米FDR政權の目標は日中の共産化だつた - 伊原教授の読書室

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    米FDR政權の目標は日中の共産化だつた



伊原註:以下は『關西師友』平成25年 7月號 10-11頁に掲載した

        「世界の話題」(283) です。

        大幅増補してあります。





    米ソが聯合して戰つた意味


  歴史は不斷の見直しを求めます。

  同じ事態が、光の當て方次第で“別の光景" になるのです。


  それにしても、

      田中英道『戰後日本を狂はせたOSS「日本計劃」:二段階革命理論と憲法』

        (展轉社、平成23.7.25/24.4.22  三刷)    2000圓+税

  を讀んで驚きました。


  米國の初期占領政策は日本弱體化政策だつた、

  二度と米國に歯向かはぬやう輕工業國に引戻す政策だつた

  と信じて來たのに、


  さうではない、

      「米國は日本及び中國の共産化を目指してゐた」

  といふのです。


  でもよくよく考へてみれば、必ずしも意外ではない。

  思ひ當る節 (ふし) が多々あります。

  この説に照らすと、これまでの謎が次々解けるのです。


  1917年11月 (西暦) のロシヤ十月革命以來 (十月は露暦で言ふ)、

  また 1929年の米國發 世界大不況以來、

  我が日本は、

      西 (コミンテルンを擁するソ聯) と

      東 (米國 FDR民主黨政權) の

  二方向から、共産化壓力に晒 (さら) されてゐたのであります。

  この二方向が合はさつて、相乘效果を發揮しました。


  米FDR(フランクリン・デラノ・ローズヴェルト)民主黨政權は、

  良く言はれるやうに、共産主義者に「浸透された」のではなく、

  實は意識的積極的に採用してゐたのです。


  伊原註:ここで一言 (ひとこと)、

          Franklin Delano Roosevelt の母方の曾祖父と祖父は、

          同じ姓名 Warren Delano で、同じやうに廣東貿易 (茶貿易) に携はりました。

          祖父 (若い方の Warren Delano Jr.) は廣東貿易で百萬長者になつた上、

          歸國後 NY で事業に携はり、更に巨萬の富を築きます。


          母サラの父 (即ち上記 Warren Delano Jr.) の弟が Franklin Delano です。

          FDR の名は、この Uncle Frank (サラの言) から引繼いだのです。

                (Jean Edward Smith, FDR, 2007,

                (Random House Trade Paperback Ed. 2008, NY, pp.10-11)

          この母方との密接な關係から判るやうに、

          FDR は 父方より母方の影響下にあります。

          彼の母 Sara Delano 曰く、

              「私の息子 Franklin は母方 Delano家の筋の者です。

              “My son Franklin is a Delano,

              「彼は全然 Roosevelt 系ぢやありません」

              “He is not a Roosevelt at all."

                (上記 FDR, p.xiv)

          彼はよく「フランクリン・ローズヴェルト」と表記されますが、

          デラノを省略してはいけません。


          母の父 Warren Delano が破産後、50歳にして 1860年から 5年間、

          香港で、今度は茶でなく阿片貿易に携はつて再び財を成します。

                (上記 FDR, pp.12-13)

          FDR が親中反日なのは、阿片貿易が介在してゐるからです。


  扨 (さ) て、話を元へ戻して──

  ニューディール政策は 社會主義志向政策だつたし、

  FDR が ナツィス や 日本を追詰めたのは、日獨が「反ソ反共」だつたからでした。


  FDR自身が容共の隱れ社會主義者でした。

        (夫人 Elenor は もつと積極的な容共派でした)

  そして「スターリンは共産主義者ぢやない。彼は愛國者に過ぎない」

  「私はスターリンとうまくやつて行ける」と

  スターリンとソ聯を辯護してゐます。


  伊原註:ここで FDR が 1941年 (昭和16年) 1月6日「年頭教書」で打出した

          「四つの自由」について、再認識が要ります。

          「四つの自由」とは──


          言論の自由/信教の自由/欠乏からの自由/恐怖からの自由、です。

          freedom of speech/f.of worship/f.from want/f.from fear


          曲者 (くせもの) は、FDR が附加へた あとの二つです。

          常識的に解釋すれば、


          「欠乏からの自由」とは、大不況で體驗した經濟的窮乏を免れることであり、

          「恐怖からの自由」とは、樞軸國の攻撃・支配を免れることである筈ですが、

          田中英道さんは、

              「ソ聯との親密な關係の下でつくられた社會主義への道」

          が カムフラージュされてゐる、と見ます (田中著、15-16頁)。

         

          欠乏とは、勞働者・農民が大不況で如實に味はつた「資本主義が齎す貧窮」を意味し、

          恐怖とは、勞働者・農民を搾取する資本家支配體制 (資本主義) を意味する。

          從つて後者二つの「からの自由」とは、資本主義否定/社會主義待望論なのだと。


          つまり FDR の 米國は、スターリン の ソ聯と理念を等しくしてゐた──といふのです。

          (この四つとも缺如してゐたソ聯と結んで反共の日獨を叩いた

          ( FDR は、果して“偉大な指導者" と言へるでせうか ? ? ?

          (私には、世界に、とりわけ日本に災ひを齎した人としか思へません。

          (彼は、スターリン のソ聯を支援して ロシヤ人にさへ災ひを齎しました。

          (彼が Lend-lease法で ソ聯を支援してゐなければ、ソ聯は獨ソ戰で倒れ、

          (ロシヤ人は「四つの自由」を 20世紀半ばに獲得できてゐたかも知れないのに!)


          なほ、四つの自由については、下記 2册が參考になります。

          Stuart Murray and James McCabe, Norman Rockwell's Four Freedoms,

                                          Gramercy Books, NY, 1993

          David M.Kennedy, Freedom From Fear, The American People in Depression and War,

                            1929-1945, Oxford University Press, NY/Oxford, 1999



    中國共産化は成功  日本では失敗


  米國がソ聯と提携して日中兩國の共産化を目指してゐたことは、

  本書の題名にあるOSS(戰略情報局)の行動から判ります。


  伊原註:ここで少々 OSS成立史 について説明を加へてをきませう。

          參考文獻は、初めに擧げた田中英道さんの著書のほかに、下記 3册があります。

    (1)マーク・リーブリング  Mark Riebling  (田中昌太郎譯)

          『FBI對CIA:アメリカ情報機關 暗鬪の50年史』

            (早川書房、1996.12.15)  4000圓 (3883圓+税)

    (2)春名幹男『秘密のファイル:CIA の對日工作 (上)』

            (共同通信社、2000.4.10)  1800圓+税

    (3)加藤哲郎『象徴天皇制の起源:アメリカ の心理戰「日本計劃」』

            (平凡社新書、2005.7.11)  800圓+税


  第一、OSS 設立の經緯:

    米國は、對日開戰まで、情報機關らしい情報機關は持つてをりません。

    なにしろ米國は獨立以來、義勇軍の國で、常備軍らしい常備軍は持たなかつた國ですから。

    情報機關らしいものとしては、

    FBI(聯邦捜査局)は國内の反米活動取締に當るだけ、

    陸軍と海軍は必要情報を集めて圍ひ込んでゐるだけで、中央(聯邦政府)には上げない。

    情報を集中し、分析し、對策 (謀略) を巡らす機關も作業も存在しませんでした。


    そこで 1941.5.25, 日米交渉の真つ最中に、

    英國情報機關が渡米して、米國に中央情報組織設立を働きかけます。

        (この時渡米したのが、戰後「007」シリーズを書く イアン・フレミング です)

    その 2日後の 5.27, FDR が國家非常事態宣言を發令します。

      (4月に ギリシャ・ユーゴ が ドイツ軍に占領されたことへの對應です)

    6月に ウィリアム・ドノヴァン (辯護士) が FDR に

        「敵の意圖を分析・掌握・査定する機關」

    の設置を進言し、

    FDR から「情報調整官」Coordinator of Information (COI) に任命されます。


    そして 7.11, 情報調整局 Office of Coordinator of Information (OCI) が

    大統領命令で設置されるのです。

    これが 翌1942年 6.13, 戰略情報局 OSS (Office of Strategic Service) に改組されます。

        大統領直屬 → 統合參謀本部の下部組織へ

    やがて戰後に一旦解散した後、中央情報局 CIA となるのです。


  第二、OSS の豫算額と人員數:

1941. 7.11設立時45萬ドル92人
12. 7開戰時1300萬ドル600人
1942. 6.13改組時1億1554萬ドル1萬2718人

  第三、OSS の任務:

    あらゆる分野(經濟學・政治學・歴史學・心理學・人類學・社會學 etc.) の學者を

    數百名集め、分析・立案に從事 (この若手學者らは、戰後の米學界の中心となる)

    歐米とアジアで現地諜報官のネットワークを構築

    反ナツィス・パルチザンや、反日ゲリラを訓練して現地に送り附ける

    破壞工作チーム を パラシュート降下させる

    ラヂオ放送による宣傳謀略工作・敵地へのビラ撒き

      (敵軍の士氣低下工作/反抗勸告)


  第四、OSS の對日工作 (1942年/昭和17年) :天皇利用の占領工作を立案

    4.15  「OCI草案」(戰後の對日改造計劃を示した米國の「42年テーゼ」)

          侵略能力を削ぐ/「四つの自由」の確立/眞の代表政府の樹立/立憲君主制/

          軍民離間 (天皇=平和/陸軍=侵略者 として對立を煽る)/國民分斷……

    5.13  「日本計劃 (第一草稿)」 18頁/陸軍心理戰爭課長  ソルバート大佐執筆

    5.23  「日本計劃 (第二草稿)」 34頁/                          〃

    6. 3  「日本計劃 (第二草稿)」 32頁 (3頁の要約版附き)/        〃

          平和の象徴として天皇を利用し、軍部獨裁を打倒して立憲君主制に持込む

          天皇は滿洲事變・國際聯盟脱退・日獨伊三國同盟に反對だつたと宣傳する

    6.13  OCI を OSS に改編:業務を聯合軍の戰爭遂行任務に組込むため、統合參謀本部に下屬さす

          (1) 統合參謀本部が必要とする戰略情報の收集分析をするため

          (2) 統合參謀本部が指示する特殊任務の立案實行をするため


  伊原註:ここで重大な但し書を附加へねばなりません。

          この OSS の“日本占領政策構想" は確固として貫かれた譯ではありません。

          特に天皇の處遇については、國務省内でも激しい論爭があり、

          聯合國の間でも意見が對立してゐたことは周知の通りです。

          國務省内の論爭については、下記を參照されたし。


          森田英之『對日占領政策の形成:アメリカ國務省 1940-44』

                    (葦書房、1982.1.15/6.25 二刷)  2000圓


  彼ら(FDR民主黨政權=OSS)は 蔣介石を見放し、中共に政權を取らせます。

  この轉換の走りが、1944年に延安を訪れた米軍視察團でした。

  彼らの中共訪問が、米國民主黨政權の

  蔣介石と國府 (中國國民黨政府=重慶政府) 見放しの端緒です。


  第一に、蔣介石に與へてゐた軍需物資を、重慶から延安にどんどん運びます。

  第二に、急死したFDRの後繼者 トルーマン大統領は マーシャル を 中國に特派し、

  國共内戰を停止させます。


  日本の敗戰後、滿洲で國府軍は林彪軍を簡單に打ち負かします。

  國府軍は日本軍と戰ふ近代裝備、林彪軍はゲリラ裝備ですから、當然の結果です。

  そこで米國は 蔣介石 にストップをかけ、中共軍に時間を稼がせるのです。


  この休戰期間にソ聯軍が、

  日本軍から接収した武器 (大砲・戰車・飛行機を含む近代武器) を林彪軍に渡し、

  近代戰の軍事訓練を施しました。

  これで國府軍は中共軍に勝てなくなりました。


  だから ジョゼフ・マッカーシー (米國共和黨上院議員) は

  自著『共産中國はアメリカがつくつた:G.マーシャルの背信外交』

      (成甲書房、2005.12.25) 1800圓+税

      原題:Americ's Retreat From Victory: The Story of George Catlett Marshall

  で マーシャル を共産主義擁護者として糾彈するのです。

  ですが マーシャルは共産主義者だつた譯ではありません。

  民主黨政權下で OSS が決めた「日中共産化」といふ政策目標に忠實に行動しただけです。


  第二次大戰で米軍がいかにソ聯と親密に動いたかは、

  ベルリンに突入できた米軍が、ソ聯軍に「最初の突入」を讓るため、

  アイゼンハワー將軍が米軍を足止めした事實からも窺へます。

  アイゼンハワーが共産主義者だつた譯ではなく、

  親ソ親社會主義だつた當時の FDR-Truman民主黨政權に忠實だつただけです。


  序 (ついで) に言つてをくと、

  ジェームズ・フォレスタル初代國防長官が殺されたのは、

  民主黨政權の意に反して「反共」を貫き、政府の邪魔になつたからです。

  cf. コーネル・シンプソン (佐々木 槙譯)

      『國防長官はなぜ死んだのか:フォレスタル怪死と戰後體制の大虚構』

        (成甲書房、2005.12.5) 1800圓+税


  第三に、1950年 1月 5日のトルーマン大統領の台灣不介入聲明と、

  その直後の 1月12日のアチソン國務長官の「米國の不後退防衛線」聲明です。

  「アリューシャン−日本−沖繩−フィリピンを結ぶ線」として、

  朝鮮半島と台灣を除きました。

  これで金日成は、朝鮮半島統一の好機と見て南に攻め込んだのです。

  金日成は、よもや トルーマンが反撃に出るとは思はなかつた筈です。


  以上から、米國民主黨政權が第二次世界大戰の戰中戰後、ソ聯と緊密な協力の下、

  日中兩國の共産化を進めてゐたことがお判りでせう。


  學者の多くは、其後の東西冷戰からして、米國が初めから反共だつたと書きますが、

  これは當時の實情に背いてゐます。



    日本は昭和十年代から社會主義化を目指してゐた


  所で肝腎の我國の話です。


  日本に東西雙方から「共産化壓力」が かかつてゐた實情について

  述べる紙數がなくて殘念ですが、


  昭和10年代の日本の國家總動員體制とは社會主義型計劃經濟體制であつたこと、

  當時、左翼も右翼も軍部も官僚も、軒並み反資本主義=社會主義を目指してゐたこと、

  を想起して下さい。

  尾崎・ゾルゲ事件に米國共産黨員の米國籍日本人が參加してゐたことも。


  だから近衞文麿は大東亞戰爭末期の手記で共産主義者の日本浸透を嘆き、

  伊原註:近衞文麿の手記は二種類あります。

          『平和への努力』 (日本電報通信社、昭和21.4.1/6.25 再版)  6圓

          『失はれし政治』 (朝日新聞社、昭和21.5.15)  8圓

      最近、新版が出ました。

          『大統領への證言:手記「日米開戰の眞實」』(毎日ワンズ、2008.12.25)  1400圓+税


  三田村武夫はその經緯を詳記したのです。

  伊原註:『昭和政治秘史:戰爭と共産主義』 (民主制度普及會、昭和25.5.15)  200圓

      上記の新版が下記です。

          『大東亞戰爭とスターリンの謀略──戰爭と共産主義』

                  (自由社、昭和62.1.20)  1800圓+税

      中川八洋の本も、同主旨です。

          『近衞文麿とルーズヴェルト:大東亞戰爭の眞實』 (PHP研究所、1995.8.17)  1800圓+税

          『山本五十六の大罪:亡國の帝國海軍と太平洋戰爭の眞像』

                  (弓立社、2008.6.10/8.15 四刷)  2200圓+税


  初期占領政策が如何 (いか) に容共的であつたかは、

  野坂參三を中國から日本に送還したのが米軍OSSであつたこと、

  共産主義者を監獄から解放したのは米占領軍であつたことからも判ります。


  日本國憲法も、社會主義政策實施への障碍除去策の一環でした。


  尤(もつと)も米國は、中國の共産化には成功しましたが、

  日本の共産化には、

  日本國内に多數の協力者がゐた (特に東大法學部) にも拘らず、

  失敗しました。


  伊原註:東大法學部の反日 3教授は以下の通り。

          宮澤俊義:ポツダム宣言受諾を「八月革命」/新憲法を「革命憲法」と呼稱

          我妻  榮:「個人を超える人間關係は全て桎梏だから、全て切り捨てよ」と呼號

          横田喜三郎:國家を否定する コズモポリタン法學。國聯中心主義 (戰勝國に屈從する學説)

                      (コズモポリタン とは、“根無し草" “無國籍" を言ひます)


          彼らは「國家公務員試驗」を通じて長期に亙り、國民の指導層を洗腦し續けた


  天皇を利用したため、天皇と日本文化の傳統復元力が強く働いたのです。

  といつて、天皇を利用しなければ占領は失敗してゐました。


  それに朝鮮戰爭の勃發が、米國を反ソ反共に引戻しました。

  米國は「お山の大將、俺一人」の國で、トップの座を脅かす國は必ず叩くからです。

  現に、1985年のプラザ合意以降、米國經濟を追越しさうになつた日本は叩かれ續けました。


  それでも米國初め各國は、學界やメディア界を基軸に、左翼リベラル派を大量生産中です。

  ソ聯が解體しても、共産革命ニヒリズムは

  改革ニヒリズムに變容して、しぶとく生き延びてゐます。

  高等教育を受けた人は、嘗てのマルクス主義のやうに、

  頭の良い人ほど、觀念に振り回されて現存秩序を破壞する行爲に走り易いのです。


  1930年代には、ケンブリッヂ大學の優秀な學生は殆ど共産主義者でした。

  彼らは續々義勇兵としてスペイン人民戰線側で戰ひ、戰死します。

      cf. 工藤美代子『悲劇の外交官 ハーバート・ノーマン の生涯』

            (岩波書店、1991.8.27, 98-99頁) 3500圓


  日本でも、優秀な學生ほど マルクス主義にかぶれ、共産黨に投じました。

  尾崎秀實もその一人でした。

      cf. 笹本駿二『人間・尾崎秀實の回想』 (岩波書店、1989.9.29)  1600圓


  モスクワに行つてゐれば必ずや肅清されてゐたであらうやうな優秀な人が、

  麻疹 (はしか) に罹 (かか) るやうに マルクス主義や 共産主義にかぶれたのは、

  勿論 (もちろん) 世界大不況が資本主義の行詰りを如實に示したからでありますが、

  私は「觀念」が人を動かす危ふさに注目せざるを得ません。

(平成25.6.4/6.28 補筆)