東アジアの劉曉波 - 伊原教授の読書室

> コラム > 伊原吉之助教授の読書室



     東アジアの劉曉波




伊原註:これは『關西師友』2018年四月号に掲載した「世界の話題」332號の一文です。

    ほんの少し修正・補筆してあります。










      日本語版『劉曉波傳』の出版


 昨年七月に亡くなつた劉曉波の傳記が出ました。

 余傑著、劉燕子編、劉燕子・横澤泰夫譯、集廣舎の出版

  (平成30年2月10日、2700圓+税)です。


 この編譯者 劉燕子さんが、サロン「燕のたより」(大阪市野田驛附近)で

 劉曉波を偲ぶ集ひ を設定されたので、行つて來ました。

 そして、劉曉波を知る方々の追悼談や、劉曉波の詩の日中兩國語による朗讀などを通じて

 劉曉波を偲びつつ、劉曉波が私たちに投げかけた問ひについて思ひを巡らしたのです。


 皆さんのお話を聽いてゐるうちに、私には劉曉波の思ひが判りました。

 そこで會場で買つた『劉曉波傳』と

 劉曉波の詩集『牢屋の鼠』(田島安江・馬麗譯、書肆侃侃房、平成26年2月15日、2000圓+税)

 を利用しつつ、劉曉波の思ひを偲びます。


 私がこれまで劉曉波を理解し兼ねてゐたのは、

 彼がかねがね「私には敵はゐない」「誰をも恨まない」と言つてゐた點です。


 だつて彼は自由民主主義の鬪士ではないか。

 2008年に出した「〇八憲章」でも

 「自由・平等・人權は人類共通の普遍的な價値であり、

 「民主・共和・憲政が現代政治の基本的な制度の枠組である」と言ひ、

 「我々の基本理念」として

 自由・人權・平等・共和・民主・憲政──を擧げてゐます。

 「我々の基本的主張」は、

 憲法改正から政治犯の釋放まで、十九も要求を列擧してゐるのです。


 それなら、

 それらの理念を否定し、理念の保持者を彈壓し處罰し監禁する中共政權は

 【相容れぬ敵】ではないか。

 それがなぜ、「私には敵はゐない」と言へるのか?


 幾ら自由や民主主義を主張しても、

 共産黨政權の言ひなりにおとなしく強權に從ひ、

 「私には敵はゐない」と言つてゐたのでは、

 事態は永久に打開できません。


 ですから、私は、

 劉曉波の“眞意”を理解し兼ねてゐたのです。


 ところが、劉燕子さんのサロンに出て報告者の話を聽いてゐるうちに、

 忽然と悟りました。

 ははあ、さうか、

 劉曉波はあゝいふ形で全身全靈を擧げて中共政權と鬪つてゐたのか、と。



      身を殺して仁をなす劉曉波


 私が劉燕子さんのサロンではたと悟る背景に、

 二つの聯想がありました。


 第一は、戊戌の政變で西太后の捲返しに遭つて死刑になつた

 戊戌の變法の六君子です。

 その一人である譚嗣同は、

 變法(體制變革)が失敗して逮捕の危險が身に迫つたとき、

 逃亡を誘つた同志に、かう言ひました。

 「我國には、義のため殉じた者が尠(すくな)い。

 「その先例を殘せば、後に續く者が出て來るはずだ」

 譚嗣同は後進を勵ますために、敢へて死を選んだのです。


 第二は、昔よく訪中してゐた時の私の經驗です。

 香港から汽車に乘り、廣州に向ひました。

 二人掛けの隣席は若い女性。岩波文庫を讀んでゐたので、聲をかけました。

 彼女は北京の大學に語學留學中の日本人學生でした。

 休暇で香港に遊びに來て、今北京に戻る所なのです。


 彼女、述懐して曰く、

 「私ら留學生は中國人學生の友達をつくりたいのに、

 「當局に隔離され監視されてゐて難しいのです。

 「中國人學生の方から近づいてくる人は、

 「外貨商店で外國煙草を買つて來てくれないかなど、

 「こちらを利用する人ばかりです」


 所がたまに、無償で奉仕してくれる人がゐるのださうです。

 何か不自由はないかと訊(き)いてあれこれ手助けしてくれ、何ら代償を求めない。

 「無私」の人です。


 私はこの話を聽いて、中國人の懷の深さに感じ入りました。


 この二つの聯想から、劉曉波が大義に生きる人だと悟りました。

 〇八憲章發出後、當局に逮捕された時、彼には外國に亡命する道があつたのに、

 彼は受入れませんでした。

 彼は誰をも頼まず、ただ一人で中共と對決する道を選んだのです。

 ガンジーの無抵抗主義に似てゐますが、

 寧ろ彼が六四天安門事件の最終段階でやつたハンストが、

 劉曉波流の平和的・非暴力の對抗法を示してゐます。


 譚嗣同の清朝打倒の思ひは、辛亥革命で報はれました。

 劉曉波の中國民主化の思ひは、果して報はれますかどうか……?



      終身獨裁を目指す習近平總書記


 中國では習近平が、

 憲法が規定する國家主席の「二期十年まで」といふ任期の制限を、

 今月五日から開く全國人民代表大會で撤廢する氣運にあります。

 この撤廢で任期の制限がなくなると、

 慣習的に同じく二期十年を守つてきた黨總書記も當然、

 二期十年以上續けられるやうになります。


 二月號の本欄で加藤嘉一さんの『中國民主化研究』を紹介し、

 中共政權の權力層の内部に、

   「習近平總書記は、中共の統治を繼續させるため、

   「政治改革に乘出す時期を見計つてゐる」

   と見てゐる人あり、と紹介しました。

 でも目下の形勢はどう見ても「習近平の獨裁態勢強化」であつて、

 政治改革といふ締附け緩和の方向は見えて來ません。


 昨年十月の中共十九全大會で、

 恒例になつてゐた後繼候補の五十歳台の人材を登用しなかつたのは、

 五年後の次期黨大會でも自分がトップに居坐り續けるつもりだからと理解されてゐます。


 習近平は、2021年の中共建黨百周年ばかりか、

 2049年の中華人民共和國建國百周年も、

 自身がトップで迎へるつもりらしいのです。

 1953年生れの習近平は、その時九十六歳になつてゐる筈なのですが……。


 假令(たとへ)肉體生命は保(も)つても、政治生命がそれまで保つかどうか?



      劉曉波が日本に托した願ひ


 余傑の『劉曉波傳』の末尾に

 「日本の讀者へ」向けた著者からの一文があります。

 日本人必讀の文章です。その趣旨は──


 第一、中國の劉曉波:

 劉曉波は自らの一生を中國の民主主義と自由の實現に捧げた。

 劉曉波こそ眞の中國人であり愛國者である。


 第二、世界の劉曉波:

 劉曉波は英米の古典的自由主義の普遍的價値を認める世界人だつた。

 困難の中で進めた人權擁護運動、及び知行合一の思想と行動により、

 「世界の劉曉波」と稱(よ)ばれる資格がある。


 第三、東アジアの劉曉波:

 だが中國の近代化は、東アジアの近代化の一部であり、

 日本・韓國・台灣・香港・東南アジア諸國・ロシヤとの關係の中に於る存在である。


 ここで大事なことが二つある。

 一つは、中國の熱狂的な民族主義は有害無益であり、

 「片刃の毒劍」であり、

 一服で中毒になる高純度のヘロインであるから

 遠ざけねばならない。


 もう一つは、この地域での最先進國として日本は、

 自國の國益だけを考へる「利益外交」を脱し、

 地域の發展に配慮する「價値觀外交」に轉じて慾しい。


 つまり、

 民主主義・法治・自由・人權・立憲政治などの

 普遍的價値を重んずる外交だ。


 目下、この地域の最大の脅威は、

   獨裁の中國と

   全體主義の北朝鮮である。


 そして、中國共産黨による金一族の暴政支持がなければ、

 北朝鮮は今のやうな近所迷惑な國になつてゐなかつたことは、

 全世界が知る處である。


 中國が民主化すれば、北朝鮮は最大の盟友を失ひ、

 地域の安全に對する脅威は大幅に減じよう。

 日本の政治家は、それだけの見識を持つや否や……?


 これは、劉曉波による日本國民への重い問ひかけです。

 我國は大東亞戰爭の敗戰後、對米從屬状態に甘んじて來ました。

 我國は何よりも先づ、獨立國たる地位を取り戻さねばなりませぬ。

 全てはそこから始ります。

(平成30年3月3日/同8月28日補筆)





 8月28日追記:

 1989年6月4日の天安門事件は、中共政權にとつて

 「百花齊放・百家爭鳴」に次ぐ「民主化の緒 (いとぐち)」であつた。

 あのとき中共が政治改革に踏切つてゐれば、

 ケ小平は「中國民主化の父」になつてゐた。


 但し、一大障礙があつた。

 建國の父、毛澤東を奉りながら敬遠するといふ“離れ業”の實施である。


 しかしこれは、共産黨で育つたケ小平には頗 (すこぶ) る難題であつた。

 民衆の平和な坐込みを“共産黨獨裁の危機”としか捉えられなかつたケ小平にとり、

 天安門廣場に坐込んだ民衆は“排除すべき敵”でしか無かつた。

 「人民は敵」と見る共産獨裁政權の本性は、民主化とは徹頭徹尾、相容れないやうだ。


 政治改革を求めて坐り込んだ民衆を戰車で踏みにじつた天安門事件のあと、

 中共にとつて民主化どころか、その手前の「政治改革」も頗る難事となつた。

 なぜなら、毛澤東・ケ小平の二人を否定せぬ限り、政治改革を目指せなくなつたからである。


 毛澤東・ケ小平を奉つてゐる限り、中共の前途には“獨裁”しかない。

 加藤嘉一さんが幾ら時間をかけて見守らうと、

 中共政權は民主化は愚か、まともな政治改革も出來まい。