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日 本 文 明 の 出 番
伊原註:昨年11月に台灣へ行き、歸國後「腰椎の壓迫骨折」を發症しました。
それ以來、「讀書室」への拙文掲載が滯つてをりましたが、
先月末 (平成26年 2月末) 退院できたので、ぼつぼつ掲載を再開します。
これは『関西師友』平成25年11月號掲載の「世界の話題」287號です。
若干増補しました。
産業革命以來の文明の轉機
かねがね現代文明の行詰りを感じてゐました。
西歐近代文明はこの儘存續できないのではないかと。
さう考へる根據は澤山あります。
第一に個人主義・合理主義の行詰りです。
個人主義は集團生活を壞し、個人をばらばらにしました。
個人の都合を優先して、家族や近隣社會を二の次三の次にしました。
さうすると個人が“浮遊" し始めます。
根無し草になるのです。
核家族は家庭崩潰の始りです。
三世代同堂の大家族で祖父母や家長が權威を持たないと孫がまともに育たず、
家庭の團欒も保てません。
また合理主義は、限られた枠内でしか成立たぬ限定的なものなのに、
無限定で通用させるから、人間性を歪めます。
第二に、英國産業革命後の資源浪費と自然環境破壞です。
資源浪費とは、エネルギー多用による省力化です。
エネルギーを浪費して人が樂をする仕組です。
それとそれまでの資源の循環構造の分斷による環境破壊です。
産業革命は作業も動力も機械化し、大量生産が大量消費と大量廢棄を齎し、
それまで機能してゐた循環構造をづたづたに切斷しました。
人糞を肥料にしてリサイクルしてゐた農業時代と、
水洗便所で廢棄する現代社會を較べてみて下さい。
都市生活の便利快適の代償は、物凄い浪費と、
子供が人間らしく育たなくなつたことです。
第三に、工業化が輕工業から、重化學工業へ、
更に金融へと發展するに連れ、生産も生活も極めて抽象的になりました。
特に第二次大戰後、コンピューターが開發されて以來、やたらブラックボックスが殖え、
人々は假想現實に生きるやうになりました。これが人間らしい生き方でせうか?
ソ聯崩潰後に米國が主導したグローバリズムも、
米國の都合に合せて各國の良き傳統を容赦なく破壞する點では
好ましくない動きです。
「和」と「共生」で生延びよう
産業革命以來の“人工過剰社會" に警告を發したのが、
二十世紀後半に出て來た公害への告發、生態環境再認識の動きです。
この動きは、江戸時代に理想的なリサイクル社會を築いた日本人には、
親しく懐かしい生活の再認識を迫るものでした。
西歐流の過度な人工環境構築を止め、日本文明が持つ良き傳統を再構築すれば、
人口が殖えた二十一世紀の地球にも“望ましい環境" を築けるのではないか。
さう考へてゐた時、良書を見附けました。
外交官だつた馬淵睦夫さんの著書
『いま本當に傳へたい感動的な「日本」の力』(總和社、平成24年)です。
馬淵さん曰く、
我國は幕末に西歐の近代國家形成壓力に接して、
自國の傳統を保持しつつ、近代化に成功した。
これで傳統と近代化を兩立しつつ獨立國になれた。
今、世界中の多くの國が近代化と傳統の兩立に惱み、日本の經驗に注目してゐる。
近代化を無闇に進めれば傳統文化を喪ひ、
外國文明に呑込まれて獨立を失ふ危險に曝されてゐるからだと。
日本が自國の傳統を守れたのは、
芥川龍之介の言ふ「造り變へる力」(「神神の微笑」)なのだと馬淵さんは言ひます。
これを馬淵さんは更に日本の傳統的な「和」と「共生」の思想に結び附け、
日本の途上國支援の妙を説きます。
日本は戰後、まだ復興途上にありながら途上國を支援しました。
日本の援助目標は、援助對象國の自立に貢獻すること、です。
それには、日本が先輩面してあれこれ指示するのではなく、
支援國の自立を促す「伴走者」の立場に徹せねばなりません。
この援助哲學が、當該國に頗る喜ばれてゐる由です。
二十一世紀、地球上に二百箇國もひしめく時代に
全ての國が平和共存しつつ經濟成長するには、
産業革命以來の浪費的生活樣式・生産方法を改め、
「人からして慾しいことを人にせよ」(新約聖書「マタイ傳七−12)、
「己の欲せざる所を人に施す勿れ」(論語「顔淵第十二」「衛靈公第十五」)
といふ姿勢で他國に接する必要があります。
それには先づ、
日本文明の良き傳統を私達自身がよくよく自覺して實踐せねばなりません。
皆さん、ぜひ馬淵さんの著書をお讀み下さい。
問題があります。
「人からして慾しいことを人にしない」國が出て來た場合はどうすれば良いか?
「己の欲せざる所を人に施す」國が隣國なら、どう附合へば宜しいか?
それを跳ね返す力を備へてゐない限り、好きなようにあしらわれてしまひますから、
「跳ね返す力」 (自衛力+反撃力) を備へねばなりませんね。
(平成25年/2013年10月4日)