現代假名遣の出鱈目さ - 伊原教授の読書室

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           現代假名遣の出鱈目さ




伊原註:これは『關西師友』平成28年/2016年七月号 10-13頁絅斎の

    「世界の話題」315 の採録です。

     少し加筆してあります。





    “現代假名遣”の出鱈目さ


 前號で、戰後の國語改變は、

 日本文化破壞を目指す米占領軍の謀略と思つてゐたが、

 明治維新後に文明開化時代に相應(ふさは)しい“標準語”

  (と當時言ひましたが、其後「共通語」と言換へられます)

 を創り出さうとした國語學者の“念願”だつたと判明したことに言及しました。


 その續きで、

 これら國語學者の努力が「現代假名遣」といふ日本文化の破壞になること

 について、書いておきます。


 私が現代假名遣について一番違和感を感ずるのは、

 「ぢ」「づ」を使はず、「じ」「ず」で代行させる點です。


 さ行は摩擦音ですから持續できます。

 た行は破裂音ですから持續しません。

 それぞれの濁音も同じです。


 この濁音の「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の發音が室町時代末期から近くなり、

 江戸元祿以降區別がつかなくなりました。

    (山口仲美『日本語の歴史』岩波新書、一三二頁)。

 現代假名遣では「ぢ」「づ」を使はず、「じ」「ず」に統一します。

 これに私は我慢がならない。

 統一するなら「じ」「ず」を止めて「ぢ」「づ」を使ふべきです。


 皆さん、ご自分で發音して御覧なさい。

 元祿以降、區別されなくなつた「じ」「ぢ」「ず」「づ」は、

 一律破裂音になつたのです。

 それを摩擦音「じ」「ず」で表記させるのは奇怪至極、

 發音にこだはる合唱團員として、斷じて承服できません!


 明治以降、外國語の音を假名書きする必要が出て來たのですから、

 摩擦音のさ行と破裂音のた行の區別は殘しておくべきだつたと考へます。


 フランス語の一人稱jeは摩擦音ですから

 「ヂュ」と區別した「ジュ」で表記せねばなりません。

 それなのに「ヂュ」を代表する「ジュ」で表記さすから、

 日本人の外國語發音が愈(いよいよ)出鱈目になるのです。


 この區別が無くなつたのは、發音をサボった結果です。

 戰前あつた「くわじ」(火事)「くわんさい」(關西)の發音が

 戰後「かじ」「かんさい」になつたやうに──。


 小學校で「さ行は摩擦音、た行は破裂音」と教へれば、サボってゐた發音が復活します。

 小學校から英語を教へようといふ時代ですから、

 「ぢ」と「じ」の發音上の區別を復活させた方が良いのです。



    元祖五十音圖からの變化


 國語の音の基本は五十音圖に示されます。今の五十音圖は次の通り。


    あ(a)い(i)う(u)え(e)お(o)

    か(ka)き(ki)く(ku)け(ke)こ(ko)

    さ(sa)し(ʃi)す(su)せ(se)そ(so)

    た(ta)ち(tʃi)つ(?u) て(te)と(to)

    な(na)に(ni)ぬ(nu)ね(ne)の(no)

    は(ha)ひ(ʕi)ふ(ɸu)へ(he)ほ(ho)

    ま(ma)み(mi)む(mu)め(me)も(mo)

    や(ja)    ゆ(ju)    よ(jo)

    ら(ra)り(ri)る(ru)れ(re)ろ(ro)

    わ(wa)

    が(ɡa)ぎ(ɡi)ぐ(ɡu)げ(ɡe)ご(ɡo)

    ざ(d͡za)じ(d͡ʒi)ず(d͡zu)ぜ(d͡ze)ぞ(d͡zo)

    だ(da)        で(de)ど(do)

    ば(ba)び(bi)ぶ(bu)べ(be)ぼ(bo)

    ぱ(pa)ぴ(pi)ぷ(pu)ぺ(pe)ぽ(po)


 ここで、合唱團員からの文句が一つあります。

 國語のら行をr(アール)で示すのは、

 明治時代に最初に五十音圖をローマ字化したヘボン(ヘップバーン)先生ですが、

 これはl(エル)で表示すべきでした。


 ら行は舌先を輕く歯の裏に附けて發音します。

 rは舌先が全く歯に附きませんから、歯に附くlの方が似合ひます。

 ローマ字のlは、舌の前半が歯の根本にべつたり附く濃厚な發音ですけれども、

 全く附かぬrよりは、ら行に相應しいのです。


 

  子音がhで一貫してゐませんね。

 これは元來、hでなくpで表すべき發音でした。

 つまり、「はひふへほ」を「ぱぴぷぺぽ」とp+母音で發音してゐたのです。

 だから奈良時代に母の音はパパでした。

 それが室町時代から江戸初期にファファ(ɸaɸa) になり、

 江戸後期以降はは (haha) になつた。

 「ぱ」は兩唇がしつかり合はさります (破裂音)。

 「ふぁ」は附かず離れず (摩擦音)。

 「は」は全く附かない。

 日本人は時代と共に唇を使はぬやうになつたのです。

   伊原註:そのため、日本語を話す人の「讀唇術」は

       極めて難しくなりました。


 「は」を「ぱ」と發音したことは、

 第百五代の後奈良天皇(在位1526−1557)が永世十三(1516)年に編纂した

 『何曽』(なぞ)といふ謎々集に、

 「母には二度會ひたれども、父とは一度も會はず。何か」(答=唇)

 といふ謎掛けがあることから判ります。


 

  「グリムの法則」なる言語變化の法則があつて、

 p → ph → h → 無聲化と變る由。發音さぼりの法則です。

 フランス語でhが十六世紀頃以降、無聲化してゐることは、ご存じの通り。



    現代假名遣の出鱈目・好い加減さ


 扨(さ)て、私が言ひたいのは、現代假名遣の好い加減さです。

 發音通りに書くと言ひながら、「私わ」と書かずに「私は」と書く。

 「どーぞ」と書かずに「どうぞ」と書かせる。

 「お」と「を」は同じ發音なのに併存してゐる。

 いかにも“無原則”です。

 極めて便宜的でその場凌ぎ、はつきり言つて出鱈目です。


 文語文では「出ず」は「いでず」と否定であり、

 「出づ」は「いづ」で出發を意味しますが、

 現代假名遣は文語との關連を全く無視してゐます。


 歴史的假名遣は、原日本語の面影を留めてゐるので、

 勝手に改めてはいけないのです。


 私が現代假名遣で一番我慢ならぬ事態は、冒頭に書いたやうに、

 江戸時代に發音を區別しなくなつた「じ」「ぢ」と「ず」「づ」を、

 日本人の殆どは破裂音「ぢ」「づ」で發音してゐるのに、

 書くときは摩擦音「じ」「ず」で代表させる點です。


 我國の國語學者は、國語をおもちやにしてゐる!

 彼らに大事な國語の表記法・學習法の指導を任せられない!


 片假名を教へず、子供にとつて識別しにくい平假名から教へ、

 表現力豐な漢字を制限して語彙を減らし、日本人の思考力を淺薄にしてゐる!


 日本語に主語は要らぬとする三上文法を、

 提唱者が學界人でないからといふだけの理由で採用せず、

 漢字を兒童は教へればどんどん覺え、

 漢字を制限した儘、現在に至つてゐます。


 最近、改めて金谷武洋『主語を抹殺した男──評傳三上章』(講談社、平成18年/2006年)

 を再讀し、三上文法を無視し續ける我國の國語學界の偏狹さに憤激を新たにしました。


 金谷さんが明かにしたやうに、主語を必要とする歐米の文法は特殊なのです。

 その英文法を國語に強引に適用したのが橋本文法であり、學校文法なのです。

 動詞が活用するので、主語なしでは文章が組立てられない。

 だから歐文では主語が眞先に來る。

 主語が必要ない「雨が降る」でも、動詞の活用形を決めるため、

 無理に主語itを附けて□It rains.□ とやる。

 さういふ“特殊な”英文法を、

 異質な日本語に無理に適用したのが、橋本文法であり、學校文法なのです。


 國語は我が國民全部にとつて大事です。一握りの國語學者に任せておけない。

 戰前の國語を讀めなくする戰後の國語教育を改めませう。

 語彙を激減させ、知識人の思考を輕佻浮薄にする漢字制限をやめませう。

 これは、現憲法破棄・新憲法制定の必要に匹敵する大事です。


 占領中に採られた數々の日本文化捩じ曲げ措置を早急に改めないと、

 日本人が日本人でなくなります。

   伊原註:もうとつくの昔にさうなりつつあります。

       テレビのアナウンサーの國語が

       耳から入つた言葉でなく、

       文字 (漢字) を勝手に讀下す變な日本語になつて久しいのです。

       初孫を「うひまご」と讀まず (讀めず)、「はつまご」と讀む。

       曾て/嘗てを「かつて」と讀まず、「かって」と詰まる。

       白露を「しらつゆ」と讀まず、「しろつゆ」と讀む。

       「白雪姫」を「しろゆきひめ」と讀むつもりか?

       「がぎぐげご」を鼻音にせず、下品な發音が罷り通る。

       「水面」を「みなも」と讀まず、「みずも」と讀む。

       「とんでもない」は一部だけ變へてはいけないのに、

       敬語にしたつもりで「とんでも御座居ません」と誤用する。

       いやもう、限りがない。嘆かはしい限りです。

(平成28年6月9日/同10月2日加筆)