往きて還らぬ昔 - 伊原教授の読書室

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           往きて還らぬ昔




伊原註:本文は『關西師友』平成27/2015.九月號 8-11頁掲載の「世界の話題」(306) です。

     少し補足してあります。





 また「あの戰爭」を考へる時期が來ました。

 然も今年は戰後七十年といふきりの良い年です。


 我家は長兄が病死、次兄が支那事變で戰死、

 父は戰時統制經濟の渦中で大東亞戰爭勃發直後に過勞死。

 結核の三兄と、舊制中學入學早々の私と國民學校生の妹を抱へた母子家庭で

 よくも戰後を生き抜いて來たと思ひます。


 收入なしで電氣代さへ拂へなくなつた我家を、

 上等兵で戰死した兄の恩給が辛ふじて支へてくれた時期もありました。


 昭和十年代に小學生(昭和十一年に一年生、昭和十六年に六年生)、

 敗戰時に舊制中學四年生であつた私にとつて、

 「あの戰爭」(支那事變+大東亞戰爭)は人事ではありません。

 だから私なりに「あの戰爭」の歴史的意義を考へて來ました。


 戰後長らく米國占領軍の「勝てば官軍」史觀がのさばつて來ましたが、

 最近、漸く多樣な見方が出て來ました。

 ですが專門家は嘆いて曰く、

 昭和史(昭和初年の金融恐慌から敗戰までの昭和前期二十年間)への知的慾求が

 近頃極めて強くなつてゐるのは喜ばしいが、

 一般向けの昭和史本には不正確な俗説・傳承の類が横行してをり、

 それを正すべき專門家は細分化が進んで通史的共通理解が斷絶した儘だと。

 そこで專門家の分擔記述と參考文獻紹介により、最先端の通史を届ける、といふのが


 筒井清忠編『昭和史講義──最新研究で見る戰爭への道』

 (ちくま新書、平成27/2015.7.10)です。



            偉かつた我等が父祖


 私はまだこの本を讀みかけた所ですから、紹介や評價はできません。

 でも歳相應に昭和史を讀込んで來ましたから、

 昭和史についてはそれなりの所感があります。

 それで今回強調したいのは、先人の偉さと強さです。


 特筆すべきは、庶民の中に信頼できる人が大勢居たことです。

 軍隊で言ふと下士官と兵です。

 ソ聯のジューコフ元帥がドイツ降伏後、

 米國の大學教授や新聞記者から

    「貴方の軍人としての生涯中、最も苦しかつたのはどの戰ひか」

 と訊かれて「ノモンハン事件だ」と答へたのは周知の事實です。


 質問した米側はスターリングラードの死鬪など、獨ソ戰線での戰鬪を豫想してゐたのに、

 意外や意外、日本の關東軍との戰ひと聞いて仰天しました。


 そのジューコフ元帥が、自傳の中で

    「日本軍の下士官・兵はよく戰つたが、將校は駄目」

 と言つてゐます。

 發想が劃一的で同じパターンの戰鬪を繰返したといふのです。


 伊原註:ジューコフ(清川・相場・大澤譯)『ジューコフ元帥回想録』

    (朝日新聞社、昭和45/1970.1.20) 132頁に、かうあります。

    ノモンハン戰後、スターリン が ジューコフ を引見して質問した。

    「君は日本軍をどう評價するかね」

    「我々と ハルハ河で戰つた日本兵はよく訓練されてゐる。特に近接戰鬪でさうです。

    「彼らは戰鬪に規律を持ち、眞劍で頑強、特に防禦戰に強い。

    「若い指揮官達は極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戰ひます。

    「若い指揮官は捕虜として降らず、『腹切り』を躊躇しません。

    「士官達、特に古參・高級將校は訓練が弱く、積極性がなくて

    「紋切型の行動しかできないやうです」


 ノモンハンで日本軍はぼろ負けしたと言はれて來ましたが、

 ソ聯崩壞後、ソ聯軍の戰死者の方が多かつたことが明かになりました。

 日本陸軍の公式發表では、死傷者に戰病者を加へて 1萬8000人。

 ソ聯側死傷者は、東京裁判では9000人以上。


 それが──

 ソ聯崩壞後、公文書館の一次資料を見たロシヤの研究者の2002年の發表によれば

 ソ聯軍だけで 2萬5655人(うち死亡者9703人)。

 ほかに外蒙軍もゐましたから、日本軍より被害が大きい。


 航空戰でも戰車戰でもソ聯軍の被害が大です。


 然も參加した軍勢の量が桁違ひです。

 日本側の第23師團 (師團長=小松原道太郎中將) 2萬人は、

 中國大陸に轉用された後に編成された 1年未滿の未熟師團なのです。

 それが、23萬のソ聯軍機械化部隊を相手に戰つてこの結果ですから、

 日本の將兵がいかに強かつたことか!


 日本軍の強さを知つて愕然としたスターリンは、

 だからドイツ降伏後も、戰備を十分整へるまで日本攻撃に參加しなかつたのです。


 ノモンハンについては、私のネット上の「讀書室」に 2008年 7月27日附で

 辻政信の『ノモンハン』の書評が載せてありますので、

 アクセスできる方はお讀み下さい(「伊原吉之助」で檢索すれば入れます)。



           戰後、我國の社會構造が激變した


 日本軍が強かつたのは、ノモンハンだけではありません。

 支那事變でも大東亞戰爭でも本當に強かつた。


 『世界最強だつた日本陸軍』(福井雄三著、PHP研究所、平成25/2013年)

 といふ本があります。


 この本が觸れてゐない例として、

 イムパール作戰に關連するビルマの戰ひを擧げておきます。


 蔣介石がビルマに派遣した中國軍總司令官に對して

 「ビルマの日本軍を範とせよ。ミートキーナに於て、拉猛に於て、騰越に於て

 「日本軍が發揮した善戰健鬪に較べ、我軍の戰績が如何に見劣りすることか」

 と叱咤激勵したのは有名な話です。


 さうと知つて、日本軍ではこれを「蔣介石の逆感状」と稱んで居ました。

  (相良俊輔『菊と龍』光人社、昭和47/1972年、157頁)


 日本軍があの戰爭で負けた主因は補給です。

 食糧や武器彈藥の補給があれば、日本軍はさう簡單には負けなかつた筈です。

 そして私は、斯くも徹底的に戰つた先輩を心から尊敬します。

 我等の先輩は實に偉い!


 世人は、戰爭は酷い、二度としてはならぬと言ひます。

 でも、戰爭には相手があるのです。相手が仕掛けて來たらどうしますか?

 弱いと戰爭を誘ひ出します。

 勝てると思へば戰爭を仕掛けます。

 勝てさうになければ仕掛けません。


 社長が部長を叱り、叱られた部長は課長を叱つて鬱憤を晴らし、課長は社員を叱り、

 社員は歸宅後妻に當り、妻は犬を叩く。

 皆、弱いものに力を振るふのです。


 戰爭を仕掛けさせぬだけの報復力を持たぬ限り、

 つまり一旦緩急ある時は戰つて叩き伏せるぞといふ決意を國防力の形で示さぬ限り、

 相手の思ひ通りにされるだけです。

 “專守防衛”とは、戰爭を誘ひ出し平和を破壞する愚かな對應です。


 永世中立國スイスが國民皆兵で始終軍事訓練してゐるのも、

 平和を守るには防衛力が必須と承知してゐるからです。



           戰後、社會構造が激變した


 でも戰後、我國は國防を米國に頼り、自分で戰略を考へなくなりました。

 獨立國ならば、國家の安全保障は自分の頭で考へて自主的に對應せねばなりません。


 扨て、この文章で書きたかつたのは、

    我等が父祖達はなぜあゝも強かつたのか、

 の理由です。


 第一に、對外危機感の共有です。

 歐米白人國の中で唯一、有色人種の我國が近代國家化して彼等に伍した。

 その危ふさを、不平等條約改正の難しさ、三國干渉による外壓の恐ろしさを通じて、

 國民全員が骨身に沁みて痛感しました。

 この外壓を日露戰爭の勝利で切抜けたのも束の間、

 今度は米國が日本を警戒し始め、

 シナ支援・日本叩きで我國の對英米協調外交を無效にする動きに出ます。


 第二に、國内の産業構造上の理由です。

 明治維新期の我國は農業國です。

 近代國家は工業國ですが、

 工業資源に乏しい我國が「殖産興業」の名の下に工業化を進め、

 綿糸綿織物を輸出品に育てるのはやつと第一次大戰の頃です。

 この時期、重化學工業も育ち始めますが、

 それが輸出品になるのは戰後のことです。

 税金は長らく地租が主流でした。


 つまり我國は、明治・大正・昭和と、戰前を通じて農業人口・農村人口が多數でした。

 國民は殆ど農村に生れ、農村に育ち、志を立てた一部の青年が都會に出て立身出世を目指す、

 といふ成長サイクルです。

 要するに、國民の壓倒的多數は農村に生れ農村で育ち、農村で一生を終へたのです。


 強かつた我が父祖達の、特に下士官・兵は農村育ちだつたのです。

 彼等の誠實・勤勉・我慢強さなどの褒むべき長所は、農村で築かれました。

 だから東北・四國・九州の師團が強いと言はれました。


 この事情を一變したのが、戰後の高度成長です。

 重化學工業化が進み、都市化が進展して、都市住民が多數となり、

 農村生れ・農村育ちが激減しました。


 都會生れ・都會育ちはこまつしやくれてゐて、口答へは達者だが、

 やらせてみると何程のこともないと言はれます。

 特に「頑張り」が利かない。

 粘り強さがない。


 要するに「世界最強の陸軍」を支える基盤が、高度成長で喪失したのです。


 強い軍隊を育てる方法が、ドイツ三十年戰爭中に發見されました。

 オランダ軍の將校が、それを著書に書いて周知されます。

 それは「隊伍を組み、足並揃へて歩くこと」です。

 勿論「走ること」も。

 これにより、連帶感と持久力が育つ由。


 ですが我國では戰後、學校で隊伍を組んで歩かせてゐません。

 我國は、次世代を支へる若者をしつかり育ててゐないのです。

 危ふい哉!

(平成27/2015.8.9/平成28/2016.2.28補筆)