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台湾の 「 戒厳令 」 はまだ続いている!
向陽:解 「 解嚴 」 的神話與盲點 ( 星期專欄 『 自由時報 』 6.24,4面 ) :
( 『 戒厳令解除 』 の神話と盲点を読み解く )
向陽=国立台北教育大学台灣文学研究所副教授。
1 ) 「 解 」 と 「 禁 」 は反対の意味を持つ対句である。前者の熟語は解除・解放・解脱・解救・解開・解散等々、何れも制限や禁制・厄運・苦境・禁錮の解除を意味し、人を不自由な束縛から解き放って自由にする意味だ。後者の熟語は禁戒・禁令・禁止・禁錮・禁忌・禁絶・禁治・禁圧等々、何れも人の身体・思想・言論・行為を縛って抑圧者の権力を誇示する意味である。 「 解 」 は主体の自由と解放を意味し、 「 禁 」 は客体の拘束禁錮を意味する。
2 ) こう理解すると 両者一体の 「 解禁 」 なる言葉は注目に値する。解禁とは禁錮の解除だけでなく、自由の回復なのだ。奪われた権利の回復だけでなく、自主権行使の始りを意味するのだ。絞り取られ引きずり回され抑圧されることを免れるばかりか、自由の積極的な擁護なのだ。殷海光が 1965年に書いた話を引用すると、 「 この大道を歩めば、人は人となり、蜜蜂・蟻・牛馬・農奴・労働奴隷・政治奴隷や機械部品にならずに済むのだ 」 。自由の前に、奴隷は消滅するのである。
3 ) 目下、行政院は今年の 7.15 を 「 戒厳令解除記念日 」 にして、全民が不易の価値 「 民主主義と自由 」 を見直す機会にしようとしている。確かに 「 解嚴 」 20年後の今日、台湾は 自由民主体制を ほぼ整えた。誰でも総統を批判できる、反対や泥塗りまでできる。 ケタガラン大道でどんな色の旗でも振り回せる。映画TV、新聞、雑誌、書籍、ネット で どんな言論でも形式・内容とも二度と弾圧されることはない。思想 や イデオロギー を 統制した国家機関は解散したし、人民の基本的人権を抑圧した悪法も解除済み……。こういう具体事例を見ると、台湾は ファシスト政権の弾圧から自由民主国に向って凸凹道を歩んでいるらしい。また台湾人民は集権禁錮の中から抜け出し、再び基本的人権である自由を獲得するための血涙の旅路に乗り出したらしい。でもよく考えてみよ、本当にそうなのだろうか?
4 ) 二度と拘束される恐れのない社会では、自由獲得の歴史は忘れられ易い。なぜなら、その過程は血と涙に満ちており、様々な記憶・心の傷・解けぬ恨みが続いていて耐え難いし、久しく奴隷状態に居た者は自由になっても茫然として何をしていいか判らぬことが多いからだ。米国は南北戦争で奴隷制を倒し、農奴を解放して民主主義と自由の国を築いた。この経験と、英佛が 専制的王権を引き倒した経験が、人類の自由獲得史上の重大な出来事である。ところが リンカーン は南部の奴隷制擁護者に暗殺された。保守勢力と保守イデオロ に長期洗脳された保守派は 自由に苛立ち、リンカーン を 殺すのである。解放奴隷も 奴隷時代の安定と静謐を懐かしんだりする。これが米国史上で実際に起きた一幕である。 「 解嚴 」 後の台湾社会にも、同種の深層の危機が存在する。
5 ) これが、 「 解嚴 」 後20年経っても 228事件の元兇が法律上・歴史上の責任も 戒厳令下で起きた白色テロ統治の法的・政治的責任も 追及されない原因なのだ。自由民主体制の構築は、法治主義と歴史責任の解明が不可欠なのに、今日の台湾でこの正義の追及が行われていない。両蒋の権威支配期の政治・法律・歴史的責任は追及されていず、戒厳令期に 冤罪殺人/拘束誤殺/拘束乱殺/拘束仇殺した張本人が依然、ぬくぬくと生き続けている。解禁・解嚴の終極的意義 ( 法治の正義と歴史の正義 ) は 何ら顕彰されていないのである。中正紀念堂を台灣民主紀念館に改称した時の騒ぎや、両蒋の移葬が未だごたついていることが、その実例を示している。 「 禁 」 は未だこの社会の深層に深く刷り込まれており、 「 嚴 」 は台湾の自由民主の前途を厳然と閉ざしていて、解除から程遠い状態にある。 「 解嚴 」 後、民選総統李登輝は赤い墨汁をぶっかけられた ( 伊原注:総統退任後間もなく、原住民の教会の集いで退役軍人が背後から近づき、李登輝の襟から赤い墨汁を注ぎ込んだ事件 ) し、陳水扁・呂秀蓮正副総統は二発の銃弾の脅威に晒された。何れも旧政治意識が牢固として根を張っていることを示す。これが台湾の 「 解嚴 」 20年後になお厳存する深層危機の二番目である。
6 ) 台湾はなお 「 解嚴 」 が不徹底
歴史の解明では、中国国民党の権威主義統治は一応 1949.5.19 に戒厳令を 発布した時に始ったとされるが、実は 1945.8. 蔣介石が 陳儀を 台灣行政長官に任命し、その後警備総司令を兼任した時に始るのだ。戒厳令の解除は、蒋經國が 1987.7.15 に 解除を宣言してから始る筈だが、実は 「 解嚴 」 の 日に 「 動員戡亂時期国家安全法 」 が 同時に発効し、これが縄一本を緩めたものの、別の縄で縛るものであった。当時、行政院は 30種の戒厳関連法規の廃止を公告したが、結社の自由を弾圧する黨禁 ( 新規政党結成禁止 ) は 1988.1. 「 動員戡亂時期人民團體法 」 の 公布により解除されるまで続いたのである。報道の自由を弾圧する報禁 ( 新聞の新規発行・増頁の禁止 ) も この時やっと解除された。刑法第百条が 1991.1.に廃止、戒厳法・戡亂時期檢肅匪諜條例・懲治叛亂條例 が 1991.5.廃止、出版法は 1999.1.に やっと廃止……。
かくて知る、実際の戒厳期間は、私たちが承知する 「 1949年から1987年まで 」 より もっと長いのである。戒厳令発布前から戒厳状態があった。 「 解嚴 」 宣告後も 戒厳状態は なお元通り存在していた。一歩進んで 「 動員戡亂時期國家安全法 」 が 1992.7. 「 國家安全法 」 に修正され、この法の第二条に今なお 「 人民の集会・結社は共産主義或いは国土分裂を主張してはならない 」 という言論の禁錮がある。
従って歴史上、台湾は未だ徹底 「 解嚴 」 も 真の解禁も していないのである。歴史の解明・回顧の欠如は今なお深刻かつ徹底的検討が不足している。これは 台湾が当面する深層危機の三つ目である。
7 ) 正義転換の実現は、法治主義の顕彰と歴史の責任解明に依る。 「 解嚴 」 を 紀念するには、従って 「 1987.7.15 」 だけでは足りない。この日の前に、四大族群を含む台湾の民主の先進・自由の闘士が いかに台湾の自由民主のために犠牲になり奮闘したかを見る必要がある。更にこの日から現在までも見ておかねばならない。台湾内部の権威邪霊も 外部からの自由に対する脅威も 依然、存在している。従って、台湾人民が銘記すべきは 「 1987.7.15 」 1日ではなく、1945年以降の中国国民党の権威主義的統治が なお続行中で、未だに自由民主体制の樹立の日が未完成だという事実である。
8 ) 1996年、台湾人民は投票を通じて総統を選べるようになった。これは自由に向けた道の始りである。自由意志により、自らの国の憲政体制・定位・前途を選べるようになった。これこそ自由の道の完成である。この日の到来を、全台湾人民は族群・青緑を問わず最も誇るに足る 「 解嚴 」 の 徹底・真の自由な一日として迎えたのである。
伊原コメント:7 ) と8 ) は矛盾する。7 ) では 「 台湾の戒厳令状態、禁止の圧迫はまだ充分解けていない 」 という。ところが8 ) では 「 総統直選で戒厳令解除は完成した 」 という。全文の趣旨からして、7 ) が正しく、8 ) はおかしい。