台灣のひまはり學運 - 伊原教授の読書室

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      台灣のひまはり學運



伊原注:『關西師友』五月號の 10頁〜13頁に掲載した「世界の話題」291號です。

        少し手を入れてあります。





        台灣護持に立上つた學生達



  3月18日晩、台灣の學生數百人が立法院を占據しました。

  これが世界史上の快擧になりさうです。

  但しさう理解するには、豫備知識が若干要ります。


  第一、台灣人の八割餘が漢族と全くDNAが違ふこと。

  これは台灣の複數の醫師が調査濟です。

  台灣人を大陸から渡來した漢族の子孫と誤解する人が、台灣人の間にも尠くありませんが、

  それは大きな誤解です。


  台灣人は平埔〈へいほ〉族(先住民中の平地住民、マレー・ポリネシア系)の後裔なのです。


  渡航禁止令が敷かれてゐた清朝時代の台灣に、

  大陸から渡來した漢族は男だけ、女性は一人も來て居りません。


  台灣は瘴癘〈しやうれい〉の地と言はれる傳染病の巣窟でしたから、

  渡來した男も大半が病死または大陸に逃げ戻りました。


  その極く一部が住みついて平埔族の娘と結婚しますが、漢族の血は殘らない。

  子供はハーフ、孫は四分の一、曾孫は八分の一、十六分の一、三十二分の一……と、

  漢族の血は平埔族の中へ消えて行きます。


  明末の清朝による台灣領有は、鄭成功が叛亂根據地にした事態を再現させぬためです。

  だから渡航禁止の海禁令を出しました。

  阿片戰爭後、列強に奪取される危險を感じた清朝はやつと台灣を統治し始め、

  税金を漢族は最も安く、

  混血は次に安く、

  先住民が一番高いといふ順で税金をかけた。


  斯くて先住民に漢化の動機が生じます。

  清朝が改姓を許すや否や、

  平埔族は爭つて漢族風の名前に變へ、

  系圖まで買つて漢族を裝ひます。


  聞く所によると、台灣人の系圖は殆ど贋物の由です。


  かうして台灣人は漢族の子孫を裝ひ續け、

  遂には自分らまで“漢族の子孫”と信じ込み、

  だから戰後も獨立を選ばず、

  中華民國の占領を“祖國復歸" として歡迎する羽目になつたのです。



        “祖國" の壓政に苦しんだ台灣人


  承知してをくべき豫備知識の二番目は、

  中華民國の台灣占領軍は台灣人を差別した、といふ事實です。


  蔣介石は台灣を子分の陳儀に與へます。

  陳儀は軍閥の常識通り台灣を戰利品として奪ひ盡しました。

  台灣特産品の米と砂糖、接收した日本資産などを片端から大陸に送り、

  私腹を肥やしました。


伊原注:この邊りの生々しい事實が、下記の本に詳しく記 〈しる〉されてゐます。

        ジョージ H.カー (蕭成美譯)『裏切られた台灣』 (同時代社、2006.6.26)  4000圓+税

                  (陳榮成譯)『被出賣的台灣』 (台北、前衛出版社、1991.3./1992.2.四刷)

                            300元


  台灣を占領した國民政府の「前進指揮部」の葛敬恩中將は、

  台灣は「化外の地」で台灣人は「二等國民」であり、

  台灣は「關外」の島で正當な中國文化の薫陶を受けてゐない、

  從つて台灣人には「中華民國憲法は適用されない」と宣言します。


  陳儀政府の台灣人虐遇にたまり兼ねた台灣人が抗議した機會に

  台灣の人材を殺戮したのが1947年に起きた「二二八事件」です。


伊原注:228事件には二つの意義があります。

        第一、二月二十八日に起きた台灣人の抵抗事件。

        第二、三月以降に起きた陳儀政府の台灣人虐殺事件。

        普通、「二二八事件」といふとこの二つをひつくるめて言ひますが、

        重點は國民政府が日本時代に育つた人材を抹殺した後者です。


  爾來〈じらい〉、台灣人は中華民國を「外來政權」と認識して來ました。

  でも蔣家の軍事獨裁に台灣人は手出しできません。


  1981年7月の陳文成博士殺戮事件、1984年10月の江南殺人事件を契機に、

  米國が壓力をかけます。

  台灣人の反國民黨勢力を應援して國政選擧に出馬させたのはCIAです。


伊原注:米國が蔣經國にかけた壓力については、下記參照。

        拙稿「蔣經國小論──蔣經國が憲政改革を指示した經緯──」(『帝塚山大學教養學部紀要』第46輯/平成8/1996.11.25、掲載)


  目先の利く蔣經國は野黨設立を黙認し、

  憲政改革を公言して外來政權の生延びを策したあと、亡くなります。


  承知してをくべき豫備知識の三番目は、

  台灣内の民主化努力です。


  1950年代以降、白色テロとして、

  台灣に浸透する中國共産黨と、

  蔣家獨裁に反撥する台灣獨立派に對する

  “血の彈壓”が續きます。


  台灣に流氓した中國國民黨の壓制下で、

  台灣の先人が民主化に努力を重ねました。


  抗爭の轉機は、1979年12月の「美麗島事件」です。

  國際人權デーの温和な集會を一大騷亂事件にしたのは、

  蔣經國が手配した國民黨の暴力團の仕業でした。

  彼等の暴力が警官側に怪我人を輩出させます。


伊原注:私が當時、台獨派の友人から聽いた話では、

        蔣經國は「平和な集會」を爭亂にして一擧に民主化運動を潰すため、

        警官隊に「絶對抵抗するな」と嚴命し、

        他方、國民黨の院外團 (疾風組=暴力團) に警官を徹底的に毆らせた由。

        そこで警官の何名かが意識不明の植物人間になつたさうです。


  これで反政府運動が潰滅〈くわいめつ〉する筈が、さうはなりません。

  これまで政治犯は孤立したのに、美麗島事件の被告は英雄視されました。

  そこで蔣經國は、もはや彈壓では台灣人が屈伏しないと悟りました。

  この美麗島集團が民進黨を結成します。


伊原注:この美麗島集團に、若手の編集者・執筆者グループ が加はつて

        民進黨を結成するのです。

        その若手の代表グループ が「新潮流」です。

        母屋を乘つ取られた形になつた美麗島グループ からは、

        施明コ、許信良のやうな元黨主席の反逆者が生れます。



        今やつと育つた若い新生世代


  これら先人の蔣家獨裁に對する苦鬪を忘れた台灣人は、

  2008年の總統選擧で外來勢力中國國民黨の馬英九を總統に選びました。


  日本の敗戰後に獨立を選ばず“祖國復歸" に甘んじた誤りに次ぐ

  台灣人の致命的失策です。


  その報ひを若者がしつかり受止め、對中接近に歯止めを掛けたのが、

  今回の太陽花(ひまはり)學生運動です。


伊原注:ひまはりを中國語では「向日葵」と書きます。

        今回の學生運動がそれを使はず、「太陽花」と書くのは、

        これが「台灣語」だからです。

        この字を見ただけで、この學生運動が「台灣人」の運動であることが判ります。


  「太陽花學運」は、

  花の名を附けた戰後台灣の學生運動の三番目に當ります。


  一番目は、李登輝總統時代の1990年3月16日に、台灣大學の學生が地方大學に呼掛け、

  中正紀念堂で坐込みを始めた「野百合學運」です。


  各大學の校際會議で七人から成る指揮中心を構成し、

  六つの工作小組を從へて四要求を出します。

        @國民大會の解散(萬年議員退陣)、

        A臨時條款(憲法停止)の廢止、

        B國是會議(台灣人の民意機關)の招集、

        C政治改革の時間表の提示。


  李登輝總統はこれを受止め、要求は略〈ほぼ〉實現します。


  李登輝さんは、蔣經國歿後に總統になつたものの、

  國民黨の元老に取圍まれて身動きならぬ状況にありました。

  野百合學運は孤軍奮闘してゐた李登輝總統を助け、

  國民黨獨裁體制の打破に大貢獻しました。


  二番目は2008年11月、中國海協會會長陳雲林の訪台を巡つて、

  馬政權の中國迎合に異を唱へた「野草苺學運」です。

  要求は三つ、

        @過剰警備を可能にした集會遊行法の改正(許可制を申告制にせよ)、

        A中國に迎合した馬英九總統・劉兆玄行政院長の公開謝罪、

        B過剰警備を實施した國家安全局長・警政署長の辭任。


  この學生運動は、市民の差入れや獻金に支へられながらも、

  馬英九政權がまだ勢ひがあつたため、

  一箇月後の12月10日、國際人權デー當日に

  警察に解散させられて要求は通りませんでした。


  三番目の今回、「太陽花學運」指導者は、

  二番目の「野イチゴ」運動を經驗した學生が指導しました。


  遠因は、野イチゴ運動同樣、馬政權の對中急接近への警戒です。

  近因は、中國と結んだ服務貿易協議(サービス貿易協定、以下服貿と略稱)への警戒です。


  この協定を通せば、中小企業の多い台灣は經濟的に中國に呑込まれてしまふ

  といふ危機感が主因です。


  そして馬政權が中國と「暗室協議」で纏めた協定を、

  碌に審議させずに批准を急いだのが非民主的だとする手續不備を突破口にしました。


  3月17日、逐條審議を主張する野黨の抵抗を阻止するため、

  立法院内政委員會の召集人張慶忠(國民黨立法委員)が

  開會30秒で審査打切り・本會議送附を宣言したのが始りです。


  早く批准したい馬總統が決着を急〈せ〉かせたのです。


  3月18日午後、兼ねて危機感を抱いてゐた學生が集まり、

  その日の晩、本會議場である立法院議場を占據・封印することを決め、

  直ちに實行に移します。


  學生の要求は四つ、

        @服貿の撤回、

        A「兩岸協議監督條例」(對中協議を民意代表に監督させる條例)の法制化、

        B公民憲政會議の開催、

        C民意尊重(朝野議員の參與と人民の要求に應〈こた〉へること)。


  初め、立法院本會議で審議が始る21日まで占據を續けると言つてゐたのが、

  馬政權が學生の要求に應へないので長引きました。

  23日に馬英九總統が國際記者會見して服貿撤回を拒否したため、

  學生は占據延長を宣言し、一部の強硬派は行政院占據行動を起こします。

  行政院は秘密文書が澤山あるので、政府は警察を動員して強制排除に出ます。

  ここで怪我人がかなり出ました。


  馬政權が學生の要求を容れないので、學生は30日、

  總統府前のケタガラン大道で10萬人デモに打つて出ます。

  それに50萬とも70萬とも言はれる人數が集りました。

  警察は11萬餘と低評價します。

  解散後、學生達は紙屑一つ殘さず整然と引揚げました。


  學生の立法院議場選擧が長引き、膠着状態に陷り、倦怠感が生じ始めた4月6日、

  頃合を見計らつた王金平立法院長が立法院に姿を現して學生に

  「監督條例が完成するまで服貿協議の審議に入らぬ」

  と約束したので、

  學生は10日引揚げを約束し、占據してゐた議場を整理整頓した上で引揚げました。


  ひまはり學運に注目して台北に飛んだ福島香織さんは、學生達の

  ロヂスティックス(「喰ふ寢る所に住む所」の管理)の見事さに感嘆してゐます。


  總指揮部の下に

        渉外部門、

        物資管理部門、

        メディア對應部門、

        醫療部門、

        廣報發信部門(特にネット利用)、

        35箇國語對應の通譯部門まで。


  「直ぐにでも政黨が作れさうな人材の充實ぶり」

  と福島香織さんは驚嘆してゐます。


  今回のひまはり學運の注目點は三つあります。


  第一に、專制體質の中國國民黨馬政權の獨善を、非力な野黨に代り、

          學生運動が一般市民の緊密な協力を得つつ正したこと。


  第二に、指導と統制の見事さ。

          台灣民主主義の新しい擔手〈になひて〉が登場したのです。


  第三に、中國に呑込まれたくない台灣の民意が明確に表明されたこと。


  台灣の前途に注目しませう。

(平成26.4.10/6.6加筆)


伊原追記:台灣のひまはり學運が立法院議場を撤退した直後に本文を書いたので、

          關連する動き(特に中共政權の動き)も、其後の展開もこの一文には

          入つてゐません。

          それを追加するには、目下作成中の「台灣年表・覺書」を纏めねばなりません。

          その作業に追はれてゐる所です。

          (ワープロ作業を續けると忽ち背中が痛くなるので休まねばなりません)