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知 性 と は
伊原註:これは『関西師友』平成26年二月號 8-9頁に掲載した「世界の話題」(259) です。
先の見えぬ人、見ようとしない人が餘りにも多いので書きました。
先の見えぬ人とは、日本の前途に全然危機感を持たない人のことです。
因みに私は「改憲反對」論者です。あの憲法は無效にすべきものです。
「改憲」は、基本を認めて部分修正だから贊成できません。
また軍備は報復力が抑止力になるので、報復力を持たないと抑止できず、
從つて平和を守れません。
そんな簡単なことが判らぬ人が多いので、
知性を磨いて下さい、といふ趣旨で書きました。
少し増補してあります。
知より情を優先した戰後日本
戰後、同年齢層の半分以上が大學に進むやうになりました。
では戰後の日本人は戰前より賢くなつたでせうか?
ぜーんぜん! 寧(むし)ろ幼稚化してゐます。
理由は澤山あります。
第一、語彙(ごゐ)の激減。
米占領軍が日本の國語學者にやらせた漢字制限・略字化により、
知識人の語彙が激減し、思考能力が弱りました。
伊原註:私がここで「知識人」といふのは、
學卒以上の人です。
大學は高等教育機關ですから、
卒業生は立派な「知識人」の筈です。
大學教授は「高等知識人」と言つて宜しいが、
大學教授なら皆、戰前の本が讀めるでせうか?
大いなる疑問ですねえ……
戰後知識人の多くが戰前の文章を讀まない。
讀まないから讀めない。
知識人にとつて「讀めぬ」のは知性不足だから恥ぢねばならないのに
恬(てん)として恥ぢない。
知識人が墮落し、幼稚化したのです。
日本語の基軸は、
漢 文(シナの古文)と
和 文(萬葉集以來の和文、その精髄は和歌)
ですが、國語教育で漢文も和文も殆ど教へてゐません。
だから日本人の國語力がうんと落ちました。
第二、知性(理性)を輕んじ、感情を重んじた。
だから使命觀を使命感と書きます。
觀は知性、感は感性です。
伊原註:これを書いたあと、些か氣になつたので、
岩波の『廣辭苑』(第五版)を引いて見ました。
曰く、「與へられた任務をやり遂げようとする責任感」
責任觀、とは書きませんね。
從つて「使命觀」ではなく、「使命感」で良いようです。
戰後デモクラシー(日教組)は子供に
「君らはあるが儘(まま)で良いんだよ、努力などせんで宜(よろ)しい」
と教へました。
欲望肯定、向上意欲の否定、人の尊嚴無視です。
第三、權威の否定、長老の輕視。
人生經驗の集約である權威や長老を輕んじて
「若氣(わかげ)」を横行させました。
若氣は障礙(しやうがい)を突破するには有效ながら、
盲目的ですから成功は覺束(おぼつか)ない。
建設より破壞に向かふのです。
だから舊態依然の突破には宜しいが、
協調や建設とは無縁です。
核家族とは、若氣に子育てを委ねたみたいなものです。
西部劇のやうな農地開拓なら、
成果(收穫)を生まぬと餓死しますから 逸脱は抑制されますが、
都市化時代では放埒(はうらつ)が罷(まかり)通り、
まともな人生軌道から外れつ放しで生きてしまふ危險があります。
自分一人が道を外れるのは勝手ですけれども、
それなら人を捲込まんで貰ひたいですねえ。
日本人は情の文化を豐(ゆたか)に育てて來ました。
ですが知情意といふやうに、情單獨では偏(かたよ)る。
平衡感覺 (sense of proportion) なしに人は
圓滿具足たり得ないのです。
知性を鍛へる方法とは?
知性が衰へてゐるなら、鍛へねばなりません。
先づ、知性とは何でせうか?
自己認識能力。
「彼を知り己を知る」ことです。
伊原註:自分を幾ら見つめても自分は判りません。
他人を知ること、他人と格鬪することでやつと自分が判るのです。
だから自分を知ることは他人を知ること、
他人を知ることは自分を知ることなのです。
同じことは自國認識についても言へます。
外國を知ることは自國を知ること、
自國を知ることは外國を知ること。
だから私は、日本史研究者は必ず外國に留學すべし、
外國人に日本史を講義すべし、と思ひます。
西洋史學者は日本史も講義すべきです。
自己認識能力があると、自他を客觀視でき、
危機・逆境に際して冷徹さを保持します。
洞察力、則ち先見力。
指導者に必須の能力であり、
政治家・教師・研究者・ジャーナリストには必要不可欠です。
いや、一部少數者に限らず、民主社會で一票を行使する有權者に必須の能力です。
反省力。
過去の出來事 (自身の過去の言動も、社會の過去の動向、つまり歴史も) の問題點を見附けて
同じ過ちを繰返さぬやう配慮すること。
では、どうすれば知性を磨けるか?
第一に國語力を鍛へること。
讀上げることと書寫すことが基本です。
何を?
漢文と和文と現代文。
新聞の文章は送假名の送り過ぎでふやけ間延びしてゐて駄目。
般若心經や百人一首、江戸いろは歌留多なども手本になります。
各種辭書の拾讀みも。
外國語も、讀上げ書寫しで物に出來ます。
問題は反復・集中・繼續するかどうかです。
第二に古典の熟讀。
この場合、多讀よりも少數の優れた書物を反復熟讀、
讀抜き讀破つてその古典を自家藥籠中のものにすることですね。
昔から「一書の人を畏れよ」と言ひますから。
第三に傳記の多讀。
偉人は何度も危機や逆境を乘越えてゐます。
「その時、自分ならどうするか」を自問自答すること。
成功經驗より挫折經驗が人を伸ばすことに御注目あれ。
挫折に耐えそれを乘越える努力が人を偉大にします。
成功は寧ろ人を墮落させます。得意になり慢心するからです。
挫折經驗のない秀才に鼻持ちならぬ人が居るのは、そのせいです。
かう書いて來て、結局は意欲の問題だと思ひ到ります。
人に「學べ」と言はれて學んでゐるやうでは、既に出遲れてゐます。
人に「こんな方法があるよ」と言はれて「さうか」と悟るやうでは鈍い。
萬事自ら考へ、自ら工夫し、自ら習得し、
人から「そんな遣(やり)方があつたか」と讃歎されねば──。
だから知性を備へた人は常に少數なのです。
私は河合榮治郎の理想主義・人格主義から
「自己形成」の大事さを學びました。
自分で自分を鍛へ上げ、磨き上げること。
スポーツ選手を御覧なさい。
自分で自分を鍛へます。
長距離を走るのは苦しいものです。
そのことを私は、中學一年生の夏から二年生の夏までまる一年、
堺中の蹴球部に入つて骨身に染みて悟りました。
蹴球部では、長距離走も短距離走もやります。
長距離走つたあと、「ダッシュ!」と全力疾走するのです。
全く、死んだ方がまし、と思ひました。
でもあのお蔭で健康の基礎ができた。
他人から「10キロ走れ!」と強制されたら、これは拷問です。
苦痛以外の何者でもない。
併(しか)し、マラソンをやらうと思つた人なら、苦しいけれども耐へられます。
目標があるからです。
大いなる目標を持つて自分を鍛へませう。
特に成長期にある青年は。
若い時樂すると、年取つてから苦勞しますよ。
(平成25年12月25日/平成26.5.23加筆)