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便利快適と人の幼稚化・盲目化
伊原註:これは『關西師友』2016年九月號 8〜11頁に掲載した
「世界の話題」317 に少し加筆したものです。
一生に三生を生きた我が生涯
昭和五年/1930年生れの私は、舊制中學四年生で敗戰を迎へました。
米軍が本土に近づき、あと一年も生きられまいと覺悟してゐたら
ポツダム宣言受諾で生き延び、夢中で生きて來て今や何と八十六歳、
あの激戰のあと、かくも長生きするとは思ひも寄りませんでした。
福澤諭吉は明治の世に生きて「一生に二生を生きる思ひ」と述懷しました。
コ川封建時代と明治の文明開化の二つの時代を生きたといふのです。
これに倣つて言へば、私は「一生に三生を生きる思ひ」をしたことになります。
私の生涯で言へば、戰前と戰後、戰後も高度成長までとそれ以後の三生。
同じ戰後でも、高度成長までとそれ以後とでは、まるで別世界です。
「時代の變遷」となると、區切りは、これとは別になります。
私は經濟學を學び、大學で「近代の經濟と經濟思想」長年擔當して
「工業社會の成立と展開」について講義して來ましたから、
經濟史を軸とする人類史が視野にあります。
そして平成十二年/2000年に七十歳で退職してからは、
世界文明史の近現代部分を見直し續けてゐます。
さういふ私の近頃の感懷は、
「世の中、變つた」「そのなかでも人が一番變つたなあ」
といふものです。
世間は文明開化によつて便利快適になり、そのお蔭で人が隨分幼稚化してきました。
ですから、孫や曾孫(ひまご)が生きる世の行く末が氣になつて仕方ありません。
轉機(1) 産業革命が齎す豊かさ
私の「三生」の轉機は敗戰と戰後の高度成長ですが、
人類文明史の轉機は産業革命(工業化)とコンピューターの登場です。
コンピューターは、萬物をブラックボックス化しました。
その構造が判つてゐる專門家と、
中味は判らずただ使つてゐるだけの素人とでは
「人種」が全く違ふのです。
工業化前は農業と手工業の時代です。
ここで豊かになるには、人を雇ふか家來にして仕事をさせました。
だから誰もが豊かにはなれませんでした。
全員殿樣にはなれぬからです。
(家來が居るから殿様なので、家來は全員殿様にはなれません)
でも機械に仕事をさせると、
エネルギー(石炭、石油等々)さへ續けば、人は全部豊かになれます。
豐さが全體に及ぶのに時間がかかるので、産業革命が成熟するのに一世紀かかりました。
十九世紀に工業化が進展し、幾つかの列強(先進國)を生みます。
二十世紀に列強は庶民まで豊かな國になります。
(米國は第一次大戰後、日歐は第二次大戰後)
この豊かさの代償は、エネルギーと物資の浪費です。
大量生産−大量消費−大量廢棄による物資循環の滯り。
人の育ち方も激變しました。
工業化前は農業社會、人々が動植物と共存した時代です。
工業化は、豊かな物的生産を齎す代償として、
都市といふ人工環境に住民が集中し、他の生物との共存が減ります。
私の子供時代、都市の中にも田畠が一杯あり、植物も動物も子供たちと一緒に育ちました。
人の子は裸足(はだし)で走り回り、泥んこになつて遊び惚(ほう)けました。
工業化が進むと、都市住民が殖えるものの、みな田舎に故郷がありました。
高度成長で經濟が重化學工業化した後は、
都會生れ都會育ちが殖え、田舎と無縁の根無し草が激増します。
都會は住むに便利快適ながら子育てに向かない。
子供は同年配とほたえて走り回り、生き物と共に育つのが望ましい。
(子供が育つには、原つぱと友達が必要不可缺なのです)
(昔は到る所に原つぱがあり、道が子供の遊び場でした)
(高層ビルで赤ん坊を育てると、いつも搖れてゐるので情緒不安定になる由)
私は海で泳ぎを覺えました。
私の子供たちはプールで泳ぎを習つたので、海が苦手です。
「海には波がある」とぼやく。
あつたり前と私は思ふが、子供は思はない。
高度成長以前と以後では、人の質が違ひます。
動植物どころか、兄弟と一緒に育つ子も激減しました。
近所の餓鬼大將集團も姿を消しました。
通りが子供の遊ぶ場所でなくなつて久しい。
自分で作つたものでなく、人が作つたもので遊ぶ。
今の子供は子供同士でより、大人や機器相手に個室で過します。
これは宜しくない。
人間性がまともに成長しませんから。
轉機(2) コンピューターが人を使ふ
轉機の二つ目は、高度人工環境の登場です。
そしてその主役は電算機、つまりコンピューターです。
農業時代も輕工業時代も、人が何をしてゐるかは、見れば判りました。
重化學工業化から情報化時代は、一見しただけでは何をしてゐるか判りにくくなります。
その走りがサラリーマンです。
机に坐つて書類を見たり電話を掛けたり。
(このやうな作業は、江戸時代の武士の官僚化に始りました)
仕事の抽象化は、コンピューターの登場で極まります。
零戰の飛行士は敵機を視認して近づき撃墜しましたが、
灣岸戰爭では電算機の指示で釦を押すだけ。
戰鬪行動も頗る抽象化したのです。
私は戰時中、ラヂオ少年でしたから、
戰中戰後、近所の人たちのラヂオを修理してあげました。
でも民放が始り、受信機が複雜化すると修理が難しくなる。
テレビの登場で素人と玄人の區別がもつと嚴しくなりました。
更に進むと、故障修理は專門家でも難しくなり、買換へるほかなくなります。
素人と玄人 (專門家) の差が隔絶するのです。
民主主義や投票行動も隨分變りました。
ギリシャの昔、或は開拓時代のアメリカでは、直接民主主義が基本でした。
參加者が互ひの顔を見ながら討議し、投票して對策を決め、皆で實行します。
でもそれは精々何千人以下の小集團だけ。
成員が何百萬、何千萬の大社會では、代議制を採用せざるを得ません。
それでも輕工業時代くらゐまでは、普通の社會人なら世の中の仕組が理解できました。
我國でいふと、日露戰爭邊りまでです。
重化學工業社會となり第一次大戰が總力戰化すると、
戰時は人が指圖する統制經濟が登場し、
玄人の筈の專門家にも、複雜化した世の中の仕組は理解しにくくなります。
昭和の金融恐慌は、專門家にも金本位制の意味が理解し兼ねた錯誤の産物です。
この錯誤により、第一次大戰後、各國は爭つて金本位制に戻つて世界大不況を惹起し、
その解決が第二次大戰直前まで長引きます。
ご存じの通り、ケインズの『一般理論』の出版が1936年、
ドラッカーの『經濟人の終り』が1939年、第二次大戰勃發はこの同じ年です。
世の中を動かす側と動かされる側
私は昨年、大阪驛前で月一度開く「伊原塾」で
「長い十九世紀:總力戰への道」と題して六回に亙り、
ナポレオン戰爭から第一次世界大戰まで講義して、
將軍がいかに「古い戰爭」に囚はれてゐるかを知つて一驚しました。
彼等は新兵器を喜びません。
使ひ慣れた武器を使ひ、使ひ慣れた戰法で鬪はうとするのです。
十九世紀は工業化の時代であり、武器も急改善します。
ナポレオン戰爭では大砲が活躍するものの、小銃は先込めの火繩銃でした。
それが十九世紀半ばのクリミア戰爭では
英佛聯合軍は先込めながら撃發式ライフル銃を使ひ、
露軍を壓倒する大量殺戮を見せます。
特に佛ミニエー銃の集團射撃は「機關銃」的大量殺傷效果を發揮します。
十九世紀後半に登場した機關銃は、殺傷效果の絶大さに、白人同士の戰鬪には使はず、
アフリカの土人相手にだけ使ひました。
機關銃を白人相手に使つたのは、日露戰爭の日本軍が初めて、
白人同士での機關銃使用は、第一次大戰が最初です。
その第一次大戰で、
英軍は一世紀前のナポレオン戰爭と同じ歩兵の密集隊形でドイツ軍陣地に迫りましたから、
大量殺戮が相次ぎます。
人の意識は斯(か)くの如く變りにくいのです。
だから民主主義と投票行動も變りにくい。
その變りにくい投票行動に最近異變が現れ、
一國の指導層と大衆の意識に大きな“ずれ”が目立ち始めました。
イギリス保守黨のキャメロン首相が國民投票の結果を讀み損ねて
英國のEU離脱騷動を惹起したこと、
アメリカの大統領豫備選擧で罵詈雜言を繰返し、泡沫候補として途中で消える筈の
トランプ候補が共和黨の大統領候補に選ばれてしまつたなどの異變は、
民主主義と投票行動がこれまでと違つてきたことを暗示します。
結論:いま、「ノー」と否定する大衆が目立つてゐますが、
どうすれば良いかといふ改善案は、
優れてゐる筈の指導者にも見附けにくい混沌たる世の中になつて來ました!
(平成28年8月5日執筆/同年10月2日加筆)