明治百五十年 と 江戸四百年 - 伊原教授の読書室

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     明治百五十年 と 江戸四百年




伊原註:これは『關西師友』2018年五月號の 13頁から16頁の4頁に載せた

    「世界の話題」第333號の文章です。

    少し補筆してあります。








       明治の精神を讃へた新保祐司氏


 産經新聞の正論大賞受賞記念大阪講演會を聽いてきました。

 受賞者は新保祐司さん。

 演題は「明治150年と交聲曲『海道東征』」。


 講演の主旨は以下の通り──


 幕末に我國は西洋文明の強烈な挑戰を受けたが、

 國木田獨歩の作品「非凡なる凡人」が描くやうな精神を發揮する人が

 數十萬人ゐて、社會の到る所で支へたため、見事文明國になり得た。


 昭和10年代はその收穫の時期である。

 海道東征を作曲した信時潔(のぶとききよし)は

 昭和12年に「海ゆかば」を、

 昭和15年に「海道東征」を、

 作曲してゐる。

 共に西洋の音樂技術を完全に消化して、然も、日本人の心に響く名曲である。


 今や中華文明が壓倒的な挑戰を示してゐるが、

 我々は明治人が發揮したやうな精神力を發揮してそれに應答し、

 日本文明を守り抜けるか

 ──と問ひかける感動的な講演でした。


 新保さんが引く國木田獨歩の「非凡なる凡人」の主人公は田舎の貧乏少年、

 語り手「僕」の同級生です。

 先生から借りた『西國立志編』を讀んで發奮し、苦學の末、電氣技手になります。


 或日僕が訪ねるとまだ歸つてゐない。

 會社を訪ねて彼の仕事場に赴くと、夕暮の中で鐵柱を圍んで何人かで作業中です。

 彼は無人の境地で「身も魂も、今其の爲しつゝある仕事に打込んで居る」。

 見てゐるうちに、僕は「莊嚴に打(うた)れた」。


 勤勉な人は珍しくありませんが、

 働く姿に「莊嚴さ」を感じさせる人は、ざらには居ません。

 獨歩が「非凡なる凡人」といふ所以(ゆゑん)です。


 こんな人が明治時代には數十萬人ゐたと新保さんは云ひますが、

 さういふ人を育てたのは、明治ではなく、江戸ではありませんか!


 從つて私は、明治百五十年より、江戸四百年に注目します。

 幕末の「西力東漸」の危機を乘切り、明治の近代化を成功させたのは、

 江戸時代の教育で育つた人たちではないか。

 だからこゝで「江戸四百年」に注目すべきではないか。



       江戸期の教育力と識字率の高さ


 江戸期の教育力の高さは“凄い”の一語に盡きます。

 關ヶ原から半世紀餘で高信用社會を創り出しました。

 三井高利が吹っ掛けなしの薄利多賣商法を實踐しますし、

 松尾芭蕉が通りがかりの百姓から馬を借りて、

 宿についてから鞍に謝金を結びつけて送り返します。

 百姓は見知らぬ旅人に馬を盗られる心配をせずに馬を貸し、

 芭蕉は鞍の錢が無事持主に届くと信じて疑はない。


 當時の我國は、世界一の先進文明國でした。


 識字率の高さも、抜群です。

 西洋の王樣の中には、

 辛ふじて文書に署名する自分の姓名の頭文字二文字が書けるやうな人がゐました。

 西洋では、アルファベット二十六文字を幾つか讀めれば識字者に數へて貰へたのですが、

 我國の識字率は、少くとも男は、

 いろは四十八文字(それも平假名と片假名の別あり)ではなく、

 漢字が讀めぬと讀解者には入れて貰へません。


 江戸期後半に、庶民用に挿繪入りの「讀本(よみほん)」が普及しました。

 書崩しの漢字假名混り文です。

 當時の庶民は、漢字が一萬字前後讀めたやうです。


 江戸期の教育の著しい特徴は、指導者教育が主體だつたことです。

 伊原註:「指導者」とは、最終責任を引受ける人を言ひます。

     「決斷する人」と言つても宜しい。

     「方向を決める人」でも良い。

     「目的」に向つて部下を進め、目的を達成せしめる人です。

     責任を取る人ですから、武道で膽力や決斷力、洞察力を鍛へる必要があるのです。

     それに對して官僚や參謀は指導者に仕える部下であり、

  「提案する人」であつて、責任は取りません。

 このことは、明治以降、官僚(參謀)教育・專門家教育に偏したこと

 (だから昭和は指導者が拂底した)を考へれば、注目に値します。

 官僚とは、指導者に仕へる人であつて、責任はとらない。

 昭和の敗戰の主因は、官僚化の蔓延・指導者の不在 (または小粒化) だと言へます。

 識見も膽力もない人が指導的地位に就くと、その集團は迷走します。



      江戸期は現代の出發點である


 我國の近代は明治以降、江戸期はその前段階の近世

 ──といふ日本史の時代區分は間違つてゐます。


 我國の現代は江戸以降です。

 そして、江戸期が明治以降の近代化を準備したとはよく言はれますが、

 どう準備したかの説明が足りません。


 大石慎三郎ほか著の『江戸時代と近代化』といふ好著があります。

 昭和61年/1986年に筑摩書房から出ましたが、

 これには「近代の芽生え」「忍び足の近代化」とあるだけ。


 私は大學院を終へて龍谷大學に勤めた時期(1960年代初期)に、

 近代化とは國民形成(ネーション・ビルディング)期、と認識してゐました。

 近代化には、三つの側面があります。

   政治=官僚政治+法治(法の下の平等)、

   經濟=工業化(殖産興業)、

   社會=獨立自尊の中産階級の成熟。


 餘談ですが、

 シナは專制支配により中産階級が育たず、法の前に平等な「國民」が形成できぬ儘、

 古代を引きずる時代錯誤の專制帝國であり續けました。

 現在も專制帝國であつて、中産階級も國民も存在しません。

 統治者と被統治者が居るだけです。

 そして統治者は、被統治者が喰へるやうにしてやらねばならないとは考へてをりません。


 19世紀が西洋諸國の國民國家形成期です。


 英國の近代はやや先走つて清教徒革命と名譽革命以降です。


 伊原註:英國の近代國家形成史 (帝國形成史) は複雑多岐、概觀するのが難しいのです。

     實は英國は、國民國家といふより、終始一貫「帝國」であつたと言へます。


   【第一次帝國】18世紀初頭〜 新教帝國 重心は大西洋に

         版圖=北米殖民地・西インド諸島・イングランド・ウェールズ・スコットランド・アイルランド ノ 一部

   クロムウェル執政期にオランダの海洋霸權を打破 → 大海軍國へ

   フランスとの七年戰爭(1756-63) に勝ち、第二次英佛百年戰爭を制した

       パリ條約 (1763) が 南北アメリカ と インドに於る英國の霸權を確立

   大西洋三角貿易 と 東洋三角貿易で「茶」+「砂糖」の食生活確立

   東洋三角貿易は、1600年成立の東インド會社が獨占


   【第二次帝國】19世紀初頭〜 世界帝國へ (重心が東に移る)

         版圖=北米植民地 喪失・西インド諸島の地位後退・ヴィクトリア女王 インド皇帝へ

    → 産業革命へ → 自由貿易帝國主義へ → 大英帝國の海洋霸權 確立

   cf. 川北 稔『砂糖の世界史』 (岩波ジュニア新書、平成8/1996.7.22)

       井野瀬久美惠『大英帝國という經驗』 (講談社 興亡の世界史 16、 2007.4.17)


 米國の獨立は、人造國家の出現(米國の國民形成は南北戰爭以降、だから日獨伊と同時期)。

   南北戰爭以前の President は主權國家である各州の會議の議長に過ぎず。

   南部の離叛を防いだ南北戰爭以後、やつと「大統領」と言へるやうになつた。


 米國建國の衝撃が歐洲に飛び火して、フランス革命が勃發した。

 米國の獨立運動に協力したフランス人が、祖國で革命を起こした。


 19世紀後半に、先進國の影響を受けて國民形成するのが日獨伊三國云々

 ──と考へてゐました。


 そして

  「日獨露清の近代國家形成努力の比較研究」

 をテーマに、文部省の科學研究費を申請し、

 大久保利通の傳記など、參考文獻を買集めました。


 私の企劃は以下の通り──

   日本=大久保利通、

   獨=ビスマルク、

   露=ヴィッテとストルイピン、

   清=李鴻章 と、

 近代化時期の各國政治家を取上げて、

 近代國家形成努力 nation-building effort の 比較研究を志したのです。


 このテーマについてはまだ書いてゐませんが、何れ取上げ、比較檢討したいものです。


 例へば、ストルイピン改革が成功してゐれば、

 ロシヤは革命なしに近代化できてゐたのに──。

 ロシヤの近代化を阻止したのは、時の皇帝ニコライ二世です。

 彼は、阿呆の一つ覺えの如く「專制支配」を固守し續けました。

 だから議會の存在を許さなかつたのです。


 こんなことを考へてゐましたから、

 『江戸時代と近代化』を讀んだときは實に殘念に思ひました。

 私もこのグループで報告したかつた。

 新鮮な問題提起ができてゐた筈です。



      江戸期は我國國民形成の助走期


 以下、江戸期が近代國家形成の準備期だつたことを、手短かに述べてをきませう。


 近代國家形成過程を念頭に置いて江戸期を見ると、

 「幕藩體制」なるものは、一國の體制ではなく、

 一つの國際社會ともいふべきものでした。


 集權的分權體制などと矛盾する形容がなされることから判るやうに、

 些(いささ)か複雜な構造です。


 幕府は諸藩の上に君臨し、叛逆を許さず、

 藩を潰したり入換へたりする絶大な權限を持つ (集權的) 一方、

 各藩の内政には干渉せず、自治を許しましたから、

 その點で各藩は獨立國に等しい存在 (分權的) でした。


 江戸に藩邸あり、幕府や各藩の意向を探る外交活動もします。

 そして各藩は、財政が破産する仕組になつてゐました。


 關ヶ原から百年經つた元祿期には、

 武家の資金はすべて町人に還流してゐました。


 これ以降、幕府も各藩も、借金經營に陷ります。

 藩の經營が破綻すると取潰しになり、

 藩主ばかりか家臣一同が路頭に迷ひますから、

 各藩は必死で藩財政の健全化に努めます。


 借金 → 節約 → 家臣の禄の召上げ → 年貢増徴。

 この道は、百姓一揆や逃散を結果し、田畑が荒廢して

 藩の自滅に通じます。


 そこで各藩は、

  農民が喜んで働いてくれる態勢造り

 を考へざるを得なくなります。

 儒教の言ふ“王道”政治の實施です。

 これが私のいふ「國民形成への道」に通じてゐたのです。


 この努力が、

  藩校を設立しての人材育成と、

  人材による國造り努力(近代國家形成努力に通ずる)

 になるのです。

 だから藩校は江戸期後半に急増します。

 藩財政を建て直す人材の養成が急務となつたからです。

 町人からも農民からも人材が輩出したこと、

 幕末には、知識慾に秀でた中産階層の人材がたつぷり居ました。


 江戸期後半、各藩には藩政改革(國民形成策)に苦勞した官僚が一杯ゐたのです。

 それが、西歐以外の地域で逸早く近代國家形成に成功した我國の秘訣です。

 明治維新とは、

  藩政改革に成功した藩が、

  失敗した藩を負かして新政權をつくつた政治事件

 なのです。


 江戸期は、當初輸入してゐた絹や木綿などを全て自給し、

  人口3倍増

  土地生産性 2.5倍増

 の高度成長を遂げ、

 幕末に來日した西洋人を

  「清潔で庶民が樂しげに暮す素晴らしい國」

 と感歎させた、凄い時期です。


 その凄さは、1950年代に流行つた「開發經濟學」を學べば、一目瞭然であります。

 1950年代には、東西冷戰下で「低開發國」(と當時言はれた) が開發援助の對象となります。

 でもなかなか成功しません。

 それに對して明治以降の我國は、外國の支援どころか、不平等條約體制の下で、

 自助努力により工業化に成功し、軍艦や飛行機まで自力で造るやうになつたのですから、

 大したものです。

 私たちの先輩の努力に深甚なる敬意を捧げませう!

 この明治以降の我國の殖産興業の成功を支えたのが、

 江戸期の幕藩時代の各藩の經營努力でした。


 江戸期に我國は、

 機械の導入を除いて

 手工業レベルでの「産業革命」を終へてゐました。

 殖産興業を指導する官僚もたつぷり養成してゐました。


 だから我國は、非白人國唯一の「近代國家」にも、

 「列強」にも、なれたのです。

(平成30年3月30日/9月2日補筆)