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新井白石と痩我慢
伊原註:これは『關西師友』平成28年/2016年12月號に掲載した「世界の話題」(320) です。
伊原塾で江戸思想史を講義してゐて、そこから題材を得たものです。
江戸思想史を垣間見て、昔の人は命をかけて勉強してゐたことがよく判りました。
今は、押附けられて嫌々學ぶ若者が多いやうですが、
情報が溢れてゐて、知的好奇心が育つ餘地がないからでせうか……?
本を讀む若者が激減してゐるのは、實 (まこと) に殘念なことです。
痩我慢こそ男を男にする
この世に生を受けて八十餘年、數々の人生教訓を悟りました。
その一つが、「男は作られる」です。
女は子供を生み育てるから強い、肉體的にも精神的にも。
何よりも先づ、辛抱強い。
人は未熟兒として生れるから、親が附添つて育ててやらねばなりません。
母は自分の血を乳にして子供を養育します。
子供を守るため、生命力も生きる意志も男よりずつと強い。
男はひ弱で病氣しがちな上、うまく育てないと、強く立派になれない。
男をうまく育てるには、どうすれば宜しいか?
目標を與へて我慢させ鍛練すること、これに盡きます。
何かを慾しがつたとき、それを目標に獲得努力をさせるのです。
要するに、目的と我慢と鍛練です。
男でも女でも、駄目にするのは實に簡單。
欲望を直ぐに滿してやれば宜しい。
忽 (たちま) ち我儘で近所迷惑な存在になります。
一頃小學校で先生が
「君達は我慢せんで宜しい、努力せんで宜しい、あるが儘に時を過しなさい」
と指導して子供を墮落させました。
「偉い人にならんで宜しい」とも。
人は元來怠け者ですから、努力せぬ人は直ぐ墮落します。
また人の力は有限なので、
目標を立ててそれに向つて努力を集中しないと道は開けません。
そこで目標實現に役立つこと以外は禁欲して、力を節約するのです。
これでやつと、人は一人前になります。
人生、三分の一は修行時代、
三分の一は社會貢獻の時代、
殘り三分の一は奉仕の時代です。
私は人生に餘生はなく、死ぬまで世のため人のため貢獻し續けるべしと思ひますが、
世のため人のため貢獻するには、
修行時代に、餘程己の貢獻能力を磨いておかねばなりません。
(「貢獻能力」は、言換れば「稼ぐ能力」です)
「あるが儘でよい」など、とんでもない。
偉人傳を讀むと、若くして必ず目標を立てます。
少年よ、大志を抱け!
世に名を成す人は、必ず志(大目標)を立ててゐます。
その一例として、新井白石をとりあげませう。
新井白石は自傳を書きました。
『折たく柴の記』です。
現代語譯もあります。
桑原武夫譯です(中央公論社の日本の名著15『新井白石』)。
原文を讀みたい方は、岩波書店の日本古典文學大系95などを御參照下さい。
白石は明暦三年(1657)生れで享保十年(1725)まで生きました。
七十九年の生涯です。
幼少時は周圍に可愛いがられたものの、父が浪人してからは辛酸を嘗めました。
その中で文武兩道に勵みます。
白石は人並優れた資質に惠まれてゐたやうで、
數へ年三歳で字を書き寫し、
六歳で七言絶句の漢詩を暗誦して「この子は文才がある」と認められました。
嚴冬に水を被つて眠氣を覺ます
そんな白石の第一の挿話は以下の通り。
寛文三年 (1665)、白石九歳の年の秋、
父が仕へてゐた土屋殿が參勤交代から歸國した時に習字を命ぜられます。
「日課をたてて日のあるうちに行書草書の字三千、晩に一千字を書いて出すやうに」
との下命です。
冬になつて日が短くなると、日課が終らぬうちに日が暮れます。
そこで西向きにあつた竹縁に机を持出して書きました。
晩に手習ひしてゐると、眠氣を催します。
そこで水を二桶汲んで竹縁に置きました。
眠氣が襲ふと、着物を脱いで先づ一桶の水を浴びて手習ひを續け、
それでも軈 (やが) てまた眠くなるともう一桶の水をかぶつて
やつと一日分の課題を仕上げたさうです。
一日四千字の習字つて物凄い量ですが、これで白石は達筆となり、
十一歳頃以降、父の手紙の代筆を務めた──といふのですから驚きです。
延寶元年(1673)、白石十七歳の時、友人宅で中江藤樹の『翁問答』を見附け、
借りて讀んで儒學に志します。
短い文章ですから、白石の原文を引用しませう。
「初て聖人の道といふものある事をばしりけれ。
「これより道にこゝろざし切なりけれど、師とすべき人もあらず……」
そこで、白石の獨學による猛勉が始ります。
京都の醫者で少々學才ある人が土屋の殿の所に日參してゐた。
この人に學問への志を話すと、『小學』の題辭を講釋してくれました。
其後また程伊川の『四箴』を講義してくれたので、
やがて獨學で『小學』や五經も暗誦しますが、全て我流でした。
第二の挿話は、延寶五年 (1677)のこと、白石二十一歳の時の話です。
當時父は土屋家の内紛に連座して浪人となり、新井家は窮乏中です。
母千代と妹は窮乏の中で亡くなりました。
(榮養失調死?)
白石は寺子屋を開いて子供を教へつつ勉學に勵みます。
そこへ棚からぼた餅のやうな結構な話が舞込みます。
大富商の河村瑞軒、當時六十三歳が、白石を前途有望な青年と見込み、
學資の提供を申出るのです。
瑞軒の子が白石の學友となり、白石に傳へます。
「父が君を必ずや天下の大儒になる人と見込み、
「私の亡兄の一人娘と結婚させたいと望んでゐます。
「黄金三千兩と宅地をつけますから學資にして下さい──とのことです」
窮乏の只中で勉學に勵んでゐた白石にとつて願つてもない話なのに、白石は斷乎斷ります。
「御こゝろざしのほどわするべからず」と云ひつつ、かうつけ加へます。
「今この話を受けますと、將來名ある儒者となつた曉に大きな傷になります。
「三千兩もの大金をはたいて傷物の儒者を育てるのは間尺に合ひますまい。
「私も傷物になりたくありませぬ」
この話には、後日譚があります。
この挿話を引用した垣花秀武は、白石がこの話を受けてゐれば、
瑞賢と組んで事業家として大活躍してゐたらうと推察します。
さうは展開しなかつたものの、二人は互ひを心から尊敬し、
瑞賢は白石の潔癖さを吹聽(ふいちやう)してその立身出世を助け、
白石は瑞賢の業績を正しく評價する『奥羽海運記』『畿内治河記』を書殘した、と。
(『新井白石とシドティ』講談社、2000年、86頁)
清廉潔白で博學の大學者 新井白石
第三の挿話は、大大名前田家からの仕官の話を、同門の友に讓つた話です。
白石はやがて木下順庵の門下に加はります。
順庵は加賀の前田家に仕へてゐた人で、俊秀白石を前田家に推擧しようとします。
白石は應諾するつもりで居た所、
同門の加賀の人、岡島生が訪ねて來てかう頼みます。
「私の故郷加賀に老母が居ます。此の際是非私にそのポストをお讓り下さいませんか」
白石は快諾し、直ちに順庵に願ひ出ます。
「私の仕官先はどこでも構ひませんが、岡島さんには加賀しかありません。
「私の代りに御推擧下さいますやうに。
「今日からは、私を加賀に御推擧下さることは固く御辭退申し上げます」
「師の順庵は、「昔ならいざ知らず、今どきこんなことを申し出る者があるとは」と、」
涙を流して感激した由です。
以上の挿話から、白石が斷乎として儒學者を目指したこと、
それも單なる儒者ではなく、儒學が説く「聖人」たらんと慾したことが判ります。
白石は、荻生徂徠と並んで、實際の政治に關はつた儒學者です。
荻生徂徠は五代將軍綱吉、八代將軍吉宗の參謀役として、
白石は六代將軍家宣、七代將軍家繼の側用人として。
その際、白石は清廉潔白と、自らの哲學體系に基く判斷で一貫しました。
現實政治に關はつた儒學者として、白石の業績は注目に値します。
桑原武夫は白石の學問業績を評價して
「日本が持ち得た最も偉大な百科全書的文化人」
と規定し、當時の世界の代表的百科全書的文化人であるヴォルテール、フランクリン、
ライプニッツ、ロモノーソフ、顧炎武らに匹敵すると褒めます。
シドッティからの聞書きを和蘭人に確かめて西洋紹介の著書四册を書いた
「江戸期初の洋學者」
といふ評價もあります。
尤も、大石愼三郎は白石の施策を「總括的に言つて失政」と評してゐます。
經濟の實體がよく判つてゐなかつたからのやうです。
とにかく、頗る興味深い人物です。
(平成28年10月30日)