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塾を復活し、小學校教育は廢止
伊原註:これは、『關西師友』2017年10月號 14-17頁掲載の「世界の話題」328號を
收録したものです。
若干の改善・増補を施しましたが、文章の趣旨は變へてをりませぬ。
身體が大分弱つて來ました。昨年から今年にかけて、それを痛感しました。
この世を去る日が近いことを思ひ知らざるを得ませんが、
でも今の世を眺めてゐて、この儘では死んでも死に切れぬ思ひで一杯です。
我國は半分腐つて來た、との感を拭 (ぬぐ) へません。
暫く前までは、陛下が居られる限り我國は大丈夫と信じて來たものゝ、
陛下の存在を抹殺したい日本人が殖えて來て居て、
我國は、日本人らしくない日本人だらけになりました。
マスメディア、教育界、政界、公務員……到る所に、反日日本人が無數に居ます。
我國を滅亡から救ふには、一にも二にも、三にも四にも、次世代の教育が大事です。
反日侮日の宣傳分子から、子供たちを守りませう。
私は大阪驛前で月一回、樣々なテーマで歴史を見直す「伊原塾」を、
社會人相手にやつてゐますが、
「江戸思想史」を講じて、改めて、江戸時代の教育から學ぶ點の多いことに氣附きました。
そこで提案したい。政府官僚による小學校教育を止めて、私塾を復活せよ、と。
「師」を選ぶのは、子供の成長にとつて實に大事なことなのです。
伊原註:我國は公務員に「忠誠宣誓」をさせてゐないので、
公務員が反體制派の逃避場になつて久しいのです。
日本の中樞が腐つて來てゐます。
然も、誰もそれを咎(とが)めない。
凡そ一國の體を成してをりませぬ。
君が代を歌はず、國旗に敬意を拂はぬ公務員など、即刻馘にすべきですが、
誰も見て見ぬふりをするだけ。
我國を代表して競技する選手の中に、國歌「君が代」を歌はぬ者が居ますが、
國を代表する資格なしとして、即刻 資格剥奪・退場さすべきであります。
子供は農業環境で育てよ
今の人は、やれ第四次産業革命だ、ロボットだと騷ぎますけれども、
生活の基本は食糧生産、つまり農業です。
食糧を田畑でなく小賣店でしか知らぬのは、人としてをかしい。
子供は斷然、田舎か都市近郊の緑豐な地域で育てるべし。
子供は裸足(はだし)で走り廻り、泥んこになつて遊び、
生傷 (なまきず) が斷えぬ状態で育つのが宜しいのです。
聞く所によると,高層住宅で育つ赤ん坊は、微妙な搖れに反應して情緒不安定になる由。
さもありなん。
扨 (さ) て、本題の「塾復活」の話です。
江戸時代は人材を育てました。
藩校が武術と儒學の文武兩道により指導者を育て、
民間では私塾が讀み書き算盤の實用教育で庶民を育てたのです。
江戸時代後半の我國の知的水準は頗る高く、庶民でも萬を越える漢字が讀めました。
歐米の識字率は、アルファベット二十六文字の讀み書きに過ぎませんが、
我國の識字率とは、假名四十八文字でなく漢字の讀み書きをいひますから、
はなから文化水準が違ひます。
江戸時代は、出版事業の隆盛と漢字教育の普及により、
後半になると、武士も庶民も知的水準は至極 (しごく) 高かつたのです。
塾で基礎教育をやるべし
子供に獨創性を發揮させるには、基礎教育をきちんと行ふことが大事であります。
基礎教育中の基礎教育は、言葉、つまり國語の習得です。
だから各國は、義務教育の、特に低學年では、授業の半分から六割を國語教育に使ふのに、
我國では他の教科並の時間しか取りません。
更にそこに英語教育まで加へようとしてゐる始末。
バッカぢゃなからうか。
何たる見當違ひ、何たるあほらしさ!
大の大人に常識がない!!
教育が普及すると、猫も杓子も觀念、それも間違つた觀念に振回されるのですね。
また歴史教育は愛國心養成のため極めて大事ですが、
我國では、學校で反日歴史教育を施して、親も皆、平然としてゐます。
奇怪至極!
反日記述のある教科書を檢定で通すやうな文科省は直ちに廢止し、
小學校の義務教育も止め。
一ヶ月單位の教育券を配り、各人や親が自由に選んだ私塾(資格を問はず自由開業)に
毎月、塾生が配られた教育券を先生に渡す。
先生はそれを銀行に持參して換金する──といふ方式にしてはいかが?
伊原註:塾を自由開業にすれば、當然、反體制派も塾を開きますが、構ひません。
選ぶ親がゐる限り、開業して貰つて差支へなし。
中學校で教室に樣々な教へを受けた生徒が會同し、切磋琢磨するうちに
正道に戻る筈です。 (戻らずとも、それはそれで宜し)
塾育ちが中學校で一堂に會すれば、實に個性豐な集團となるでせう。
人の本當の個性は、かういふ中で育ち、鍛へられるのです。
一ヶ月習へば、良い先生かどうかは判ります。
先生は、各自が自分の得意な科目を教へれば宜しい。
資格檢定など一切なしで自由にやつて戴く。
先生の選別は、生徒と親に一任しませう。
「人を見る眼」は、子供にもちやんとある筈です。
これで個性豐な、知的に生き生きした子供が輩出するでせう。
彼らが、我國の將來を支へます。
教育の鐵則が二つ、あります。
第一、尊敬できる師を選ぶこと。
師と教育内容に對する敬意なくして教育も感化も行はれ得ません。
一月接すれば、尊敬できる教師かどうかは、子供にも判ります。
第二、學ぶ側に、知的好奇心が旺盛なこと。
子弟の側に「學ぶ意欲」が旺盛にないと、教育は成り立ちませぬ。
機器に頼らず自立せよ!
私がこんな提唱をするについては、危機感を感ずる二つの事柄があります。
第一は、子供の教育について、大人が賢(さか)しら氣に餘計なお節介をするな、
と痛感するからです。
漢字は難しからうと、劃數の少い漢字から教へる。
片假名を教へず、平假名しか教へぬ。
子供には、劃數の多い字ほど識別し易く、教へればどんどん讀むやうになるのに──。
書くのは後回しで宜しい。
また、平假名はぐにやぐにやしてゐて幼兒には判別しにくいから、
昔のやうに、片假名から教へたら良いでせう。
大人は、漢字は負擔だらうと餘計な推察をして制限したがりますが、
子供の頭は柔軟で、教へればどんどん讀めるやうになります。
石井漢字教室でとつくの昔に結果が出てゐます。
漢字假名混り文は、假名だけの文章より遙かに高度な内容を表現でき、
遙かに速讀できるのです。
當然、漢字は多く知るほど表現が豐で多樣深遠になります。
漢字制限は頭をお粗末にするだけです。
伊原註:戰後の知識人は、戰前の知識人より知的水準が劣ると私は考へてゐます。
略字・漢字制限・現代假名遣により、知識人の語彙が激減したからです。
第二に、猫も杓子もスマホに齧り附く時代に危機感を感ずるからです。
インターネット開設以來、畫面に流れる文字を拾ひ讀みするのが常となりました。
今の若者は、文章をぢつくり讀む訓練をされず、從つて
能力もない儘、文章を撮(つま)み食ひしてゐるだけではないかと危惧します。
精讀の訓練をしてをかないと、しつかり讀み取れず、況してしつかり書けません。
精讀とは、一言一句を忽 (ゆるが) せにせぬ讀み方です。
一行二行の文章に時間をかけて各方面から檢討しながら讀む讀解法であります。
インターネットに流れる畫面では、これは到底出來ません。
塾でなら、精讀が出來ます。
先づ、文章を何度も讀み上げる。
そして徐(おもむろ)に解釋を加へる。
理解したあと、また讀み上げる。
何度も讀み上げ、口も頭腦も充分その文章に馴染ませる。
これで文章が身につき、
人の意見を理解するだけでなく、
自分の意見が發表できるやうになるのです。
塾では何を教へても宜しいが、そもそも子供の必須科目は何でせうか?
我國では「讀み書き算盤」と言ひ倣はしてきました。
西洋では「七リベラル・アーツ」ですが、
その基本は、言葉・數學と音樂です。
儒教でも、樂は必須です。
音樂に合せて儀式を執り行つたからです。
言葉のリズムは、詩の朗讀で學びませう。
和歌や俳句には優雅な言葉が散りばめられてゐて、
百人一首をとつてゐるだけで、美しい國語が身につきます。
子供の基礎教育は、國語九割、あと算盤と音樂。
歴史は國語に入れ、國語をしつかり學ばせるのが宜しいでせう。
塾では先輩が後輩を導くべし
江戸時代、鹿兒島でも會津でも、幼少年の訓練集團があり、
先輩が後輩を躾け、指導しました。
幕末大坂の緒方塾でも、先輩が後輩を順に教へたのであつて、
緒方先生が初心者を教へたりはしませんでした。
自分が習つたことを人に教へると、内容が俄然身につきます。
子供でも、先輩が後輩に教へる教育法は頗る大事で貴重なものです。
塾はこれが實行できますから、
ひたすら受身で習ふだけの今の學校教育より、
遙かに子供の成長に役立ちます。
昔の子供は、先づ兄弟で揉まれ、次いで近所の同年配仲間に鍛へられて學校に上りました。
今は一人つ子が多く、自分の部屋で機器相手に育ち、人間關係が實 (まこと) に貧弱です。
子供の人間關係は、貧弱といふより、畸形的です。
この弱點を補ふといふ意味だけからでも、小學校を廢止して塾にする意味があります。
もう一つ、江戸時代の教育から學ぶ大事なことがあります。
「文武兩道の教育」です。
文武兩道の教育は、支配階層である武士の教育でしたが、
軈(やが)て町人や農夫も見習ふやうになつたことは、新撰組を見ても判ります。
今は、個人が何時何處で誰に襲はれるか判らぬ五里霧中の世の中です。
テロが世界中で横行する中、護身術を心得て置くことは、誰にも必須の事態です。
とりわけ柔道の受け身の習熟は、
自動車のみならず自轉車までがやたら人を跳ねる時代には
誰しも必須の習得項目であります。
中學校以上は學校の教室に生徒を集めて今まで通り集團教育して宜しいが、
小學校の六年間は、人間形成の基礎部分ですから、
個別指導が出來る塾で育てるのが宜しいと考へます。
特に、先輩が後輩を指導する方式は、先輩をも鍛へますから、頗る望ましい教育形態です。
少子化の現在、子供同士で教へ合ふ場を作るのは、頗る望ましいと考へます。
塾萬歳!
(平成29年8月21日/平成30年8月12日補筆)