日米百年戰爭の行く末 - 伊原教授の読書室

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    日米百年戰爭の行く末



伊原註:これは『關西師友』平成25年10月號 8-9頁に載せた「世界の話題」286號です。

        適宜増補や追記をしてあります。




            お山の大將俺一人の米國


  最近讀んだ下記三册から、日本を追詰めた現代史の眞相が見えて來ました。


  A:田中英道『戰後日本を狂はせたOSS「日本計劃」』

              (展轉社、平成23/2011.7.25/平成24/2012.4.22 三刷) 

  B:パトリック J.ブキャナン (河内隆彌譯)『不必要だつた二つの大戰──チャーチル と ヒトラー』

              (國書刊行會、平成25/2013.2.22)

  C:西尾幹二『GHQ焚書圖書開封8:日米百年戰爭──ペリー來航から ワシントン會議』

              (コ間書店、平成25/2013.8.31)


  Aは、本誌 7月號で紹介しました。

  米國FDR民主黨政權は容共で、ソ聯・コミンテルンと共謀してシナと日本の共産化を圖つた、

  シナでは成功したが、日本は皇室を戴いてゐたので共産化は免れた──といふ趣旨です。

  但し、皇室自然消滅の時限爆彈が埋込まれた儘であることは、ご存じの通り。


  Bは 500頁の大册ですが、實に面白く、一氣に讀めます。

  ヒトラーが目指してゐたのは舊領土の恢復と東進であつて、

  西側ではフランスともイギリスとも戰ふつもりは無かつた。


  實は、カイザーも英國と戰ふ氣は無かつた。

  そのカイザーやヒトラーを西側で戰はせたのはチャーチルだ、

  チャーチルは二度の大戰で英國をドイツと戰はせ、

  無用の厖大な犠牲者と英帝國の没落を齎し、

  それを代償に個人的榮譽を得た不届き者だ──と言ふのです。


  チャーチルは英帝國を守るためドイツと戰つたが、

  英帝國を没落させたのは米國だから、

  チャーチルの本當の敵は米國だ、とも言ひます。


伊原註:「カイザーも英國と戰ふ氣は無かつた」と書いたのは、訂正の必要があります。

        原著を讀返した處、著者ブキャナンは、さうは書いてをりません。

        曰く、「カイザーは、英國を滅ぼさうとは思つてゐなかつた」(18頁)

        また曰く、「カイザーに大英帝國を破壞する意思は全くなかつた」(31頁)

        つまり、ウィルヘルムII世は、英國に「挑戰」はしたが、

        英國を滅ぼす所までは考へてゐなかつた、といふのです。

        でもカイザーが外洋艦隊を造つて英國に真向から挑戰したのは嚴然たる事實です。

        そして、これでは英國と正面衝突するのもまた當然でありました。


        カイザーの挑戰については、下記が有力參考文獻です。


        フリッツ・フィッシャー (村瀬興雄監譯)『世界強國への道III──ドイツの挑戰,1914-1918年──』

                    (岩波書店、昭和47/1972.12.20/昭和58/1983.12.15)

        義井  博『カイザーの世界政策と第一次世界大戰』 (清水新書、1984.10.20/1989.11.30 二刷)


        義井さんの本の末尾 (158-195頁) に「第一次世界大戰の研究史」の綿密な紹介があつて

        學界の論爭の經過と、第一次大戰の性格を把握する上で頗る役立ちます。


  Cは、日本を徹底的に追ひ詰めた米國の動きを、

  大東亞戰爭中の著作を紹介することによつて追跡します。

  著者 西尾幹二 曰く──

      日本の知識人は、米國の日本追詰めの意圖を全部察知してゐた、

      でもどうしようも無かつた、

      政治がうまく對應できず、米國の思ふ儘にしてやられた、

      そして今なほやられ續けてゐる。

      悲劇といふほかない

  ──と。


伊原註:「今なほやられ續けてゐる」といふところに御注目下さい。

        西尾幹二は本書に「日米百年戰爭」といふ標題を附けてゐます。

        副題に曰く、「ペリー來航からワシントン會議」と。


        ペリーの浦賀來寇は 嘉永6年6月3日/西暦 1853年7月8日、

        ワシントン會議開催は 大正10年/1921年11月12日。

                  (終るのは 大正11年/1922年 2月 6日です)

        日本の敗戰は昭和20年/1945年 9月 2日 (米戰艦ミズーリ號上で降伏文書に調印)

        「今なほ續いてゐる」のなら、「百年戰爭」ではありませんね。


        因みに、最初に「日米百年戰爭」を唱へた林 房雄は、

        約一世紀續いた「東亞百年戰爭」は日本の降伏で「終つた」と言ひます。

            「東亞百年戰爭は昭和20年 8月15日に確實に終つたのだ」

            (林房雄『大東亞戰爭肯定論』第一章)


        『黄文雄の大東亞戰爭肯定論』 (ワック、2006.11.22) は、

        米國の「太平洋戰爭論」を否定すると共に

        日本の大東亞戰爭の意圖と成果を稱揚する點で

        「大東亞戰爭」といふ呼稱を「肯定」してをりますが、

        大東亞戰爭を「既に終つた戰爭」と見てゐる點でも

        林房雄と同じ立場です。


        富岡幸一郎の『新大東亞戰爭肯定論』 (飛鳥新社、平成18/2006.8.15) は、

        「戰爭を知らぬ」戰後世代の大東亞戰爭見直し論です。

        「あの戰爭」を「太平洋戰爭」と教はつた富岡が

        林房雄の『大東亞戰爭肯定論』に巡り會ひ、

        初めて

            戰中日本人があの戰爭を「大東亞戰爭」と稱んでゐたこと

        を知ります。

        そして、GHQ(米占領軍総司令部)の言論統制・檢閲を暴いた江藤淳の言葉で、

        「あの戰爭」の名前の大事さを思ひ知ります。


        江藤淳曰く (『自由と禁忌』河出書房新社、昭和59/1984.9.)、

        「大東亞戰爭」が「太平洋戰爭」と言ひ換へられたとき、

        「大東亞戰爭」のために傾注されて來たあらゆるエネルギーは、

        一擧に空無化される。

        そして、そのあとには果てしない徒勞感のみが殘る。

        一方、かつて「太平洋戰爭」を戰つたことがない日本人が

        「太平洋戰爭」といふ記號に自己の經驗を重ね合はせることは

        極めて困難と言はねばならない。


        富岡幸一郎の『新大東亞戰爭肯定論』は、

        「あとがき」で重大な指摘をしてゐます (240頁)。

            敗戰直後、米内光政海軍大臣が昭和天皇に

            「日本民族は優秀ですから五十年後には必ず甦ると思ひます」

            と奏上した際、昭和天皇は

            「私はさうは思はない。三百年はかかると思ふ」

            と仰せられた 云々


        これぞ、「戰ひはさう簡單には終らぬぞ」との思召(おぼしめし)ではないか、

        と解釋したくなります。


        昭和天皇は陸軍が思召に反して戰爭を始め (滿洲事變)、

        蔣介石が仕掛けた支那事變を解決せずに

        延々と續行し續け國力を消耗したことを“憎んでをられた" ので、

        その後始末が「簡單には終らぬ」といふ意味であらうと推察しますが、

        私としてはつい、先の解釋を取りたくなります。

        なぜなら、米國がしつこく「親中反日」感情を留めてゐるからです。

        中韓二國は、東アジアの trouble maker なのに!


        敗戰後も米國との戰ひが續いた事實を、下記が示して居ます。

        關岡英之『拒否できない日本──アメリカの日本改造が進んでいる』

                (文春新書、平成16/2004.4.21)

        日本を再び叩いたのはレーガン政權です。

        日本が貿易で伸びたのを「米國に對する挑戰」と見て準敵國視し、

        昭和60年/1985年、プラザ合意で圓高ドル安を呑ませた上、

        以後毎年「構造改革」といふ名の日本改造を押附け、

        日本を米國金融資本の餌場に變へて來ました。


        昭和46年/1971年のニクソン ドルショック以來、

        日本はどれだけ米國に奉仕して來たことか。

        それでも米國は日本を心底では信じてゐず、

        中國と手を組んで日本を「壜の蓋」で抑へ續けてゐるのです。

        つくづく米國人は目の見えぬ人達だと思ひます。

        日本こそ本當の米國の友人であり、東アジアの安定勢力なのに。

        日本こそ、東アジアに於る米國の真の友好國なのに。


        アジアでは米國は、日本より中國に親近感を持つ事實を、

        私達は「彼を知り己を知る」意味で、よく承知してをく必要があります。

        そのことを、チャイナ・ロビーの形成といふ形で説いたのが、下記です。


        馬 曉華『幻の新秩序とアジア太平洋──第二次世界大戰期の米中同盟の軋轢──』

                (彩流社、平成12/2000.3.31)

        本書は何れ、本「讀書室」で詳しく紹介します。



            判つてゐてやられた日本


  さて、問題は我國です。

  我國は二度、模範的な國を造りました。


  一度目は江戸時代後半です。

  戰國末期に輸入してゐた必要な物資は、江戸期後半には全て自給自足しました。


  庶民が日常的に文化を樂しみ、よく笑ひ子供を可愛がる國。

  人々は勤勉で正直・實直、好奇心旺盛。

  識字率が高く、男子は大半が、女子は半分近くが讀み書きできました。


  世界有數の高信用社會。

  風景は美しく、田畑も森も園藝のようによく手入れされ、到る處清潔。

  環境と共存するリサイクル社會でした。


  幕末に日本を訪れた西洋人がみな驚嘆してゐます。

  その一端は渡邊京二『逝きし世の面影』(平凡社、二〇〇五年)で偲ばれたし。


  二度目の理想郷構築は、高度成長期です。

  一億總中産階層で、特別な金持も酷い貧乏人も居ない。

  庶民が真面目に働けば自宅を持てる。

  自家用車を運轉し、冷藏庫には食べ物が一杯、

  食慾を控えないと病氣になるほど飽食してゐました。


  ゴルバチョフさんが訪日して、

      「これぞ私が目指した共産主義の理想を實現した社會だ」

  と感涙に咽(むせ)んだと傳へられてをります。


  誰にも迷惑をかけず、天下泰平の文化生活を愉しんでゐた江戸時代の日本を、

  弱肉強食の國際社會に引きずり出したのが西進する米國でした。


  日本は戸惑ひつつ近代強國を作り、東アジアの安定勢力になりました。

  その日本を追詰め、負かし、戰爭のできぬ國にしたのが

  FDR(フランクリン・デラノ・ローズヴェルト)の米國でした。


  では、と平和國家として再生したら、經濟大國になつた。

  これをニクソン大統領はドル・ショックで叩き、

  レーガン大統領はプラザ合意(圓高ドル安演出)と

  “構造改革" といふ名の日本弱體化政策

  (これを西尾氏は「第二の敗戰」と稱んでゐます)

  で叩いて現在に到つてをります。


  敗戰後の我國は、

  中國と組んで日米安保といふ“壜の蓋" で日本の武裝強化を阻む勢力

  (キッシンジャーもその一人) に從順であり續け、

  米國の“保護國" (ブレジンスキー)に甘んじて

  米國に奉仕して來ました。


  そろそろ普通の國にならうではありませんか。

  それには、日本を「普通の國」にさせたくない

  弱國に留めてをきたい國内外の反日勢力を

  うまく往 (い) なして行くといふ難儀な作業が伴ひますが。

(平成25/2013.8.30/10.14加筆)