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恩を仇で返す人と民族
伊原註:これは『關西師友』平成28年/2016年五月號 8-11頁に掲載した
「世界の話題」313號の文章です。
少し手を入れてあります。
日本の常識は世界の非常識?
昔々ギリシャのデルフォイの神殿には
「汝自身を知れ」
といふ警句が書いてあつたさうです。
自分自身を知ることは大事ですけれども、己を知るのはなかなか難しい。
生れた時から附合つてゐて一番よく知つてゐる筈の自分が「何者」か、
意外に自覺できてゐないのが、人の常です。
知識人とは「自己を客觀視できる人」のことですが、
(だから苦難に遭つても自己を客觀視して冷靜に對處できるのです)
自己を認識するには、他人をよく知らねばなりません。
他人と較べると、自分と違ふ點が認識でき、
自分の特性が判り易いからです。
故に孫子の兵法に曰く、
「彼ヲ知リ己ヲ知ラハ百戰殆フカラス」と。
もう一つ、文化の基本は「發想法と行動樣式」の共通性です。
發想法と行動樣式は端的には「人との附合方」に現れます。
昔、近代化の比較研究のため、
タイに進出した日本企業の社長や工場長に聞取り調査をして、
文化の違ひを心得ておかないと命に關はる、と承知しました。
子供を可愛いと頭を撫でると、佛樣の宿る頭を手で汚したと激怒されるとか、
大學卒業の社員に工場内の塵を拾へと指示した工場長が、
誇り高い學卒者に下賤の行動を強要したと
怒り心頭に發したその部下から殺されかけたとか。
BC級戰犯の中には、文化摩擦で死刑になつた人が珍しくありません。
捕虜の食事に澤庵漬を添へたら、
「腐つた大根の尻尾を喰はせた」として
捕虜虐待の證據となり、死刑になつた例もあります。
民族の個性は、時代と共に變りますが、變化の單位は百年以上とされます。
私達大和民族の發想法・行動樣式は、戰國時代から江戸の天下泰平に入つて激變しました。
私は、現代日本人を元祿時代から戰後の高度成長期まで、と捉へます。
高度成長期に“新人類”なる若い世代が出現して、
日本人の發想法・行動樣式が、再び激變します。
集團活動や思ひ遣りを得意とした日本人が、
個室で機器相手に育つて、
我が儘・好き勝手の單獨行動しかできなくなり、
共同作業も思ひ遣りも苦手になりました。
「日本の常識は世界の非常識」と言はれる日本人は、
私のいふ「現代日本人」(高度成長までの年配世代)のことです。
“恩を仇で返す”人と民族
江戸の天下泰平は、高信用社會を齎します。
そのことは三井高利が延寶元年/西暦1673年、
江戸と京都に「定價販賣」の越後屋呉服店を開いたことに始ります
(藤井博吉『現銀掛値無しに仕り候』新潮社、平成6年/1994年)。
元祿2年/1689年に「奥の細道」の旅に出た松尾芭蕉が、
たまたま耕作中の農民から馬を借りて騎行し、
宿に着いてから借賃を馬の鞍に括(くく)り附けて返した故事も、
馬や金を盗られる心配がなくなつた高信用社會の到來を示す挿話です。
我國は17世紀のこの段階で、世界初の文明國になりました。
文明國を自?する西洋諸國が高信用社會を築くのは19世紀後半以降のことです。
正直が美コ、嘘が惡コと信じて疑はぬ私達日本人は
「恩を施せば感謝される」と思ひ込んでゐますが、
倉山滿によれば
「受けた恩は必ず仇で返す」
のがロシヤの法則の由(『嘘だらけの日露近現代史』扶桑社新書、20頁)。
その好例がKGB長官だつた ラヴレンティー・ベリヤ です。
(タデシュ・ウィトリン著、大澤正譯『ベリヤ』早川書房、昭和53年/1978年)
第一に、グルジアの黒海沿岸にある港町スフーミ近郊の貧しい農家に生まれたベリヤは、
ちびで不格好なため、きつーい劣等感を抱きました。
この劣等感が、彼に權力を追求させます。
自分に屈辱を嘗めさせた連中を見返し、復讐するためです。
第二に、スフーミの初等學校(八年制)通學してゐた時に見掛けた
廣場の教會の前にゐた乞食に、強い共感を覺えます。
この乞食の老人は、盲人のふりをして通行人の惠を乞ふてゐました。
自分を無視して通り過ぎる人に無關心だつた老乞食は、
小錢を惠んでくれた人には鋭く反應します。
後ろ姿をギロリと睨み附け、呪の言葉を呟(つぶや)くのです。
古い格言
「あいつは何故俺を憎むのか。
「あいつに善事を施したことなど一度もないのに」
を承知し、共感してゐたベリヤは、恩を與へる裕福な人を憎みました。
第三に、ベリヤ自身の經驗です。
1899年生れのベリヤは、12歳のとき父を亡くします。
葬式と葬儀の席での椀飯振舞(わうばんぶるまひ)に
なけなしの貯金を使ひ盡した母は、
育ち盛りの四人の子供を抱へて、街へ働きに出ます。
裕福なユダヤ商人の家に料理女として住込むのです。
そして主人にベリヤの學費支援を頼み、願ひ通り出して貰ひます。
1915年、十六歳で卒業したあと、同じ商人の更なる支援を得て
ベリヤはバクー市工科專門學校に進み、1919年に卒業して建築士の資格を得ます。
この工科學校時期に、ベリヤは革命派と帝政ロシヤの秘密警察との雙方にコネを持ち、
權力に近附きます。
權力こそ、劣等感を克服する效果的手段だつたからです。
戰爭と革命の動亂で、ベリヤが待ち望んだ亂世が到來します。
ロシヤ革命が起きてボリシェヴィーキが權力を握るとスターリンに取入り、
特務機關チェーカーの地區長に登用されます。
かうして待望の權力を手に入れたベリヤは、
舌嘗(なめ)ずりしてスフーミの恩人を甚(いた)振る作業に取りかかるのです。
貧しい少年に學費を出して高等教育まで授けてくれた恩人の
逮捕・拷問・甚振り・ピストルでの射殺。
自ら手を下して恩人を甚振るベリヤは、
常人ではなく、病的サディストと言ひたくなります。
そしてロシヤにはこの手の人物が珍しくありません。
頗る敬虔に神に仕へる一方、城壁の上から犬や猫を投げ落し、
骨折して苦しむ姿を喜んで見つめた少年時代のイワン雷帝、
同志を自ら拷問してその苦しむ姿を心から愉しんだスターリン、等々。
伊原註:スターリンはイワン雷帝を尊敬しましたが、
蠻行を反省する雷帝を「軟弱」と蔑みました。
つまり、スターリンはイワン雷帝より遙に殘酷な人間でした。
狩獵民族と農耕民族の違ひ
殘酷さと「恩を仇で返す」ことにかけては、
シナとシナ人も、ロシヤとロシヤ人にひけを取りません。
日清戰爭中の台灣戰線 (新竹城、安平鎭) での話です。
(石光眞清『城下の人』 龍星閣、昭和33年/1958年、277-278頁)
三、四百の敵兵が、二日間間斷なく砲撃しても退却しない。
やむなく決死隊十名を組織して土塀に爆藥を仕掛けようとした。處が……
「爆藥が破裂した。爆煙が風に吹き去られると、土煉瓦塀の破壞箇所が現はれた。
「だが、それは狹い通路にしかなつてゐなかつた。
「決死の十名は起き上つて、さつと土煉瓦塀の中に吸込まれて行つた。
「やがて、敵兵に捕はれた十名の決死隊が、裸にされ、煉瓦塀の上に
「嬲 (なぶ) り殺しにして、塀の外に投げ棄てられたのである」
かう云ふ残虐な「嬲り殺し」はシナ人の常です。
だから東條英機は「戰陣訓」で「捕虜になるな、その前に自決せよ」と説いたのです。
明治維新以來、戰前も戰後も、中國の近代化に日本と日本人がどれほど貢獻したかは、
いまさら數へ立てるまでもありません。
孫文や梅屋庄吉、宮崎滔天の名を持出すだけで聯想が擴がり、
黄文雄の膨大な著作の二、三を拾ひ讀みすれば日中關係史が辿れます。
『近代中國は日本がつくつた』(光文社、平成14年/2002年)や
『中國が葬つた歴史の新・眞實』(青春出版社、平成15年/2003年)を覗いてみて下さい。
戰後の中共政權についてだけでも、政府ODAのみならず、
民間企業も中國の發展にどれだけ貢獻したことか。
にも拘らず中共政權は、江澤民政權以來、日本叩きを國是にしてゐます。
習近平政權では日本企業を燒討にして賠償も謝罪も無い儘です。
今やその日本叩きが“歴史戰”となつて、
有ること無いことつき混ぜて、日本人が“極惡人” にされてゐます。
この反日宣傳への對應を誤ると、温和で友好的な大和民族が“惡の元兇”にされ兼ねません。
それでは良き日本構築のため奮鬪した先輩方に申譯が立ちません。
また、私達や私達の子孫に實害が及びます。
斷固阻止せねばなりません。
彼を知り己を知ることは、今や私達の生存に關はる重大事になつてゐるのです。
この民族の葛藤の背景に、狩獵民族と農耕民族の違ひがあります。
農耕民族にも、乾燥農業民族と濕潤農耕民族の別がありますが、今は問ひません。
拙稿「動物文明から植物文明へ轉換しよう」 (「正論」『産經』平成19.3.24附)
「伊原吉之助教授の讀書室」に掲載濟 (「伊原吉之助」で檢索されたし)
狩獵民族は、戰ひ奪ふか、交換(商賣)するかして、暮しを立てます。
農耕民族は耕し種を播き、作物を育て、つまり生産して暮します。
狩獵民族は簡單に爭ひ血を流しますけれども、農耕民族は温和で從順です。
北半球にあるユーラシア大陸では、狩獵民族は北に住み、農耕民族は南に住みます。
温和な筈の農耕民族も、訓練次第で鬪爭に強くなりますけれども、
發想法・行動樣式に於て、狩獵民族と農耕民族には、歴然たる差があります。
民族にさういふ特徴があるなら、よくよく承知の上で對應せねばなりません。
「彼ヲ知リ己ヲ知ラハ百戰殆フカラス」だからです。
濕潤農耕地帶に育ち生活する私達日本人は、
鎌倉幕府以來、武家政權が統治して來ました。
でも昭和の敗戰以來、武士道は影を潛め、
米國の占領が“獨立”後も續く形で防衛と外交の自主性喪失状態に陷つた儘です。
歴史戰爭の敗北は、ここに淵源があります。
「和を以て貴しとす」る我國も、攻撃に反撃しないと亡びるのではありませんか。
伊原註:上記の文言を人は「ワヲモツテ……」と訓 (よ) みますが、
「ヤワラグヲモツテトウトシトス」と訓むのが正しいさうです。
(岩波書店『原典 日本佛教の思想T』平成3年/1991年)
(平成28.4.12/平成28.7.9補筆)