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伊原吉之助 (神戸大學院生)
「河合榮治郎と鹽尻公明」
(社會思想研究會大阪支部機關紙『みをつくし』第12號/1957.3.15,1面)
伊原註:原文を正字・歴史的假名遣に變へた上、若干補筆してあります。
敗戰後の混亂期に河合さんに巡り遭つた私は、この人こそ我師たるべき人と確信し、
その考へ方から口調まで河合さんをそつくり採入れた。
河合さんによつて考へたのである。
しかし、その後次第に自分で考へるやうになると、
河合さんの根本的な立場の正しさを益々確信しつつも、
いや正にその故に、河合さんの思想の展開の仕方に疑問を抱くやうになつた。
理想主義の正しさは、
河合さんのやうなカント的 (實は新カント派的) 説明では表し切れないのではないか、
河合さんを生かすには鹽尻流の「手近かの理想主義」を俟たねばならぬのではないか
と私は考へる。
河合さんは 理想主義へ入るのに 二つの途がある、といふ。
一つは認識論から、もう一つは道コ哲學からであるが、
認識論から入つた者は弱くて長續きしないのに對し、
道コ哲學から入つた者は強固で離れ去ることがない、と述べてをられる。
だが私には、たとへ道コ哲學から接近しても、「人格の尊嚴」から入つた人は弱いと思ふ。
私自身、かういふ入り方をしたため、途中で隨分苦しんだ。
河合さん−カント−リップス といふ ドイツ的理想主義は、先天的原理から斷言的至上命令を下す。
人間の尊さを信ぜよ、然らば救はれん!
人生に眼覺めたばかりの無垢な青年を感激させるこの思想も、
世間の醜さや複雜さを知ると、ぐらつかざるを得ない。
強い性格の人ならばこの危機を乘越えて「人格の尊嚴」を信じ續けられよう。
でも多くの平凡な人間は挫折するのである。
そこで 多くの人は
「理想はさうだが現實はそんなに甘くない」
「まあもう少し世間を知る事だ」と
したり顔に言ふやうになる。
「世間」の風に觸れ始めた理想主義青年は忽ち立ち往生する。
嘗てあんなにも明白な眞理に見えた「人格の尊嚴」が、今や白々しい言葉に見えて來る。
本を讀んだり頭の中で考へたりするときはこの言葉も非の打ち所のないほど正しいやうに見えるが、
片親がないといふだけで就職できぬ現實、
さも親しげに振舞ひながら裏では親友をも蹴落として自分だけ昇進しようとする友、
儲つてゐた時には頭を下げてゐたが不景氣になると債鬼と化する問屋商人などに接するとき、
この言葉は何程の力を持つか。
河合さんから人間の尊さを教へられた私は、現實にぶつかつて人間の醜さを知らされ、
人間に絶望しかけたのである。
しかし絶望しかけた眼で社會を見直したとき、絶望仕切れぬ自分を發見した。
ナツィスのユダヤ人迫害やスターリンの大肅清の中のやうに、
人間が極限状況に置かれた時にも「人間的なるもの」は息吹いてゐた。
人間を醜惡極るものと見放した時、
極めて些少ながらも、人間が善への志向性を持つことを認めざるを得なかつた。
鹽尻先生はこれを「ゼロからの出發」とか「60%主義」とか言つてをられるが、
弱い人間は醜い自分が立つてゐる所から出發するのが至當と悟つた。
ここから「全てを受入れる」立場が生れ、
自分を失ふことなく、底邊から無限に伸びる成長力を自分のものにできるのである。
「手近かの理想主義」とは、出發點が「手近か」にある、といふことである。
東大の演習學生から「人格とは何か判らない」と詰め寄られたとき、
河合さんは
「君達に痛切な體驗がないからだ」
と答へるほかなかつた。
これでは弟子を「縁なき衆生は度し難し」と 放り出すに等しい。
ここに 救ひはなく、強い人は反撥し、弱い者は去るほかない。
理想主義が説得的であるためには、
「手近かの理想主義」として再出發せねばならぬのではないか。
「河合榮治郎」の孤立孤高を避けるには
「鹽尻公明」が必要不可欠なのではないか
──と私は言ひたい。
【附 記】
「河合榮治郎と塩尻公明」といふテーマでは、
本文で扱つた「出發點の相違」のほかに、
「性格の強さと弱さ」
「宗教との結び附き」
「罪惡論」
「ドイツ的思考とイギリス的思考」
などの論點が考へられる。
思想上の差異だけでなく、人物論の展開も必要であらう。
本文は大阪・神戸兩支部讀書會への問題提起を目的とし、
また紙幅をも考慮したため意を盡せなかつたが、
讀書會での討議を期待して筆を擱く。
讀書會に出席してをられない方々からの投稿を待ちたい。
(平成25/2013.7.30補筆)