ロシヤに賢人は居ないのか? - 伊原教授の読書室

> コラム > 伊原吉之助教授の読書室




          ロシヤに賢人は居ないのか?




伊原註:これは、『關西師友』平成28年/2016年十月號 8〜11頁に載せた

     「世界の話題」318 です。

     少し手を加えてあります。








   未だに“戰後”が續く我國


 「もはや戰後ではない」と斷言したのは、昭和31年の「經濟白書」でした。

 戰後の國民所得が戰前最高の昭和9年〜11年平均を恢復したからです。

 でもこの恢復は經濟面だけで、政治・外交・防衛面では戰後はまだ續行中です。


 對米關係ではまだ準占領状態が續いてゐます。

 續いた一つの理由は、日本を抑へ續けたい米國の意向を體して、

 媾和條約後に即廢止すべきであつた占領法規を、獨立後も後生大事に保持したからです。

 これでは“戰後”は終りません。


 特に“新憲法”は占領基本法に過ぎませんから、

 媾和條約を結んだあと、早期に廢棄を宣言すべきでした。

 “日本が主權を喪失してゐた占領期に公布された諸法規は、獨立後、全て無效とする。

 “但し、新法を制定するまでの間は、便宜的に有效と認める”

 と内閣が宣言すれば良かつたのです。


 無效な“新憲法”は改正してはいけません。

 改正では“新憲法”の有效性が維持されるからです。

 では新憲法を制定するか?

 占領後、國益を損ふ反日日本人が増えたので、條文の審議はとめどない論戰に堕します。

 不毛な憲法制定論議は回避して、新憲法は制定せず、慣習法で行きませう。

 我國にはそれだけの歴史の厚みがあります。

 我國は百十五代續く天皇を擁する由緒ある國ですから、

 英國同樣、憲法は慣習法で運營しませう。


 對米關係のもう一つの問題は、安全保障問題です。

 米占領軍が“新憲法”により日本に戰爭も軍隊保持も禁じ、

 對米依存の“保護國”にしました。


 朝鮮戰爭後、準警察力として自衛隊を持ちましたが、軍事力は米軍に從屬した儘です。

 それが、オバマ大統領の「米軍は世界の警察役を止める」宣言で、

 日本は防衛を米軍に頼れなくなりましたから、自立せざるを得ません。


 占領状態からの脱出と安保體制自立で對米關係はやつと正常化しますが、

 戰後の未處理問題がしぶとく殘るのが對露關係です。


 あの戰爭がポツダム宣言受諾で終つて既に71年經つのに、

 ロシヤとは平和條約をまだ結んでゐません。

 これはロシヤ側に重大且つ決定的な責任があります。


 我國がポツダム宣言を受諾し、武器を置いたのに、

 ソ聯はなほ九月二日の米戰艦ミズーリ號上で降伏文書に調印するまで戰鬪行動を續け、

 領土を擴張してゐたのです。

 其後のシベリヤ抑留も理不盡極まります。


 その結果、日ソは

 昭和31年(1956年)の日ソ共同宣言で戰爭状態に終止符は打つたものの、

 平和條約は未締結の儘で終始しました。

 その間に、ソ聯は敢なく潰れてしまひました。


 今、日露兩首腦は漸く平和條約締結に向け、日露關係正常化を目指してゐますが、

 正常化の條件は、“北方四島”問題の解決に留りません。

 もつと根本的な問題が介在します。



   ロシヤの太平洋國家への道


 ロシヤが生延びる道は、太平洋國家になるしかないと私には見えます。

 昔、ピョートル大帝は海を通じて西歐諸國との關係強化を計りました。

 サンクトペテルブルクはそのための首都でした。


 今や世界は太平洋時代。プーチン大統領がロシヤの生存發展を望むなら、

 ウラヂヴォストークを新首都に、太平洋への發展を圖るべきです。


 大陸國中國も太平洋進出を策してゐますが、國際ルールを守らぬ近所迷惑な存在です。

 ロシヤが太平洋に發展したければ、國際ルールを守り、海洋國日本と結ぶが宜しい。


 ロシヤは西の歐洲近接部分・東の極東部分・その中間のシベリヤ部分の三つから成ります。

 この極東部分が物凄い過疎地帶。それが人口過密の中國と接してゐて、

 ロシヤが中國と組むと中國人の浸透により、極東管區は中國人居住區と化す虞れがあります。

 曾て清朝から奪つた極東沿海州地區は中國に里歸りするかも知れません。

 ロシヤがシベリヤ管區・極東管區を保持したければ、

 領土的野心のない太平洋國家日本と組んで、米國を含む太平洋諸國と交流するのが宜しい。



   ロシヤが日本と組むための條件


 ロシヤが日本と結ぶには、日本側に重大な障碍があります。

 戰前戰後に舊帝政ロシヤやソ聯のスターリンが日本に對してやつた“理不盡”が、

 日露の圓滑率直な交流を阻んでゐるのです。

 この儘では、日本人は素直にロシヤと友好關係を結べません。


 ニコライ二世の帝政ロシヤがやつた理不盡は、日本が先に發見し利用してゐた樺太を、

 強引に後から來たロシヤのものにしたことです。

 明治八年(1875年)の樺太千島交換條約は、

 強國ロシヤが弱國日本から樺太を強奪したに等しい事態です。


 樺太が島であることを確認し、地圖まで文化六〜七年 (1809-1810年) に作圖したのが

 日本人間宮林藏であることはご存じの通り。だから「間宮海峽」に名を留めてゐるのです。


 その事實を世界に最初に報告したのが、ジーボルトの『日本』です。

  (『日本(一)』第一編第五章 日本人による自國領土およびその近隣諸國・保護國の發見史の

   概觀、雄松堂書店、昭和52年、及び『日本(六)』第十二編第一章 樺太と黒龍江地方について

   の情報。『東韃紀行』即ち間宮林藏による東タタリアの紀行、昭和54年)。


 ジーボルトの『日本』の初版は、天保三年 (1832年) に刊行を始めた全二十册版、

 その後編輯し直して全七巻のコーリッチ版が刊行を始めたのが1852年のことです。

 ロシヤは當時、極東に關心を高めてゐましたから、二十册版刊行開始の二年後の

 1834年に政府がオランダ政府を通じてジーボルトをサンクト・ペテルブルクに招いてゐます。


 コーリッチ版の刊行が始つた 1852年の末にジーボルトは再度ロシヤ政府に招かれ、

 ペテルブルクを再訪してゐます。

 ロシヤが如何に極東の地理に敏感であつたか、お判りでせう。

 だから『日本』の露譯が 1853年 6月に三巻に纏めて出てゐるのです(神奈川大學所藏)。


 その露譯に、間宮林藏の名は絶無です。

 ロシヤの樺太領有に不都合だつたから削つたとしか考へられません。

 ロシヤ政府が樺太に軍隊と囚人をせつせと送り込んだのは、

 領有の實績を稼ぐためだつたのでせう。


 その“囚人の島”樺太の視察紀行を書いたのがチェーホフです。

  (『サハリン島 (上下)』岩波文庫、1953年初版)


 チェーホフは極東に旅する前に周到に事前調査をしました。

 彼はドイツ醫學を學んだ醫者なので、ジーボルトのドイツ語版『日本』を讀んでおり、

 露譯が消した間宮林藏とその樺太發見について熟知してゐました。

 だから『サハリン島』にもちやんと出て來ます。

 でもそれは帝政ロシヤの國策に反するので、

 チェーホフは『日本』の記載を克明に紹介しながら、ジーボルトの名は一切出さないのです。

 だからロシヤ人は、帝政ロシヤが樺太を日本から強奪したことを知らぬ儘です。

  (長瀬 隆『日露領土紛爭の根源』草思社、平成15年/2003年、參照)


 日本は、日露戰爭でやつと南半分を「取戻した」のですが、樺太全島は取返せぬ儘でした。


 スターリンの理不盡は、帝政ロシヤに輪を掛けて、樺太ばかりか千島列島まで奪ひます。

 それに六十萬も(實は百五萬人とも言はれる)の日本人のシベリヤ抑留!


 上記のやうなニコライ二世とスターリンの横暴をその儘放置しては、

 我國はロシヤとは親密になりやうがありませぬ。


 妙案があります。

 ロシヤが自發的に千島列島と樺太全島を日本に贈與すれば、

 日本人は過去を水に流してロシヤを大歡迎するでせう。

 日露關係は萬々歳、末永く友好關係を保ち、

 ロシヤは對日友好を通じて歐米とも友好關係を實現し、

 中國との紛爭も避けて前途洋々といふことになりませう。


 ロシヤが北方四島を餌に、日本から金と協力を引き出さうといふけちな考へでは、

 我國はロシヤに經濟協力などできません。


 昭和6年/1931年樺太生れで終戰後の苛酷なソ聯占領を經驗した長瀬 隆さんは、

 かう書きます。

  「日露の問題は、その最初の最初、即ちジーボルトまで遡らないと解明されない。

  「またその眞の解決は、ロシヤがチェーホフとレーニンに從はぬかぎり、

  「もたらされることはない」と。

  (上掲:長瀬 隆『日露領土紛爭の根源』 162頁)


 千島・樺太と、極東管區と、その廣さと重要性はどちらが大きいか。

 それが判る賢人が、ロシヤに居るのやら居ないのやら……?

(平成28年9月11日執筆/同年10月3日加筆)