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我國を支へた武士魂
伊原註:これは『關西師友』2016年十一月號 8-11頁に掲載した
「世界の話題」319號の増補版です。
近現代史講座を續けてゐる伊原塾で目下「江戸思想史」を開設中なので、
そこから話題を得ました。
山本常朝の『葉隱』は、冒頭の一句「武士道とは死ぬことと見付たり」が
人口に膾炙してゐて、本文を讀まずに論評する人が多いです。
例へば、南開大學歴史研究所助教授の王家驊さんが書いた下記──
『日中儒學の比較』 (六興出版、昭和63年/1988年) の223頁に曰く、
「江戸時代には、在來の戰國的武士道を鼓吹する『葉隱』のやうな
「武士道理論は、なほ存在してゐたが、……」
「天下泰平」の御世に、それも元祿時代の繁榮を經た後に、
「戰國的武士道を鼓吹する」などといふ時代錯誤の事態がある筈がないのに、
「死ぬことと見付たり」の一句だけで早合點してしまふのは
學者・研究者として些か“問題あり”です。
戰國の爭亂から天下泰平へ
孫が成人し、曾孫(ひまご)が育ちつつある平成の世の中で
日本から天下の形勢を觀望してきましたが、
今更ながら「士魂」の大事さを痛感してをります。
武士の世の中は、農民の政權、鎌倉幕府に始りました。
それ以前の源平時代は、謂(い)はば“前史”です。
(平家政權は公卿化しました)
それ以後も、鎌倉室町時代は武家政治の勃興期で、
朝廷や公卿の權威はまだなかなかのものでした。
武家が國政の全權を握るのは、
應仁の亂後の戰國の爭亂を經て、コ川幕府が成立して以降のことです。
そしてその轉換期は、朝幕關係のみならず、武家にとつても一大轉換期でした。
何しろ、戰鬪を任務とし、戰鬪術(兵法)を不斷に鍛へておかねばならぬ武士が、
平和な時代を主導し維持する任務につかねばならなかつたのですから大變です。
これは武士にとつて悲劇といふべきか、將又(はたまた)喜劇といふべきか……?
講談本で傳へられる大久保彦左衛門の場合はかうです。
元和(げんな)偃武(えんぶ)(大坂夏の陣)のあと、武士は“劍術”に勵みました。
眞劍でも木刀でもなく竹を布でくるんだ竹刀で斬合の練習をするのです。
若者に試合を挑まれた彦左衛門は、道場で散々打ちのめされました。
憤激した彦左衛門は竹刀を捨て、腰の刀を抜き放ち、
「眞劍で來い、眞劍で。これなら絶對お前などに負けはせぬぞ」と吠えた──さうです。
劍術乃至劍道の修練が始るのは、戰國時代が終つてからです。
伊原註:室町時代後期の上泉伊勢守や戰國時代の塚原卜傳を先驅者として、
宮本武藏以下、劍客として名のある人は、
大方“元和偃武”のあとの出現であり、道場育ちです。
戰國末期に火繩銃が採用され、大坂城の攻防戰で大砲が有效に使はれてゐたのに、
江戸時代は銃砲を凍結して、專ら刀による斬合の稽古しかしなかつたのです。
斬合の修練とは、個人の精神修養の訓練でしかありません。
だから幕末の激動の中で斬合が復活するものの、
戊辰戰爭以降、銃砲を使つた集團戰鬪の訓練が戰術の中心課題になります。
戰國の爭亂で既にさうだつたのですから、これは當然のことです。
武士道と云は死ぬ事と見付たり
『葉隱』が冒頭で「武道の大意とは」の問に「死ぬ事と見付たり」(一の二)
と答へて見せたのは、ご存じの通り。
伊原註:『葉隱』の原典は下記參照──
『三河物語 葉隱』(岩波書店、日本思想大系 26、昭和49/1974.6.25)
優れた解説書は下記──
小池喜朗『葉隱の志:「奉公人」山本常朝』 (武藏書院、平成5/1993.6.7)
『葉隱』は、九州佐賀の鍋嶋家第二代藩主光茂の御側に仕へた山本常朝の話を、
常朝を崇拝する後輩 田代陣基が書き留めて十一の聞書にまとめた文書です。
語り手の常朝は萬治二年/1659年の生れで、
享保六年/1721年に亡(なくな)つてをります。
元祿を生きた天下泰平期の人が「死ぬ事」が大事と言ふ武士の生き方とは、
何を意味するのでせう?
『葉隱』の序の部分で常朝は
「毎朝佛神に念じ候」事として、以下の四箇條を擧げます。
一、於武道おくれ取申間敷事
二、主君の御用に可立事
三、親に孝行可立事
四、大慈悲をおこし、人の爲に可成候事
死んでは二以下がやれませんから、「死ぬ事」は覺悟です。
「前方に死て置」(十一の一三三)
これは「前以て死んで置く」、つまり、死身に徹することです。
「一生落度なく家職を仕おほす」(一の二末尾)ためです。
常朝は、
「甲冑」(亂世)と「如睦」(によぼく)(治世)、
「虎口前」(戰場)と「只今の疊の上」(平時の日常業務)
を峻別します。
(常朝の著書『愚見集』より)
そして、今更戰國の世に戻れぬのだから
「其時代々々にてよき樣にするが肝要也」(二の一八)と言ひ、
平和な時代の到來をちやんと心得てゐます。
但し、武士が「商士」になり「商(あきなひ)奉公」するやうな當世風の横行を慨歎し、
上記のやうに、踏み止まるべき一線として武士道を持出すのです。
常朝は、泰平の世の武士を奉公人と規定し、
泰平の世の武士道を「奉公道」と稱(よ)びます。
そして命をかけて主人に仕へ、御國(各藩)の發展に盡せ、と力説するのです。
常朝が考へ抜いた末にはたと得心するのが、君主に諫言して國家を治める事です。
「さらば一度御家老に成て見すべしと覺悟を極め申候」と述懷してゐます(二の一四一)。
泰平の時代に、武士が鬪ふのは喧嘩くらゐしかない。
喧嘩を賣られたら相手が何千人でも直ぐ打返せ、
迚(とて)も勝てさうにない、などと分別を働かせてゐては、恥になる。
打返して斬殺されても恥にはならぬ(一の五五)。
伊原註:喧嘩については、こんな話もあります(十の六四)。
松平相模守(因州鳥取城主)の家來何某が公用で京都にゐた時の話──
騷あり、「只今の喧嘩は松平相模守樣衆」との聲がした。
何某が驅けつけると、同藩の者が斬られ、相手が留めを差さうとしてゐた。
彼は直ちに相手二名を打留めて歸宅した。
軈(やが)て奉行所より呼出しあり、
「朋輩の喧嘩に加擔して御法度に背いたな」と決めつけられた。
何某、辯明して曰く、
「御法を破り、掟に背くと言はれましたが、
「私は全く法に背かず、掟を破つてはをりませぬ。
「人も生類も命を惜しみますが、私は特に命を惜しみます。
「さりながら、朋輩が喧嘩中と聞いて知らぬ顔をしては
「武士道に背くと思ひ、其の場に驅附けました。
「朋輩が討たれたのを見ておめおめ歸れば
「命は長らえても武士道が廢(すた)ります。
「武士道を守つて大事な命を捨てました。
「武士の法を守り、武士の掟に背かぬためには、一命を捨てます。
「早々に御仕置き仰附けられますやうお願ひ申上げます」
最後の締めくくりは、原文通り漢字だらけで引用します。
(これが讀めぬやうでは、日本の知識人とは言ひ兼ねますぞ!)
御奉行衆御感心被成、其後何の御構も無之、相模守殿御方へ、
「能(よき)士を御持被成候。御秘藏被成候樣に」と被仰越候由。
武士道、ここに在り、といふお話であります。
この喧嘩論に續く常朝の赤穗浪士論もなかなかユニークです。
「淺野殿浪人夜討も泉岳寺にて腹切ぬが落度也。
「又、主を討たせて敵(かたき)を討こと延々(のびのび)也。
「若其中に吉良殿病死の時は殘念千萬也」
江戸時代は、戰鬪者の筈の武士が天下泰平の世の中を統治した時代です。
その武士は、米經濟に乗つかつてゐたが故に商業や手工業の發達から取殘され、
貧乏を餘儀なくされました。
明治二年/1869年に版籍奉還といふ領地獻納がすんなり實現したのは、
各藩の家來である武士達も借金漬けでした。
物價が上がるのに給與は定額の儘。
その上、財政窮乏した藩からは給與を三減・四減・半減されたので
借金を返す當などまるでなし。
「武士は喰はねど高楊枝」といふ痩我慢にも限度があります。
伊原註:常朝は父 山本神右衛門の言葉として、かう書留めてゐます(一の六十)。
「士は喰ね共、空楊枝。内に犬の皮、外は虎の皮」
それでも武士の誇りを貫いた生きざまは見事でした。
この士魂が明治時代以降の我國の近代化を支えます。
指導層の清廉潔白です。
公正さです。
汚職の尠さです。
司馬遼太郎は武士を讃(たた)へ、
「侍の定義は公のために盡すものであるといふ以外にない」
と書いてゐます(『世に棲む日々』)。
伊原註:それに引換へ、世界の金融を牛耳る連中のあの貪欲さはどうですか。
たつた一年働いただけで億單位のボーナスを貪つて恬(てん)として恥ぢない。
資本主義經濟は、“強欲”が罷(まか)り通つてはうまく機能しません。
マックス・ウェーバーは
「賤民資本主義」 Paria-Kapitalismus と稱して
邪道と切つて捨てました。
「賤民」とは、印度のカースト以下の“不可觸賤民”のことです。
米國大統領候補にトランプの如き異端兒が現れたのは、
強欲資本主義を憎む貧民の“怨念”の祟りです。
二世紀續いたアングロサクソンの世界支配は、
強欲資本主義といふ“化け物”を呼び出して、今や崩壞に瀕してゐます。
武士の統治により發展した我國
新渡戸稻造は明治三十二年/1899年に『武士道』を英文で著作し、
各國語に譯されて世界の讀書人を感嘆させました。
執筆の動機は、著者の序文に明かです。
新渡戸稻造がベルギーの法學教授のお宅に數日泊めて貰つた時に、
その教授ド・ラヴレー氏から散歩の途次、以下の質問を受けました。
「貴國は宗教教育なしにどうして公衆道コが守れるのですか」
新渡戸稻造は、この問に即答できず、考へ込みます。
私 (新渡戸稻造) が學んだ道コの教へは、學校で學んだものではない──
斯くて武士道に思ひ至つた由です。
伊原註:新渡戸稻造の『武士道』は、岩波文庫(矢内原忠雄譯)など各種ありますが、
台灣の李登輝元總統の解説本も有名です。
『武士道解題:ノーブレス・オブリージュとは』(小學館、平成15/2003.4.10)
私は、明治維新が「王政復古」を唱へたのは間違ひと思ひます。
王政復古とは、鎌倉幕府以降の武士の統治を否定して、
天皇の直接統治に戻すといふ意味ですが、天皇は君臨しても統治はしてゐません。
「輔弼」(ほひつ)といふ名で臣下が統治しました。
そして昭和に入ると、軍部が「統帥權獨立」をたてに獨走して敗戰を招きました。
鎌倉以來の武士政權の統治は、國難を防ぎました。
元寇を切抜けられたのは、武士政權だつたからです。
戰國末期に南蠻人がやつて來ます。
宗教改革に對する捲返しで世界をキリスト教國にすることを目指す
イェーズス會の宣教師が先頭でした。
彼等は、イスラームに對する捲返し運動「國土奪回」(レコンキスタ)の延長上に、
世界征服運動を設定したのです。
「地理上の發見」とか「大航海時代」といふのは、
スペイン・ポルトガルを先頭とする
彼等は初めから、全世界を占領・征服・教化するつもりで來てゐたのですよ!
イェーズス會(最初に來たのがフランシスコ・シャヴィエル)の背後に
、ポルトガル國王とローマ教皇がゐました。
教皇は大勅書で異教世界をスペイン・ポルトガル兩國で分割征服する許可を與へます。
地球を二分割して兩國に半分づつ權益を認めたのはご存じの通り。
スペイン・ポルトガル兩國はトリデシーリャス條約を結んで、
富の源泉地アジアを東西兩方向から目指しました。
伊原註:彼等は「インド」を目標にしました。
そしてアメリカ大陸にぶつかり、そこをインドと信じたので、
「西インド」「東インド」と使ひ分けることになつたのです。
彼等の言ふ「インド」とは、東南アジアやシナ日本を含むアジアのことでした。
インドは香料の集散地、
東南アジアは香料の原産地、
シナは當時の世界最富裕國で絹や茶の産地、
日本はマルコポーロの言ふ金の國 (實は銀産國) でした。
この南蠻人の渡來に動じなかつたのが、戰國末期の我國でした。
それでも、フェリペ二世の侵略計劃を見抜いた信長・秀吉は、
偵察用の前進基地を獲得すべく、ポルトガルの印度基地ゴアを目指します。
秀吉のバテレン追放と、所謂「朝鮮征伐」は、その前提作業でした。
伊原註:秀吉とフェリペ二世は同時代人です。特に死んだのは同じ年です。
フィリピンがフェリペ二世に因んで名附けられたことは、ご存じの通り。
秀吉がバテレン追放令を出す契機は、イェーズス會士の日本人奴隷狩りです。
何十人、何百人と日本人を買ひ集めては東南アジアに賣り飛ばしたのです。
これについては、下記參照──
岡本良知『十六世紀日歐交通史の研究』
(原本:昭和17/1942年、復刻:原書房、昭和49/1974.11.4)
第三編第四章 日本人奴隷輸出問題
以上のやうな古い話を持出したのは、昔も今も、
國家の安全保障は、武裝 (報復力) なしには確保できない、と言ひたいためです。
戰後の我國は、米國占領軍の日本無力化政策のため、
軍事問題を棚上げして現在に到つてゐます。
伊原註:今に到るまで、我國の大學では軍事學を締出した儘です。
自衛隊関係者の大學院受入れも拒んだ儘です。
國際關係の教授が學生のため、ゼミに自衛隊關係者を呼んだだけで大問題になります。
これほど國防や安全保障を疎かにする國は珍しい、といふ状況にあります。
私は若い頃、日本國際政治學會で、
ある有力教授から「平和研究會」への參加を要請されました。
私は「戰爭研究會なら喜んで參加するが、平和研究會には興味はありません」と答へ、
この話は沙汰止みになりました。
でも今や、國際状況は樣變りが甚だしい。
米國は「世界の警察官を止める」といふし、
日本の周りにはロシヤ・中國・北朝鮮と核武裝勢力が犇(ひしめ)いてゐます。
戰後の我國はひたすら米國にすがりついて來ましたけれども、
米國が「世界の警察官」を止めれば日本は軍事的に丸裸になりますが、
どうすればよいのでせうか?
どうすればよいと、皆さんはお考へですか?
士魂を取戻すほかない、
──といふのが、この文章で私が言ひたいことです。
弱い人が力を持つと横暴になります。
強い人は、弱者に優しい。
「生兵法は怪我の元」でして、近所迷惑な振舞をするのは、中途半端に強い人です。
本當に強い人は無闇に喧嘩しませんし、弱者を勞(いたは)ります。
強くなりませう。そして
士魂を取戻しませう。
(平成28年10月8日/同11月4日補筆)