戰後70年歴史戰爭に勝つ - 伊原教授の読書室

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           戰後70年歴史戰爭に勝つ

──歴史に學ばず歴史に復讐される中・露・韓國──



伊原註:「天皇國日本」を日本人の アイデンティティ(存立根據)とする、年六回發行の新聞

    『アイデンティティ』(發行人=葛目浩一)の

    平成27年 8月 1日附(第75號)一面に載せた文章です。

    歴史論爭は謀略戰爭なのですが、敢へて冷靜で理性的限度を守りました。

    高校生位の若者に讀んで頂きたい入門的な解説文です。








           國際政治は百鬼夜行・性惡説の世界


 外國人と附合ふ心得は、孫子の兵法

   「彼ヲ知リ己ヲ知ラハ百戰殆 (アヤ) フカラス」

 に盡きます。


 この言葉は誰でも知りながら、實踐するのは極めて難しいものです。

 究極的には、デルフォイの神殿に掲げてあつた

 「汝自身を知れ」

 即ち「己を知る」に盡きるのですが、これが生易しい作業ではない。

 多くの賢人が、自分との格鬪に敗れて世を去つてゐます。


 「己を知る」ことが、何故そんなに難しいのか?

 己の内面世界は複雜極まるのに、思考は單純に流れるからです。

 日本人の發想法の通弊について、二點指摘しておきませう。


 第一に、私達はコ川の天下泰平以來、性善説を信じ且つ實行して來たからです。

 直前の戰國時代には親兄弟が騙し合ひ殺し合ふ權謀術數の爭をして來たといふのに!

 庶民の生活の智慧の集積である江戸いろは歌留多に、

 「人を見たら泥棒と思へ」

 と子供たちに教訓を與へておきながら、

 「旅は道連れ世は情け」

 で忽ち他人への警戒心を棚上げしてしまふのです。


 第二に、日本流の發想法・行動樣式が身體に染み込んでゐて、

 外國人も同じやうに考へ同じやうに行動すると思ひ込むからです。

 帝國海軍軍令部がもう少し「相手の立場になつて考へる」ことをしてくれてゐたら、

 大東亞戰爭でもう少しましな戰ひ方ができたのに!


伊原註:實例を一つ、

    昭和の日本が軍國主義に傾く重大な契機が、

    ロンドン海軍軍縮條約で重巡洋艦の七割が達成できず、

    軍令部が收まらず、“統帥權干犯問題”が發生することですが、

    軍令部は初めから「絶對讓れぬ線」として七割を出してゐました。

    あれは「交渉」であり相手にも立場があることを無視した

    一方的要求です。

    試驗秀才、机上の秀才とは、

    斯くも「獨善的」で融通の利かぬ存在なのです。

    こんな“獨善的”人間を育てた軍の教育の缺陷の一つが、

    文學を“軟弱”として圖書室から追放した“無知無學”にあります。

    文學は、人の葛藤を通じて人情の機微を悟らせる大切な分野です。

    將來、大勢の部下を指揮する將校は、

    “人情の機微”に通じてゐる必要が“切實に”あつたのに!


伊原註:自他の識別困難の實例をもう一つ──

    我々は「恩を受ければ感謝する」ものと信じてゐますが、

    ロシヤ人は「受けた恩は必ず仇で返す」さうです。

      (倉山 滿『嘘だらけの日露近現代史』扶桑社新書、平成27/2015、20頁)

    そんな人つて、 皆さん、想像できますか?


    私は、ベリヤの傳記を讀んで、強烈な ショック を受けました。

      (タデシュ・ウィトリン、大澤正譯『ベリヤ:革命の肅清者』早川書房、昭和53/1978)

    グルジアの黒海沿岸の港町スフーミ近郊の村落にある貧家に生まれたベリヤは、

    ちびで不細工な自分に劣等感を持つて育ちます。


    ベリヤの第一の經驗:通學してゐた町の廣場に居る乞食の老人の觀察 (52-53頁)

    この盲目を裝ふ老乞食は、通り過ぎる人には無關心だつたが、

    施しをする人の後ろ姿には眼を開けてギラリと睨み、呪ひの言葉を呟くのであつた。

    この光景を見るため、ベリヤは態々公園に行き、老乞食を觀察し續けた。

    ベリヤは、有名な古代の格言を知つてゐた。

    「あの男が何故俺を憎むのか? 俺はあいつに善事は何も施してゐないのに」

    人に恩を賣ると恨まれる、といふお話です。

    聯想:「打落水狗」(水に落ちた犬はぶつ叩け) といふシナの諺


    ベリヤの第二の經驗:學費を出してくれた恩人を自らいたぶり、殺す (58頁〜)

    ロシヤが參戰した第一次世界大戰中、

    ベリヤは通つてゐた學校の學費が拂へなくなります。

    そこで母が知り合いの裕福な商人夫婦に頼み込み、學費を出して貰ひます。

    商人夫婦は、更にバクーにある機械建設工學校の學費まで出してくれます。

    この學校を無事卒業して“知識人”(インテリゲンチヤ) となったベリヤは、

    革命後、ボリシェヴィーキ の オルヂョニキーゼ や スターリン に見出され、特務機關 チェーカーに登用されます。

    そこで早速やつたのが、

    學費を出して出世を支援してくれた恩人夫婦の逮捕・拷問・殺人です (132-138頁)。


    ベリヤの場合は、異常性格、サディストと言ひたくなりますが、

    「恩を仇で返す」心理は、必ずしも異常ではありません。

    現に、清末以來、散々奉仕して來た我國は、奉仕して來たシナ人・朝鮮人から

    有ること無いことを言ひ立てられ、恩を仇で返されてゐるではありませんか。


    扨て、ここらで本文の續きに戻ります。


 明治開國以來、私達はシナ・朝鮮と協力して西洋列強の壓力に對抗しようとしました。

 所謂「大アジア主義」です。

 しかし、兩國とも日本の協力を撥ねつけ、日清戰爭に到ります。

 その後の日本の支援にも感謝する所か、逆に反日を國是とするやうになりました。


 理由の一つは、纏めにくい自國を纏める安易な手段が反日だからです。

 理由の二つ目は、どの國も自國中心で考へるからです。

 理由の三つ目は、隣國は仲良くするより反撥することが多いからです。

 シナには「遠交近攻」 (遠い國と仲良くして近くの國を攻める) といふ言葉もあります。

 朝鮮は「事大主義」 (大きく強い國に從ふ) を原則としてきました。

 隣國同士が仲良く附合ふのは、簡單ではないのです。



           學問的にはファシズムは狹く使ふ


 本稿の目的は、中露が對日戰爭勝利記念日を大々的に祝ふことにより、

 70年前の戰勝國と敗戰國の關係を固定化して日本を抑へ込まうとしてゐる事態

 への對應を考へることです。


 我國が降伏文書に署名したのは昭和20年/1945年 9月 2日、

 中露兩國はその翌日の 9月 3日を記念日とし、

 「ファシストに對する戰勝記念日」と稱します。


 三國同盟を結んだ日獨伊を「ファシスト」と總括するのは、

 反共勢力を一括して敵視する共産主義者の宣傳用法です。

 つまり、極めて政治的・御都合主義的な言葉なのです。


 マルクス主義者が多い我國の日本史學界も「日本ファシズム」といふ稱(よ)び方が

 罷(まか)り通つてをります。

 彼等は定義抜き立證抜きで日本の政治體制を頭からファシズムと決め附け、

 床屋政談並の議論を展開します。


 ファシズムがイタリア起源であることは、ご存じの通り。

 ファッショはイタリア語で、「束」即ち團結を意味する言葉です。


 ファシズムは、狹義には本家のイタリアと、

 精々フランコのスペイン、サラザールのポルトガルまでです。


 廣義にはナツィス・ドイツも入れますけれども、ドイツを入れるのは問題です。

 伊西葡三國とドイツは經濟の發展段階が違ふからです。


 伊西葡三國は中進國、ドイツは先進工業國。

 中進國は農業勢力が強くて抵抗するので工業化が停滯し、

 調停者として獨裁者が登場するのが前記三つのファシズム國家です。


 工業化先進國でありながら、

 第一次世界大戰に於る敗戰と、

 苛酷な賠償金によるハイパーインフレで中産階級が没落し、

 獨裁に傾くのがドイツのナツィズムです。


伊原註:この定義は、下記オーガンスキーの主張です。

    A.F.K.Organski, The Stages of Political Development, 1965, N.Y.

    オーガンスキー (沖野・高柳譯)『政治發展の諸段階』 (福村出版、昭和43/1968)

    書名からお判りのやうに、W.W.ロストウ の『經濟成長の諸段階』1960 に見合ふ

    政治の發展段階分析です。 ファシズムの分析部分が注目に値します。

    ファシズムが「侮辱的意味を籠めた政治用語」なので、

    舊地主階級と新興工業家階級の兩頭政治といふ意味で

    Syncratic Politics といふ新語を使つてゐます。


 ドイツを含めた場合のファシズムの共通點は、

    獨裁者・政治運動・一黨獨裁と反共です。

 しかし我國は工業化のもたつきも獨裁者や一黨獨裁も經驗してをりません。

 ファシズムをどう定義すれば我國も入るのでせうか。

 我國は、戰爭中もちやんと選擧を行ひ、議會を開いてゐました。

 獨裁とも一黨政治とも無縁です。


伊原註:上記の「共通點」にご注目下さい。

    「獨裁者・政治運動・一黨獨裁と反共」

    「反共」以外は、共産國と全く同じです。

    「同一視」される危險があるから、左翼の學者はファシズムの定義を避けるのです。


    先に擧げた倉山 滿は、ファシズムを簡單に、かう定義します。

    「黨が國家の上位にある體制」「一國一黨」(『嘘だらけの日露近現代史』227頁)

    これは「以黨治國」 (黨が國家を支配する) 體制で、「黨國體制」と謂ひます。


    つまり、「反共」以外は、所謂ファシズムとは、共産國の統治體制そのものです。

    寧ろ、ファシズムとは、共産體制に反撥するため、

    共産黨の獨裁體制を反共國が眞似たもの、と言つて宜しい。

    似てゐるのは、「眞似た」のだから當然です。

    この類似性・共通性あるが故に、マルクス主義者はファシズムの定義を避け、

    否定的評價だけを表に出すのです。


    彼らが日本の戰時體制を「日本ファシズム」と稱ぶのは、

    否定するための呼稱に過ぎないことを示します。

    要するに、ファシズムとは政治用語であつて、學問的・客觀的呼稱ではないのです。



     軍國主義と全體主義獨裁


 上記の定義の困難を避けるため、

 最近、中共指導者は我國を「軍國主義」と稱ぶやうになりました。

 今、軍國主義花盛りの本家から、

 平和な民主國日本が、70年前の軍國主義を批判されてゐるのは、實に奇妙な構圖です。


 國防上の脅威が何等ないのに、

 毎年軍事預算を二桁増してゐる中國も、奇妙奇天烈な國です。

 軍部高官が核戰爭まで口にして外國を脅します。

 南シナ海の紛爭中の島を勝手に埋立て、

 文句を言ふフィリピンに「小國は黙つとれ!」と一喝しました。

 そんな獨斷獨善の中國から70年前の軍國主義を言はれるのは筋違ひも甚だしい。


 『廣辭苑』によれば、軍國主義とは次の通り。

 「國の政治・經濟・法律・教育などの政策・組織を戰爭のために準備し、

 「軍備力による對外發展を重視し、戰爭で國威を高めようと考へる立場」


 日中どちらが軍國主義ですか?



      兩大戰に對する米國の間違つた規定


 中露兩國が「對ファシスト戰爭の勝利」を祝ひたがるについては、

 兩大戰に對する米國の誤つた歴史規定があります。


 米國が列強の一員として國際政治に關はるのは第一次世界大戰以降です。

 十四箇條の平和構想を引つ提(さ)げて媾和會議を取仕切つたウィルソン大統領は、

 第一次大戰を

    「オートクラシーに對するデモクラシーの勝利」

 と規定しました。

 議會政治を實施してゐたカイザー・ヴィルヘルムU世のドイツ帝國を

 「專制」と決めつけ、聯合國側を一括民主國と認定したのです。


 第二次大戰でも、F・D・ローズヴェルト大統領(略稱:FDR)は

 聯合國側を民主國と規定しました。

 共産主義を奉ずるスターリン獨裁のソ聯が民主國だと?

 確かに彼等は“人民民主主義”を唱へてをりますが、

 さう唱へる國は軒並み獨裁國です。


 共産國 (人民民主主義國) の一大特徴は、人民を信じてゐないことです。

 人民を信じないから、言論の自由も、複數政黨も認めません。

 そしてKGBのやうな自國民を監視・摘發する秘密警察を必要不可欠とし、

 同志を監視・肅清するため、獨裁專政が必須となります。


 スターリン大肅清開始後のソ聯と、

 ナツィス・ドイツ政權の政治體制に共通する特徴として

 「全體主義」概念を持出したのが

 ハンナ・アーレントです(『全體主義の起源』三册)。


 「全體主義」は、言論統制(思想統制)と教育宣傳により

 「大衆の全き支持」を得てゐる點が、單なる「獨裁」と異ります。


 毛澤東は反右派鬪爭以後、言論統制を通じて全體主義獨裁を實現しました。

 我國は、マルクス主義者が「實踐活動しない」と誓約する(これが「轉向」)だけで

 戰爭中を生き延びましたから、思想を統制する全體主義とは無縁です。

 だから、中露からとやかく言はれる何の根據もありません。



      歴史戰爭:占領史觀から脱却せよ


 我國は今、

 米國や中露からは敗戰史觀を、

 中韓からは侵略史觀を押附けられ、

 南京の三十萬人大虐殺や從軍慰安婦など、

 無かつたことまで反省せよと迫られてゐます。


 でも、歴史に學ばず、歴史を偽造して憚(はばか)らないのは、彼等自身です。

 だから、彼等から「歴史に學べ」と言はれたら、

 「貴方がたもどうぞ自國の歴史を封印せず、よく學んで下さい」と言返しませう。


 私達が歴史に學ぶには、

 何よりも先づ米國が設定した占領史觀からの脱却が必要です。

 次に、外國の手先を務める反日日本人の存在を暴き、無力化することです。

 近隣諸國の反日は、反日日本人や反日マスコミが火をつけた例が多いからです。

 歴史問題は基本的に「日日問題だ」と言はれる所以です。


 米國は降伏せずに戰ひ抜く皇軍が余程怖かつたと見えて、

 占領中、日本人に二度と立上がらせぬ秘策を各種施しました。

 その最大のものが、歴史の換骨奪胎(米國流勝者史觀の押附け)であり、

 戰後育ちに戰前の本を讀ませぬための國語變造(漢字制限・略字・現代假名遣)でした。


 我國は、その國語變造を後生大事に守つて現在に到つてをります。

 然も歴史教育を怠り、一番大事な現代史を學校で教へてをりません。


 戰前の書物を讀めるやうにまつたうな國語教育を施し、

 歴史教育に於て現代史教育を重視するやうにすることが、

 歴史戰爭に勝つための最重要事です。


 處が、これには大問題が一つあります。

 正しい歴史教育を「誰が」するかといふ、教師の問題です。

 先に述べたやうに、我國には「反日日本人」が至る所に浸透してゐます。

 全國各地の學校には、國旗掲揚に反對し、國歌齊唱に反對する反日教師が一杯居るのです。

 だから、學生生徒の歴史觀を正す前に、教師の側の歴史觀を正さねばならない。

 これが、戰後長らく反日に偏向して來た我國の歴史教育の大問題なのです。

 我國には日本を弱體化したい勢力の手先を進んで務める人が一杯ゐて、

 メディアや教育界はもとより、政界・財界・官界 其他、

 各界の隅々にまで浸透濟なのです。


 敗戰後の「占領體制」からの脱却は、容易なことではありません。

 下手すれば、我國はこの儘腐つて滅びて行きますね。

(平成27年/2015.6.16執筆。平成28年/2016.4.2補筆)