病人FDRの戰爭 - 伊原教授の読書室

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     病人FDRの戰爭



伊原註:これは、『關西師友』平成29年/基督教暦2017年八月號に載せた

    「世界の話題」326號の文章をネット用に編輯したものです。

    多少、手を加へてありますが、それは文章をよりよくするためであつて、

    趣旨の變更ではありません。










     病人に戰爭を仕掛けられた日本


 『ルーズベルトの死の秘密』(草思社、2015年)を讀みました。

 神經科學の權威スティーヴン・ロマゾウ醫師と、

 ニューヨーク・ポスト紙のエリック・フェットマン論説副主幹の共著です。


 滿15歳で敗戰を迎へた私は、

 祖國を追詰めた憎つくき敵FDRを徹底的に調べたく思ひ、

 手に入る限りの傳記(英文が多い)を書棚に集めてありますが、

 殘念ながら、碌に讀んでゐません。

 數多ある日本語の傳記は皆目を通してをりますが、

 讀んだだけで、「研究」レベルの讀み方はまだしてゐません。

 早く手を附けぬと、積ん讀の儘あの世に行きさうです。

 纏めたいテーマはほかにも一杯抱へてゐて直ぐには書けませんが……。


 伊原追記:

    ローズヴェルトに關するかなり詳しい講義レジュメがあります。

    「ローズヴェルト大統領と第二次大戰──第二次大戰後の米中關係史・序論」といふ

    菊版52頁の論文も書いてあります。

    (『帝塚山大學教養學部紀要』第57輯、平成11年3月25日に掲載)。

    だから、新書版くらゐならいつでも書けます。

    既に書いてあるものは「習作」に過ぎません。

    私がFDRに關して書きたいのは、數百頁の大型本です。


 ローズヴェルトが“病人”であつたことは、

 アコス/レンシュニック『現代史を支配する病人たち』(新潮社、1978年)や、

 小長谷正明『ヒトラーの震へ毛澤東の摺り足』(中公新書、1999年)で承知してゐました。

 でも、本書はFDRの病に實に詳しい。

 よくぞここまで調べたと、驚嘆します。

 本書を譯して下さつた渡邊惣樹さんには、感謝のほかありません。


 本譯書の帶に「その死はなぜアメリカのタブーなのか」とあります。

 この問に對する答を皆樣に紹介する必要を感じて、この一文を綴ります。


 米國が戰後もずつと日本の重しであつたし、今後も重しであり續けさうな重大な理由なのです。

 驚いたことに、FDRは昭和16年/1941年の日米交渉時に、既に“病人”でした。

 彼は前年の昭和15年/1940年に

  「我國の青年を只の一人も歐洲戰線には送らぬ」と公約して三選されてゐました。

 そして駐米大使野村吉三郎と米國務長官ハルとの間で日米交渉が始るのが昭和16年4月16日、

 その直後の5月4日、FDRはウィルソン大統領の生家で演説し、

 「我國には世界の民主主義を守る義務がある」、我々は「いつでも戰へる」と、

 正反對の發言をします。そしてホワイトハウスに戻つて疲れを訴へるのです。


 血液檢査の結果、酷い貧血が判明します。

 「いつ最惡の結果に陷つてもをかしくない状況」でした。

 大量の輸血により仕事は續けましたが、ここで癌が俎上に上ります。

 侍醫を初め、側近の醫療陣は、FDRの癌をひたすら隱して延命を圖りました。

 大統領の引退や死は、側近の没落に直結するからです。

 大統領の地位は巨大な利權の塊で、

 それにぶら下がる其他大勢の利權が大統領の健康に懸つてゐました。



     病弱だつたローズヴェルト


 1921年8月10日、40歳を目前にしてFDRは小兒麻痺にかかります。

 其後の奮鬪努力で彼の上體と兩腕はレスラーのやうに逞しくなりますが、

 脚の筋肉は元に戻りませんでした。

 上體の逞しさは、彼の意志の強さの證(あかし)ですが、

 それにしても四十近くで何故「小兒麻痺」?


 彼は病弱だつたのです。

 だから學校に行かず、家庭で過保護な環境に育ちました。

 大勢の學友と交はつて雜菌に慣れてゐる (抗體が出來てゐる) 譯ではなかつたのです。

 成人してからも多病でした。

 そして40歳近くになつてボーイスカウトのキャンプに參加したFDRは、

 免疫力の強い子供たちからポリオの病原菌を移されて發病したのです。


 このあと、FDRの恢復への驚異的な努力が續き、

 下半身麻痺の儘ながら、政界への復歸を果します。


 母サラは、ハイドパークの私邸で趣味に生きればよいとしましたが、

 妻エレノアは、(黒幕の手先)ルイス・ハウの強氣の主張

 「フランクリンは必ず大統領になれる」を信じて義母サラの靜養説に反對しました。


 このあと、FDRの驚異的な恢復努力を經て、

 1928年、ニューヨーク州知事選に勝利、

 1932年、現職のフーヴァー大統領を破つて大統領に當選、

 ニューディール(新規捲直し)政策の實施……と、周知のコースに乘ります。


 報道陣はFDRがポリオで下半身麻痺と知つてゐましたが、

 それを報道せぬことを暗黙の申合せにしてゐました。

 だから多くの米國民は、FDRが身障者とは知らず仕舞でした。

 知つてゐる人も、平常は意識しませんでした。


 ですが、健常者のやうに見えてゐたFDRも、三選以降、

 つまり、米國の第二次大戰參戰以降、健康に惱み續けます。

 とりわけ「癌」です。


 1923年、『タイム』誌の5月8日號の表紙に掲載されたFDRの顔寫眞に注目!

 左眉の上に小さな染(し)みが寫つてゐます。

 この染み(皮膚癌)が、フーヴァー大統領を破つて大統領に當選する頃には、

 誰の目にもはつきり見える大きさになります。

 1936年に大統領に再選される頃には、FDRの健康問題がはつきり浮上するのです。

 突然意識を失つたりもします。


 皮膚癌は厄介な癌で、惡性の場合、腦や胃腸に轉移しやすく、

 皮膚癌で亡くなつた患者の九割は腦への轉移なのださうです。


 侍醫ロス・マッキンタイアはこれを「何でもないもの」と誤魔化し、

 揚句の果てに染みを消すことまでやります。

 1940年、大統領三選に出馬するためです。


 燒灼(せうしゃく)(電氣又は藥品で燒く)か皮膚を削り取る

 キューレット法による處置をしたのだらうと、著者は推定してゐます。


 見掛けは隱せても癌は進行します。

 1943年11月28日、テヘラン會談で自身主催の夕食會の席上、FDRがぶつ倒れます。

 チャーチルは、

 晝間の會議でFDRはスターリンとの應答でとんちんかんな答をしてゐた

 と答へてゐます。

 ヤルタの一年以上前、既にFDRの病は深く靜かに進行してゐたのです。

 本書は、テヘランでの事件を「終りの始り」と書きます。



     死因を隱して日獨を貶(おとし)め續ける


 これほど病状が進行してゐたFDRが、更に四選したのは驚異的です。

 FDRの病状を隱し通したからです。

 でもそれは驚くに値しない。

 驚くべきは、死後もFDRの死因を封印して現在に到つてゐることです。


 なぜか?


 その答を渡邊惣樹さんが「譯者あとがき」に明記してゐます。


 FDRは阿呆の骨頂。

 ローズヴェルト外交は對日強硬政策を梃子に米國を參戰させます。

 「全體主義の惡魔」獨日を叩き潰し、

 米ソ英支四ヶ國が「世界の警察官」として戰後世界を平和に治めるつもりでゐた

 FDRの國聯構想は、冷戰、特に朝鮮戰爭で目論見が、がらつと外れます。


 なぜ冷戰が始つたか?


 反共の砦だつた獨日が倒れると、ソ聯がのさばつた。


 FDRの外交は大間違ひだつた。

 でも米國は、それを言へない。

 米國の權威が失墜し、ソ聯と對抗できなくなるからです。

 手懷けたつもりのソ聯が米國に歯向かつたのは、FDRの外交の大失敗です。


 でもソ聯と對抗するには、それは言へない。

 「間違つてゐなかつた」ふりをする必要があります。

 だから戰後米國の歴史學會は、FDR外交批判を封印した。

 FDR外交批判は「歴史修正主義」として封じ込めた。

 そして、獨日は惡者で居續けて貰はねばならぬ。


 斯くて日本は戰後七十餘年經つても「日本惡者史觀」から脱出できず、

 米國の保護國の儘推移したのだ、と。


 國家安全保障會議の機密文書NSC68號(1950年)に、米國の危機感が如實に表れてゐます。

 曰く、

 「この儘共産圏が膨脹し續ければ、我國は同盟國が激減して孤立する。

 「この緊急事態に際して、同盟國が離叛しないうちに、米國民は斷固立上らねばならぬ。

 「この危機は、我國の存亡のみならず、文明の將來が懸つてゐる。

 「あれこれ思ひ惱んでゐる暇などない。斷固決斷し、行動せねばならぬ」


 斯くて庶民は歴史に翻弄され續けるのです。


 私がつくづく殘念なのは、FDRが米國大統領として英佛を捲込み第二次大戰を強引に

 惹起したお蔭で、どれだけ多くの優秀な青年が子孫を殘さず死んで行つたか、といふことです。

 第二次大戰だけでなく、その續きとしての東西冷戰下でも、朝鮮戰爭を初め、多くの戰爭が

 起きました。

 何といふ無駄、何たる浪費!

 實 (まこと) に“神を恐れぬ惡業”であります。

 彼を“偉大な大統領”と信じてゐる人の氣が知れませぬ。

(平成29年6月30日/30年8月11日若干補筆)