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大東亞戰爭:米國の對日經濟戰
伊原註:これは昨年(平成27年/2015年11月號の『關西師友』に載せた
「世界の話題」308號の増補版です。
發表後、翌月に掲載すべき「世界の話題」が大幅遲れておりますが、
「伊原塾」のロシヤ近現代史のレジュメ造りに追はれてゐたためです。
最近「世界の話題」は、割と重要なテーマで書いておりますので、
讀書室への掲載の遲れを大急ぎで取戻します。
不覺にも、本書の存在をつい最近まで知りませんでした。
エドワード・ミラー著、金子宣子譯『日本經濟を殲滅せよ』
新潮社出版、平成22年/2010年7月25日出版(原著は 2007年發行)。
著者ミラーは巻末に「歴史家」とありますが、學者ではなく、
米國の大手鑛業・エネルギー企業の財務責任者を歴任した人です。
前作『オレンヂ計劃──アメリカの對日侵攻50年戰略』
(澤田博譯、新潮社、平成6年/1994年6月20日、原著は 1991年發行)は
米國海軍の對日軍事戰略が如何に適切であつたかを綿密に追跡した業績です。
第二作で米國の金融・經濟面からの對日追詰作戰を詳しく描きました。
こんな重要著作が評判にならぬ所に、我國讀書界の底の淺さを感じます。
(書評が直ちに現れ、人々の注意を喚起せねばならぬ處です)
あの戰爭の論者の多くが、經濟や金融を素通りします。
それでは歴史の實體が見えて來ないのに!
利害こそ、人類を動かす最大の動機ではありませんか!
私自身、手に入れてざつと通讀した所ですが、
こんな大事な書物があるよと皆さんにお知らせしたいので取上げます。
但し、大東亞戰爭は複雜多樣な戰爭であつて、
その多面性をとくと理解してをかないと、あの戰爭の意味が判りません。
米國の深層心理:親華反日感情
米側の對日戰爭出發點が日露戰爭の日本の勝利と、
日本海軍を警戒して帝國海軍撃滅戰の作戰計劃「オレンヂ・プラン」策定を命じた
セオドア・ルーズヴェルト
(セオドア は ルーズヴェルト、略稱=TR、
(フランクリン・デラノ は ローズヴェルト、略稱=FDR)
に始ることは、ミラーが前著で論じた通りです。
日米關係で米側の事情に詳しいのが、渡邊惣樹さんの著書です (何れも草思社)。
『日本開國:アメリカ が ペリー艦隊を派遣した本當の理由』 (平成21/2009.12.1)
『日米衝突の根源 1858…1908』 (平成23/2011.10.25)
『日米衝突の萌芽 1898…1918』 (平成25/2013.6.28)
『朝鮮開國と日清戰爭:アメリカ はなぜ日本を支持し、朝鮮を見限つたか』
(平成26/2014.12.12)
學者は、他の學者の論を參照して自分の論を立てるのですが、
渡邊惣樹さんは、詳しい情況を傳へてくれます。
米國の圖書館にアクセスできぬ私達にとつて、實に有難い人です。
開戰に到る國際關係では、日米に限らず、
ソ聯 (コミンテルン)、
シナ、
英國 (アントニー・ベスト、武田知己譯
(『大英帝國の親日派:なぜ開戰は避けられなかったか』
(中公叢書、平成27年/2015年)
に目配りしてをかぬと、あの複雜な戰爭は解けません。
大東亞戰爭は我國にとつては支那事變解決の爲の戰爭であり、
支那事變は、米ソが反共民族主義の日本を潰すため、
日本をシナ大陸の泥沼に引きずり込んだ戰爭だからです。
日本を南進させたことについても、複數の外國の謀略が關はつてゐます。
南進は英國の權益との正面衝突であり、大東亞戰爭の基軸は日英戰爭の筈でした。
それが日米戰爭になるにも、英米の謀略が絡んでゐます。
日本を經濟(金融)で追詰め日米戰爭に引ずり込んだ米國の動機の根源に
「日本憎し」の深層感情がありました。
米國は、1858年の天津條約第29條で基督(キリスト)教の布教を認めさせ、
各教派がシナや日本に宣教師を送り込んで信者獲得を競(きそ)ひます。
神々の國日本は、唯一絶對神の基督教に馴染まない。
米國人には“可愛くない”國民です。
所がシナ人は可愛い。
清末から中華民國にかけてシナ社會は動亂状態ですから、
シナ民衆にとつて基督教會は
恰好の避難所、施し物をくれ、保護もしてくれる有難い存在です。
米國の在華傳道團は、
20世紀前半の最盛時には新教宣教師8000人、布教所1147箇所もあり、
カトリックもその半數居ました。
宣教師は米國の本部に“シナの布教は實に有望”と報告し、
シナは合衆國の弟分の共和國になる、と期待しました。
(伊原註:有望だと報告しないと預算が出ないのです)
この報告が、大衆新聞を通じて米國世論に浸透します。
この大衆レベルでの親華反日感情は、理性的でない分根強く、
今だに米國人の深層心理にあります。
滿洲事變以降、これが“可愛いシナを苛(いぢ)める憎らしい日本”
といふ、國民的反日信條と化すのです。
以下、バーバラ・タックマン
『失敗した アメリカ の中國政策:ビルマ戰線 の スティルウェル將軍』
(朝日新聞社、平成8/1996.3.5) 3500圓+税
から引用します。
會員二千萬人の「キリストの教會」聯邦評議會は強力なシナロビーとなり、
米國政府に不平等條約の廢棄を請願さへした(117頁)。
シナ事情に通じた政策家が
「シナ人に自治能力なし」
「議會も民主主義もシナに適用できず」
と理性的な結論を出してもアメリカの世論 (大衆新聞) は受附けず、
「シナ人は自由を求める正しい民主主義の鬪ひをしてゐる」
といふ“幻想”を信じ續けた(118頁)。
シナの對日抗戰に同情する新聞記者や宣教師らは
(シナの)理想面だけ見て缺點や失敗には目を瞑(つぶ)り、
「一世紀に亙つて布教活動をしてきた結果、
「米國人は他の國に感じぬ責任をシナに感ずるやうになつてゐた」(215頁)
タックマンは更に書きます (271頁)。
「アメリカは中國を アホウドリ のやうに首にかけてゐた──
「山東、實行されない九ケ國條約の保障、無力な スティムソン・ドクトリン、日本への屑鐵賣却、
「アメリカ の「特別な」關係、義和團事件賠償金の返還、戰後の強い中國理論、
「みんな アメリカ が背負ひ込んだ荷物である。
「それは罪の意識、保護者意識、幻想から出てゐた」
最後の一行に御注目下さい。アメリカ人は中國と中國人に“罪の意識”まで感じてゐたのです。
FDR の「中國贔屓・日本嫌ひ」は
阿片貿易でぼろ儲けした母方の祖父以來彼に刷り込まれた感覺でして、
スティムソン の不承認主義の繼承が「悲劇的な過誤だ」と説得に行った
ブレーン の モーリー、タグウェル に
「私は中國に深い同情を寄せてゐる。どんなことがあらうと、
「私は スティムソン と共に日本を叩くのだ」
と言つて二人を呆れさせた話 (Morley, After Seven Years, 1940) は有名ですが、
1942年2月9日、中國に出發する前ホワイトハウス に FDR を訪れた スティルウェル に對して
FDR 曰く、「蔣介石に會つたらかう言ひ給へ、對日戰爭に我々は本氣で取組んでゐる、
「中國が失つた領土を全て取返すまでやるつもりだと」
スティルウェル は呆れ、タックマン もかう書きます。
「通常一國が、假令同盟國であらうとも、
「他國が失つた領土を取り戻してやるやうなことはしない」と。
負けぬ成算あつて開戰した日本
ミラーは、日本を締上げたのは金融だと斷言します。
禁輸は品目別の作業になつて煩雜だが、金融は一發で濟むからです。
米國が在米日本資産を凍結するのは 昭和16年/1941年7月25日。
これで我國は米國に屈服するほかない事態に追込まれました。
だのに開戰まで更に 4ケ月餘も避戰に努めた。
我國が如何に戰爭したくなかつたかが判ります。
追詰められた我國は、必死で「負けぬ作戰」を樹てます。
それを書いたのが、
林千勝『日米開戰 陸軍の勝算──「秋丸機關」の最終報告書』
(祥伝社新書、2015.8.10)です。
米國が我國を追詰め開戰させた經緯は、金融面を除いて既に充分解明濟です。
解明の盲点が、我國の對應策です。
「無謀な戰爭」といふ通説は間違ひです。
あの戰爭を無謀といふなら、
奉天以北に進撃する力なしに開戰した日露戰爭の方が餘程無謀です。
でも誰も日露戰爭を無謀とは言はない。ちやんと勝利に持込めたからです。
負けぬ工夫はありました。
石原莞爾曰く、「自分が作戰指導すれば負けぬ體制に持込んだ」と。
帝國陸軍は、負けぬ作戰を立ててゐました。
その經緯を詳しく調べた林千勝曰く、
帝國陸軍は支那事變が泥沼化し、
米英ソの對日締附けが嚴しくなつた昭和14年秋、
陸軍省軍務局軍事課長岩畔豪雄大佐が中心となり
「陸軍省戰爭經濟研究班」(秋丸機關)を設立した。
日滿財政經濟研究會・企劃院・陸軍省整備局といふ三機關が
個別に出した國力判斷の共通の結論が
「我が經濟力貧弱にして長期戰に耐へず」
「必要物資七割の輸入先英米との戰爭は無理」だつた。
これを受けて、
その無理な相手英米と戰ふ羽目になつた時の作戰計劃を探るための機關である、と。
秋丸機關は、ドイツを含む交戰諸國の經濟抗戰力を周到に調べ上げて、結論を導きます。
我國は長期戰に耐へぬが、開戰 2ヶ年は既往の備蓄を利用して戰爭を繼續できる。
その間にうまく手を打てば、負けぬ態勢を造つて媾和に持込める、といふのです。
例へば、統制經濟を實施すれば、自由經濟の英米より有效に短期決戰を運用できる。
東南アジアの資源地帶を制壓したあと西進し、インド洋の制海權を握れば、
アフリカ北岸を エヂプトまで進む ドイツ軍と聯絡でき、
米英の援蔣ルートや武器貸與法によるソ聯支援ルートを封ぜられる。
斯くて ドイツはソ聯に勝ち、蔣介石は日本に降伏して
、英米と五分の態勢に持込めるのだ、と。
この成算があつたからこそ、我國は昭和16年4月17日、
大本營海軍部で決めた「對南方施策要綱」で國力上、武力南進は出來ぬが、
全面禁輸の場合、自存自衛の爲武力行使するといふ結論に、
秋丸機關の研究成果が生かされてゐます。
そして、7月25日の在米日本資産凍結、
8月1日の對日石油全面禁輸の決定を受けて、
9月6日の御前會議に於る帝國國策遂行要領
(10月下旬を目途として對米英蘭戰爭準備を完成する)
の決定に到ります。
この決定は、陛下の要請で一旦白紙に戻されますが、
11月26日の ハル・ノートを受けて12月1日、再び御前會議で對米開戰を決めるのです。
我國は、不敗の態勢で媾和に持込む成算あつて開戰したのであつて、
一か八かで清水の舞台から飛び下りるやうな
無謀なことを仕出かした譯ではありません。
(平成27.10.8/平成28.6.24補筆)