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『 関西師友 』 平成19年2月号掲載の 「 世界の話題 」 ( 207 ) です。
明治天皇の御親政
伊原吉之助
( 帝塚山大学名誉教授 )
蘇峰の昭和天皇叱責
『 徳富蘇峰 終戦後日記 』 ( 講談社、2006年 ) で蘇峰は降伏を憤り、本土決戦を回避してポツダム宣言を受入れた昭和天皇を批判しています。本土決戦を勝算ありと見たのは蘇峰の実情誤認ですが、大東亜戦争の敗因を 「 昭和天皇が戦争指導を怠ったから 」 とする点は注目に値します。
蘇峰曰く、明治天皇は御親政されたため日清・日露両戦争で勝てたが、大東亜戦争はそうでなかったから負けたのだと。
昭和の敗戦が 「 指導者不在 」 のせいとは私の持論です ( 拙稿 「 指揮者と参謀 」 『 饗宴 』 第18号、昭和50年/ 「 昭和男の嘆き 」 『 正論 』 平成17年3月号 ) 。それを天皇の親政不在に帰した論議は初めてでした。そこで各天皇の御親政について調べてみました。
明治天皇と明治国家
明治天皇の御事跡を知る良書は、帝室編修官として 『 明治天皇紀 』 を編修した渡邊幾治郎の著書です。 『 明治天皇の聖徳 』 五巻 ( 總論・政治・軍事・教育・重臣。千倉書房、昭和16・17年 ) 、 『 明治天皇 』 上下 ( 宗高書房、昭和33年 ) があります。
最新・周到の業績は、伊藤之雄 『 明治天皇 』 ( ミネルヴァ書房、2006年 ) です。笠原英彦 『 天皇親政 』 ( 中公新書、1995年 ) も参考になります。
慶応3年12月9日 ( 1868年1月3日 ) に王政復古を号令したとき、睦仁天皇は満15歳。政治の実権はありません。
政治の実権は誰が握っていたか? 太政官制時期も内閣制時期も、常に複数の実力者がいて主導権を争い、一人に権力が集中する体制ではありませんでした。
首相が弱体だった憲法
日本では独裁は馴染まず、頼朝以来の武家政権も、登場時こそ独裁ながら、忽ち合議制になります。この点日本は、皇帝独裁で一貫する中国と顕著な対照をなします。
明治22年 ( 1889年 ) 発布の帝国憲法は、内閣の幕府化を恐れ、首相に権力を与えません。組閣の時こそ首相が閣僚を選ぶものの、天皇任命後は首相に閣僚罷免権がない。満場一致が原則なので、閣僚が一人でも異を唱えると、閣内不統一で総辞職です。
国家をまとめるのは天皇だけ ( 第一條・第十一條 ) 。但し 「 統治權ヲ總攬 」 する天皇も 「 此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ 」 ( 第四條 ) と法で制約し、 「 帝國議會ノ協賛 」 ( 第五條 ) 、 「 國務各大臣ノ輔弼 」 や 「 副署 」 ( 第五十五條 ) で縛りました。
明治天皇は立憲君主として、政治への口出しは控えて輔弼の臣下に任せ、臣下が対立して重大な政治危機に陥った時に 「 公平な調停者 」 として危機回避の役目を果すよう輔育されました。
君徳培養と天皇親政
天皇が政治危機に際して調停できるには、臣下に畏敬されていなくてはなりません。王政復古後、明治天皇は二十年かけて君徳養成教育を受け、御自分も君徳培養に励まれました。大日本帝国憲法の制定に参与した天皇は、憲法発布・議会開設時に 「 国家創建者の一人 」 と自覚しておられた筈です。
明治天皇が最初に大きな内政対立を調停するのは明治17年 ( 1884年 ) 甲申事変の時です。軍内薩摩派の主戦論に対し、長州派の主和論を支持して日清衝突を回避させ、開戦まで十年の東アジアの平和を開かれました ( 高橋秀直 『 日清戦争への道 』 東京創元社、1995年、 171頁 ) 。
議会開設後、政府と政党は激突します。政党は予算を大幅削減し、政府は選挙干渉で政党の弱体化を図る。かくて屡〃憲法停止の危機に瀕します。この対立を和らげて憲法体制を続けるため、明治天皇は大きな調停能力を発揮しました。
明治26年 ( 1893年 ) 、衆議院が戦艦建造費を否決したあと、詔勅を出して軍拡のため今後六年間、内廷費30万円と官吏の俸給一割納付により製艦費を補助するので、政府と議会は和協の道を探るようにと諭したのは、その顕著な一例です。
明治天皇の君徳
控え目でありながら、要所で対立を宥和して国家運営の円滑化を図る明治天皇の行動は、立憲君主の理想的な姿でした。明治天皇の君徳は、日清・日露の両戦争の勝利でいやが上にも高まり、遂には 「 明治大帝 」 と讃えられるようになります。
明治天皇の御事跡を調べて、これまで維新の元勲たちの功績と思っていたことが、その背後で彼らを目立たぬように支持誘導されていた明治天皇の存在が大きいことに気付きました。天皇は飾り物ではなかったのです。
それだけに、明治天皇が崩御されたあと、その空白が埋められず、日本は方向感覚を喪失します。
大正時代は迷走し、迷走の果て、昭和に大きな重荷を残します。岡田益吉のいう 「 大正の間違い、昭和を殺す 」 です ( 『 昭和のまちがい 』 雪華社、昭和42年/ 『 危ない昭和史 ( 上 ) 』 光人社、昭和56年 ) 。
( 07・1・9 )