島水上基地で大失敗します。

 燃料補給中に電信機の故障を直すべく電源を入れ、回らぬモーターを蹴飛ばしたところ、火花が出て気化したガソリンに点火し、あっという間に火達磨、飛行機は燃え尽きます。

 上翼の上で給油していた整備兵は火傷で重傷。責任を感じた著者は、 「 あの整備兵が死んだら、自分も死のう 」 と覚悟を決めます。幸い 2週間で二人とも退院でき、著者は死なずに済みましたが……。


 その直後、カタパルト発艦に失敗して海中に突入し、左手骨折事故に遭遇。

 ここでも著者は死線を超えて生き延び、海軍病院に入院します。


 この時期になると、内地から送られてくる零式水上観測機が、うまく飛ばなくなります。

 彼ら曰く、 「 この機は、徴用工員がつくったんだな 」

 熟練工員が出征して不足し、お義理で働く徴用工がおざなりの仕事をするので、うまく飛ばぬ飛行機が続出しました。

 私は曾て、学徒勤労動員で名古屋の三菱工場で零戦を組立てていた人にこう訊いたことがあります。

  「 戦争末期には、完成した零戦を受取って基地まで運ぶ途中、エンジンの震動でネジが緩み、空中分解して墜落する機が続出したと聞きますが…… 」

  「 うーむ、思い当たる節はありますね 」


 陸軍の徴兵官は、陸軍の軍需工場の熟練工は温存して海軍の軍需工場の熟練工を召集し、海軍の徴兵官は逆のことをし、結局、どの軍需工場からも熟練工が激減したのだそうです。


 病癒えた著者は、暫く教員として後輩の訓練に当ります。

 昭和19年 4月、四五二空第一分隊の零式水偵12機の先任搭乗員として、択捉島年萌基地に進出します。

 ここはオホーツク海の濃霧が主敵でした。不時着機が続出する中、ヴェテラン の 著者は視界ゼロの中を帰投着水に成功します。これは 「 神技 」 です。

 この第一分隊が 「 日本一の水偵隊 」 であったことは、千島を引揚げ鹿島空の霞ヶ浦に着水した時にも証明されました。


  「 一番機として最初に着水した私は、いちはやく滑走台につき、次々着水する僚機を見つめた。それは見事なもので、一糸乱れず等間隔で着水し、水上滑走してくる僚機に、我ながら惚れ惚れした 」 ( 204頁 )


 昭和20年 1月、命令に従い、内地に帰って飛行機を受領した著者は、僅か 4機を受取るのに 1ヶ月近くかかりました。

  「 徴用工員のつくった飛行機は故障続出で、毎日、試験飛行しては修理して貰わねばならなかった 」 ( 213頁 ) からです。

  「 整備不良機の多いのには業を煮やした 」 ( 同上 )

 かくて戦争末期、日本は 「 飛ぶに乗機なし 」 という事態を迎えます。予科練の後輩は、モーターボートによる水上特攻の操縦員に変身します。


 昭和20年 5月、海軍飛行兵曹長に任官した著者は、準士官待遇となり、将校食堂に行って、下士官・兵との待遇の差に仰天します。

 吸い続けなければ火が消えてしまう煙草 「 つわもの 」 「 ほまれ 」 しか配給されない下士官・兵に較べ、何たる相違!

 士官食堂の食事に接して、著者は 「 余りの変りよう 」 に驚くと共に立腹します。

  「 真に戦い、任務を全うしているのは下士官・兵ではないか 」

 そこで、将校なら無制限に買える酒・煙草をどんどん買って、訪ねてくる部下の下士官・兵搭乗員に土産に持たせました。

  「 おかげで私は主計長から、大変な飲んべえでヘビースモーカーにされてしまった 」 ( 234頁 )


 あの戦争が、戦後の平等主義を準備したのです。

 このことは、清澤冽の 『 暗黒日記 』 でも指摘されています。

 戦後の平等主義は底辺の人達を奮い立たせて戦後の高度成長を生みましたけれども、別の悪弊をもたらしていることも事実です。どんな主義主張にも一長一短がありますね。

 人生は一筋縄では行かない!




 復員途上、原爆で潰滅した広島を見て、著者は憤慨します。

  「 やりやがったな鬼畜め、非戦闘員までも。絶対許せない 」

 東京もまた、焼け野原。戦争だから、戦闘員同士は已むを得ない。しかし、非戦闘員を大量殺戮するとは、未来永劫に許せないと思った、と。

( 平成20.1.23 )