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若者を未熟にした核家族の弊害
伊原註:先に「若者の劣化招いた疊生活追放」と題して「正論」に投稿したら、
「志ある若者よ、「疊生活」に戻らう」
(「戻ろう」は「校正ミス」)
と題を變へて載せてくれました。
なるほど、否定的な題より肯定的な題の方が良いのかと納得して、
續編を
「若者よ、祖父母に話を聽きなさい」
と題して送つたら、
今度は上記のように「否定的」表現になりました。
新聞社つて、題目は自分で附けたいやうです。
上記「正論」は、6月4日の『産經新聞』に載りました。
(大阪版は13面、東京版は7面、
(この頁の數字を見ても、
(正論路線は東京本社主導で、大阪本社は從屬的と判ります)
(東京本社は政治・外信・評論重視、大阪本社は社會面重視なのです)
核家族の弊害は幾つもありますが、
最大の弊害は二つ、
第一、日本文化の傳承を遮斷したこと、
第二、「未熟者」を大量生産したこと、
の二つです。
小學唱歌も童謠も、祖父母と同居してゐたら
學校で教へなくても子供にちやんと傳はつたのに!
核家族のお蔭で、大人が實に幼稚になりました。
そして「日本の良さ」がうまく傳はつてをりません。
先に若い諸君に「畳生活」を推奬しましたが、もう一つ、
若い諸君に是非とも薦めて置きたい大事なことがあります。
祖父母や年長者と對話し、その話を聽くことです。
某中學校の先生曰く、務め始めた年に、初めての家庭訪問をした。
そしたら、見所のあるしつかりした生徒の家には
必ず祖父母が居て、神棚や佛壇があつた、と。
子供は父母を見て育ちます。
だから父母が口で幾ら奇麗事を教へても、
父母の生活態度が好い加減だつたら子供はだらしなく育ちます。
子供にきちんと片附けさせたかつたら、
父母自身が先づ、きちんと片附けて見せねばなりません。
その父母は祖父母に仕へますから、
子供は、父母が敬(うやま)ふ人がゐる、と知ります。
祖父母は神や佛を敬ふので、
祖父母よりもつと偉い存在もある、と承知します。
かうして長幼の序を知り、秩序を心得、大いなるものへの畏敬の念まで心得るのです。
己の「分」(集團内の自分の位置)も悟ります。
核家族は未熟者の温床
(掲載版では「長幼の序や畏敬の念學べず」)
戰前戰後の日本では、三世代同居が普通でした。
これが崩れるのは高度成長以降です。
核家族が普及し、
新婚夫婦は長男でも親元を離れて新家庭を營むやうになりました。
すると未熟者が輩出(はいしゅつ)します。
新婚夫婦は人生經驗未熟で、出産も育兒も手探りでやるほかない。
何事も初體驗して惑(まど)ひ惱みます。
祖父母は家庭内の世間の目、家庭と社會を繋ぐ存在です。
それが居ないと、我儘が抑制できない。
他人の意向を構はぬ“新人類”が
勝手し放題の核家族から出現しました。
躾(しつけ)とは、
子供が成長と共に身につける秩序感覺であり、
他人との距離の置き方・間合ひの取り方・附合ひ方の基本です。
子供の躾は若い父母には難しい。
叱る一方なので躾が偏る上、
父母は家庭では氣樂に振舞ひ、子供の手本になりにくい。
その點、祖父母は「家庭内の世間の目」ですから、
父母も自然と身を慎みますし、
孫を第三者の目で見て褒(ほ)める余裕もあります。
「×ちゃん、偉いねえ、こんなことがちやんとできるのね」
孫は得意になり、
おぢいちやんやおばあちやんが大好きになつて、
良い性格がどんどん伸びます。
家庭内の祖父母の效用
(掲載版では「幼稚化した若者世代の國語」)
祖父母は人生經驗豐かで生活の智慧がたつぷりあり、
日常生活の中で折に觸れてそれを孫に傳授します。
箸の持ち方、
鉛筆の削り方、
肥後守の使ひ方、
林檎の皮の剥き方、
竹蜻蛉(竹馬も!)の作り方や飛ばせ方、
風呂敷の包み方、
ちよつとした怪我の應急手當から、
脱いだ履物(はきもの)の揃へ方、
友達との附合ひ方、
字の筆順、
歴史事件の年號の覺え方、
桃太郎・かちかち山のお話から江戸いろは歌留多の文句、
和歌や俳句の幾つか、
偉人の逸話、警句、
童謠唱歌、等々。
日本文化の常識は祖父母から孫に傳はるのです。
祖父母が孫を訓育感化すると、孫はまともな日本人に育ちます。
人生經驗未熟な若い父母では、
子供は日本人らしい發想法や行動樣式が充分身につきません。
だから高度成長以來、日本人が育ちにくくなりました。
新婚家庭が祖父母を排除して生じた最大の障礙(しやうがい)は、
若い世代の國語が幼稚化したことです。
日本人および日本文化の根幹は國語です。
それがうまく繼承されてゐません。
日本人が言靈(ことだま)と尊び、
聖書も「太初(はじめ)に言葉ありき」と宣言した大事な言葉を、
戰後の日本人は實に粗末に扱ひました。
せめて祖父母が孫と同居してゐれば
基本はちやんと傳つたのにと殘念至極です。
日本文化の末端の傳授者
(掲載版では「祖父母や年長者の話を聞け」)
三世代家庭なら、敬語が自然と身に附きます。
父母が祖父母に敬語を使ふからです。
そして敬語こそ、人間關係を重んずる日本文化の精髄です。
他人(「たにん」と讀んではいけません。「ひと」です)への配慮が籠るからです。
ここで孫は言葉の使ひ分けを學びます。
これが將來、外國語を學ぶ時に役立ちます。
國語の使ひ分けは、國語と外國語の使ひ分けに通ずるからです。
敬語は今、辛ふじて大學のクラブに殘るだけ。
特に先輩・後輩の序列に嚴しい體育會系がさうです。
でも「ファンの皆さんが應援してくれてゐるので……」と言ふ選手が少なくない。
「應援して下さつてゐるので……」と言へないのです。
この選手が祖父母と同居してゐたら、直ちに注意を受け、
次の機會にはちやんと「下さつてゐる」と言へた筈です。
近頃の若者は、言葉を耳からでなく目から入れてゐます。
NHKのアナウンサーが「タニンゴト」と言ふ。
「ヒトゴト」が耳から入つてゐないのでせう。
「他人事」と書いても、音聲では「ヒトゴト」としか言はないのに。
「とんでもない」を「とんでもございません」と言ふのは間違ひです。
「とんでもない」は一語ですから、「ない」だけを丁寧語に變へられません。
また「申す」は謙讓語ですから、目下の者が自分で使ふ言葉です。
いくら敬語の語尾を附けて「申された」と言つても相手には使へません。
日本人の日本人たる基本は、國語を正しく讀み書き聽き喋ることです。
國語を疎(おろそ)かにして日本人と言へませうか?
英語を學ぶ前に、しつかり國語を身に附けて置いて慾しいものです。
國語の教育を疎かにしてをいて、小學生に英語を教へるなど、とんでもないことです。
戰後の日本では國語が實に好い加減に扱はれて來ました。
「じ・ず」と「ぢ・づ」は發音がはつきり違ひ、
國語では壓倒的に破裂音「ぢ・づ」で發音するのに、
全て摩擦音「じ・ず」で表記する。
これだけでも、現代假名遣は再改訂が必要です。
日本人は、フランス語の一人稱主語「ジュ」の發音が苦手です。
大抵「ヂュ」と破裂音で發音してしまふからです。
特に現代假名遣では「ジュ」と書いて「ヂュ」と發音してゐるから
餘計具合が惡い。
國語學者は「音痴か」 と毒突きたくなります。
若者は今しか知りませんが、
「今」は「昔」と較べて初めて認知できます。
父母の知るほどの「昔」では近すぎて「比較」の對照にならない。
祖父母の知る「昔」と比べてやつと「今の時代」の特徴が摑(つかめ)るのです。
若者よ、祖父母や年長者の話をよくお聽きなさい。
そして自分が生きる今を客觀視すると共に、
人生經驗豐な高齢者から人生の智慧をたつぷり受繼ぎなさい。
(いはら きちのすけ/平成26年/2014.8.16補筆)