家族の再建が急務 - 伊原教授の読書室

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「年頭所感」(平成26年/二〇一四年)



家族の再建が急務



伊原註:これは『國民新聞』の「年頭所感」特集號(平成26年/2014年 1月31日) の

        一面に掲載された私の「年頭所感」です。




  易姓革命でシナの王朝が滅び、歴史をぶつ切れにして來た大きな原因が、

  均分相續にある。

  これで農地が忽ち細分化し、食へなくなつた農民が叛亂を起こして

  人口激減と王朝の交代を齎した。

  シナ大陸が、安定期より動亂の時期の方がずつと長く續く理由が、

  均分相續に由來する。


伊原註:シナの人口は、動亂の時期(? 數十年續く) に半減ないし九割減します。

        人口が著しく減るのです。

        だから、新王朝が成立して治安が回復すると、たちまち安定し、繁榮します。

        これで「天命天子」であることが立證されたと喜ぶのも束の間、

        均分相續の所爲で

        また忽ち耕地が細分化し、食へなくなつた民が暴民化して

        「天命が去つた」状態に戻るのです。

        シナが安定期より動亂期の方が常態であるのは、ここに原因があります。


  我國は、明治の初め、ナポレオン民法をモデルに民法を制定した時、

  民法學者の間に一大論爭が起き、

      「民法出デテ忠孝亡ブ」

  といふ論文まで現れた。

  個人主義原則が家族や國家の團結を破壞すると憂慮したのである。


  しかし我國は長子相續を守つたので、家族も家産も國民共同體も守れた。


  問題は戰後である。

  新憲法第二十四條で

    「婚姻は、兩性の合意のみに基いて成立し、

    「夫婦が同等の權利を有することを基本として」と、

  個人主義を導入し、長子相續を否定して均分相續になつた。


  ここから核家族が標準化し、家族解體が始る。

  相續を機に土地も財産も細分化し、兄弟姉妹がばらばらになる。


  家族は、親子關係に注目したドイツではゲマインシャフト(共同體)であつたが、

  夫婦に注目する米國ではアソシエイション(利益社會・目的社會)になる。

  「合せものは離れもの」で、夫婦中心の家族は離婚しやすい。

  夫婦のみか、親子關係も、核家族では實に脆 (もろ) いのである。

  「核家族」は「家族解體」の始りなのである。


  核家族は自分中心だから、家系を守らない。

  神棚も佛壇もない。

  神社佛閣とも縁がない。

  先祖代々の墓も守らず、親の面倒も見ない。

  時々神社佛閣に參つて賽錢を投じ、現世利益を期待するが、

  神社佛閣の維持には關與しない。


  都市化と相俟つて「隣は何をする人ぞ」と地域共同體からも離れてしまつた。

  都會は根無し草連中の集積場且つ墓場になつた。


  今や「大衆」は「孤衆」と化して久しい。

  密集してゐるが個々ばらばら。

  これでは社會も國家も維持できない。

  神輿(みこし)を擔(かつ)ぐ人が減り、

  神輿にぶらさがる人が殖えたら、神輿は動かない。


  人は太古以來、共同體の中で生れ育つた。

  子孫を生み育 (はぐく) むことは、神聖な作業であつた。

  だが時代は變つた。

  今や生みの親が子供を邪魔者扱ひし、いびり殺す時代である。

  嘗 (かつ) て共同體だつた家族も近隣社會も、今や形骸化してしまつた。


  戰爭中、空襲で燒出された人は全て自分で活路を見附けた。

  終戰時、日本人は自力で買出しをし、庭に薩摩芋を植えて生き延びた。


  今、人々は災害に遭ふとひたすら救ひを待つ。

  個人がこれほど無力化した時代はない。


  親の面倒を子供が見ないから、國家が税金で面倒を見る。

  主婦が働きに出て子供を育てないから、

  國家や企業が保育園を準備せねばならない。

  子育てこそ種の保存の肝要且つ神聖な作業なのに!


  國家は萬能なのか?

  個人は何故、かくも弱體化したのか?


  經濟成長(大量生産−大量流通−大量消費−大量廢棄−環境破壞)、

  個人主義、社會主義は個人を限りなく幼稚化し、

  邪魔臭がりにし、

  危機にひたすら救ひを待つひ弱な存在にした。


  人類は滅びに向つて突進してゐるのではないか?


  さうでないといふのなら、

  家族や近隣社會を共同體として再建しようではないか。

(平成26.1.7執筆/3.26補筆)


伊原追記:

  ここで、家庭に於ける祖父母の重要性を悟ることになります。

  祖父母は人生經驗豐かなので、孫にいろいろ生活の智慧を教へられます。

  鉛筆の削り方、果物の皮の剥き方、履物はすぐ履けるやうに外に向けて揃へて置くこと、

  箸の持ち方、傷の手當の仕方、口の利き方

    (仲間言葉と餘所行き言葉、

    (ぞんざいな言葉遣ひと丁寧な言葉遣ひ、

    (目上・同輩・目下による言葉の使ひ分け、

    (地方辯と標準語の使ひ分け、等々)

  其他諸々

  江戸いろは歌留多から百人一首、諺や川柳、古典の一句などを、

  日常生活の中で孫に教へて常識を養ひ、

  それらを通じて自然に人との附合ひ方を身に附けさせるのです。

  言葉は何より音でありまして、子供には特に音を通じて言葉を覺えさせなくてはなりません。

  父母は人生經驗未熟ですから語彙 (ごゐ) が尠 (すくな) い。

  子供の話言葉の教育は、斷然 祖父母の方が適してゐます。


  何より、親が祖父母に接する接し方を見て、子供は年長者への敬意を身に附けます。

  その祖父母が神棚や佛壇に拝禮するのを見て、

  子供は世の中に畏敬すべきものがあると悟ります。

  かくて家に秩序が生れ、禮儀 (人との接し方) を身に附けた子供が育ちます。

  親子では、かういふ「權威」が生れにくいのです。

  權威が乏しいと、秩序は生れません。


  祖父母と孫が同居することで、國語の使ひ方を含む日常レベルでの「日本文化」の授受、

  日本人らしい生き方をする日本人が連綿と續きます。

  でも戰後、多くの家庭が祖父母と同居しなくなつたため、

  日常レベルでの「日本文化」の授受が行われなくなりました。

  だから大學生になつても、きちんとした國語が身についてゐない日本人が殖えました。

  大體「常識」が廢れて久しいのです。

  テレビのアナウンサーですら、をかしな國語を使つて平氣です。

  注意すべき上役も、國語が身についてゐないのではないか……?


  それなのに、英語を身に附けねばと言つて小學生にまで英語を教へようとしてゐます。

  先づしつかり國語を身に附けさせることが大事なのに……


  日本の戰後の最大の缺陷は、國語をおろそかにしたことであります。