> コラム > 伊原吉之助教授の読書室
日本の正統に戻らう
伊原註:これは「21世紀日亞協會 會長」の肩書で
『國民新聞』第19201號 (平成27年1・2月新春合併號 一面) に載つた
「年頭所感」特輯號のための文章です。
明治維新以來の日本現代史を要約してゐるので、
指定の文字數の倍以上書きました。
この記述は、「西歐標準からの脱却」といふ論旨には必須のものでしたので、
編輯兼發行人の山田惠久さんにお願ひして掲載して戴きました。
ちよつとした新書判が直ぐ書けるほどの内容を壓縮してゐる筈です。
この掲載版では、少し補足して理解し易くしてあります。
幕末に我國に到來した開國壓力は、
十九世紀のナポレオン戰爭以來の近代國家形成壓力の到來だつた。
我國はこれに追隨して明治維新を實施し、殖産興業・富國強兵に努めるが、
一律五%に据ゑ置かれた關税のため國内産業を保護できず、
新國家建設資金に事欠く始末。
しかも國内では内亂鎭壓に追はれ、
國外では、近代國家形成壓力を無視し續ける李朝朝鮮・清朝李鴻章の對應
(西歐列強利用の「以夷制夷」策による對日反撃)に苦しむ。
伊原註:内亂の理由二つ──
(1) 攘夷論でコ川幕府を倒しながら、政權掌握後「開國」路線をとつたため
(2) 征韓論論爭で新政府が分裂した事態の後始末
これら近隣の惡友(福澤諭吉)のため、
無理を承知で日清・日露の戰(いくさ)を戰ふ羽目になつた。
日本はこれら兩國の近代化を一所懸命支援しようとしたのに。
關税自主權は日露戰爭後に獲得したが、
世界大不況のあと、第二の國難「ブロック經濟」が押寄せる。
「持てる國」the Haves 英米が「持たざる國」the Have-nots の一員日本を
勢力圏から閉出すのである。
英米に寄沿つて辛ふじて殖産興業して來た我國は途方に暮れ、
やむなくシナ大陸に出て行くが、
それがまた英米の更なる壓迫を生み、
遂に大東亞戰爭に到る。
敗戰後“戰爭せぬ國”となり、
「聯合艦隊を商社に代へ、ドンパチ戰爭を貿易戰爭に代へて」勝者になつた我國は、
米國レーガン政權から
圓切上げと
「構造改革」(米金融資本に國内市場を提供するための諸制度改革)
を求められて受入れ、現在に到る。
我々の先輩は、逆境に遭ふ度に皇室を中心に纏まり、
奮鬪努力して立派な國を築いて來た。
但し明治以來の奮鬪努力に一つ大問題がある。
これを是正しようといふのが本文の趣旨である。
大問題とは「西歐標準の受入れ」である。
黒船が來寇した幕末の先輩は「和魂洋才」を唱へた。
だが明治も十年代になると、ベルツが日記に書いたやうに、
「日本に歴史はありません。今始るのです」
といふ帝大生が出て來る。
「模範」である西洋に追隨するのが新日本建設の道だといふのだ。
「和魂洋才」から「洋魂洋才」への變身!
以來、我國知識人の頭は「西洋標準」に切替る。
第一次大戰後の1920年代に
米國の壓迫(ワシントン條約體制)で對英米協調外交が行詰り、
それに「世界大不況」後のブロック經濟
(上述の「持てる國」の「持たざる國」日本の締出し)
が日本を窮地に追ひやると、
1930年代以降、我國は「擬似日本正統路線」を探る。
「擬似」といふのは、
ロシヤ革命と大不況により自由經濟から離れ、
「統制經濟」といふ「社會主義路線」を取込むからである。
「皇道」を來たつもりが、皇道主義者まで皆「赤」だつたと
昭和二十年になつて近衞文麿が驚く所以(ゆゑん)である(近衞上奏文 參照)。
伊原註:昭和20年 2月14日附の「近衞上奏文」の該當箇所を少し引用してをきます。
(眞崎勝次『亡國の回想』國華堂、昭和25/1950.2.1, 42-44頁)
少壯軍人の多數は我國體と共産主義は兩立するものなりと信じ居るものの如く、
軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候、職業軍人の大部分は、中流以下の出身にして
其の多くは、共産的主張を受入れ易き境遇にあり。
又、彼等は軍隊教育に於て國體觀念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、
共産分子は國體と共産主義の兩立を以て、彼等を引きずらんとしつゝあるものに御座候、
抑々滿洲事變を起し、之を擴大して、遂に大東亞戰爭にまで導き來れるは、是等は、
軍部内の意識的計畫なりしこと、今や、明瞭なりと存候、滿洲事變當時、彼等が
事變の目的は國内革新にありと公言せるは有名なる事實に御座候、
支那事變當時も(事變が永引くが宜しく、事變解決せば國内革新が出來なくなる)と公言せしは、
此一味の中心的人物に御座候。
此等軍部内の革新論者の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、
これを取捲く一部官僚、及民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり、
右翼は國體の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命まで引きずらむとする
意圖を包藏し居り、無智單純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候、
此事は過去十年間軍部官僚右翼左翼の各方面に亙り交友を有せし不肖が、
最近靜かに反省して到達したる結論にして、此結論の鏡にかけて過去十年間の動きを
照し見る時、そこに思ひ當る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。
不肖は、此間三度まで大命を拝したるが、國内の相剋摩擦を避けんがため、出來得る丈、
是等革新論者の主張を容れて擧國一體の實を擧げんと焦慮せる結果、彼等の主張の
背後に潛める意圖を十分看守する能はざりしは、全く不明の致す處にして、
何とも申譯無之、深く責任を感ずる次第に御座候。
幸ひ、スターリンを武器貸與法で助けてソ聯を強國化したFDRが死に、
ソ聯が冷戰を始めてくれたお蔭で、日本は反共路線を維持できた。
併し敗戰後の日本は愈西洋(米國)標準一邊倒に傾く。
反米容共派はソ聯標準、
親米民主派は米國標準。
何れも外國が模範で、我國は追隨するだけ。
我國は古來由緒ある文化豐な國である。
江戸時代以來、各藩が王道政治を探求して來た。
西洋一邊倒になつたのは明治“御一新”の歪(ひづみ)である。
我國には皇室が御座(おは)します。
皇室を中心に、我國本來の良き傳統に戻らうではないか。
良き傳統とは何ぞや?
「民の竈(かまど)」に配慮された仁コ天皇の道であり、
伊原註:この「民を慈 (いつく) しむ天皇」の傳統の原型は、
『日本書記』にある天孫降臨の神勅に示されてゐる。
(『日本書記(上)』岩波文庫、103頁)
天照大神が皇孫 (すめみま) に勅して曰 (のたまは) く、
葦原の千五百秋 (ちいほあき) の瑞穗國は、是れ吾が子孫 (うみのこ) の
王 (きみ) たるべき地 (くに) なり、宜しく爾 (いまし) 皇孫 (すめみま)
就 (ゆ) いて治 (しら) せ、行矣 (さきく) の寶祚 (あまつひつぎ) の
隆 (さか) えまさんことまさに天壤 (あめつち) と窮 (きはまり) 無かるべし。
この「しらす」(治める) とは、正に仁徳天皇のやうに
民が生活できるようにしてやれ、との思召 (おぼしめし) である。
和歌(文學の道)と、王道を説く漢學(江戸期の日本儒學)、
そして江戸の庶民が實現して見せた「日常生活に於る美的生活」の追求、
「足るを知る」質素で勤勉な文化生活である。
西洋文明を世界標準と思ひ込んだ誤解の是正である。
伊原註: それは「西洋標準」に過ぎない。
そして「西洋標準」が“世界標準”になったのは、
西洋人が大砲と鐵砲を持つてゐたことが大きい。
インカ帝國の滅亡、北米原住民の殺戮、ハワイ王朝の滅亡、マオリ族の滅亡……
大航海時代以來、西洋人の好き勝手な振舞は枚擧に暇なしである。
「西洋標準」に普遍的的部分と獨善的部分がある。
言ひたいのは、全てが普遍的ではない、といふことである。
十六世紀の大航海時代以來の西洋諸國は、新領土獲得・原住民殺戮の慘事を繰返した。
十九世紀の産業革命以來の西洋文明が追求したのは“奪ふ文明”であり、
エネルギーの浪費、環境破壞、病氣を呼ぶほどの飽食であつた。
大量生産−大量流通−大量消費−大量廢棄−環境破壞。
個人主義も間違ひ。
人は孤立しては生きられない。
家族と共に、近隣社會と共にでないと生きられない。
人の生活の基本は、顔見知りが成立つ程度の小集團生活であり、
然(しか)も農業(食糧生産)と共にである。
小學唱歌に見られるやうに、戰前まで日本社會は農業社會であつた。
それがあつといふ間に重化學工業社會になり、都市化が進み、
金融なる虚業がグローバルに世界を荒(あらし)廻る世の中になり、
電算機が人に命令する「黒箱社會」と化した。
この道は間違つてゐる。
數十億もの人類が追求すべき道ではない。
因みに、ドイツでもフランスでも、
田舎の町が教會を中心に小奇麗に纏(まとま)つて暮してゐる。
東京だけ榮えて地方が衰微する今の日本は狂つてゐる。
伊原註:金融が榮えて物造りが空洞化する現状もをかしい。
日本は嘗(かつ)て共存共榮、
庶民が質素ながら文化生活を樂しむ極樂みたいな社會を二度、實現した。
江戸期と
戰後の高度成長期と。
日本文化が開花したのである。
だが其後 (高度成長後) 狂ひ始めた。
伊原註:上記の二時期とも「家族」と「近隣社會」といふ
二つの大事な「共同體」がしつかりしてゐた。
これが高度成長以降、崩壞したので、日本人がをかしくなつたのである。
「本來の人の道」に戻らうではないか!
百鬼夜行の世の中など、見たくもない!!
(平成26/2014.12.22 執筆/平成27/2015.1.27 補筆)