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プーチンが歴史に名を殘す道
伊原注:これは月刊紙『國民新聞』第19181號/平成25年 1月25日附 1面に掲載された
「年頭所感」です。
21世紀日亞協會の 1月例會 ( 1月7日 ) で
畏友 鈴木博信さんがロシヤの新情勢について報告された機會に、
「ソ聯崩壞後の米露角逐と米中の無法」といふ年表・覺書を
作つたことが背景にあつて、この一文を書きました。
少し増補してあります。
世界が文明化し、政治家も小粒化が進んでゐる。
(野性的な器量の大きい人物が激減した、との感懷です)
( 理由は簡單、農村育ちが激減し、都會育ちが激増したからです )
その中でロシヤのプーチン大統領は
絶滅寸前に近い政治強人 strong man の一人である。
( 柔道の達人でもある )
強人は、目的のためには惡事を犯すことを辭さない。
エリツィン大統領に起用 (初め首相、次に大統領後繼) された當時、
無名だつたプーチンは第二次チェチェン戰爭を始め、
“チェチェンのテロリストの仕業" として同胞を何百人も爆彈で吹き飛ばすことを
躊躇 (ためら) はなかつた。
身邊清潔な愛國者プーチンは、
エリツィン大統領の後繼者として登場し、
政治を壟斷しようとしてゐた オリガルヒ を抑へ、
( 反抗者を彈壓し、從屬者は重用した )
國内秩序を恢復すると共に、
ソ聯崩壞後の米國一超支配體制に挑戰して
米ドルを基軸通貨の座から引きずり降ろさうと試み、
相當な成果を擧げた。
2000年のロシヤ大統領就任から12年、
ロシヤの統治者及びKGBマンの常として、
上意下達・統制強化 (つまり「專制支配」) しか政治手法を知らぬプーチンは、
嚴しい統制的手法により、到る所で怨みを買つた。
メドヴェーヂェフと首相・大統領の座を交換しつつ權力を保持し續けたのは、
混亂する祖國の安定を圖るためであつたが、
氣が附くと、 (その獨裁者的振舞に) 支持は減りつつある。
何れプーチンも引退の時を迎へねばならぬが、
權力から離れると、身の安全が保障し難い。
投票で長期政權を維持するのは長保 ( ながも ) ちしない。
投票をやめて法律を變へ、獨裁者になつた所で尚更怨みを買ふだけだ。
どうせ畳の上で死ねぬ身なら、歴史に名を殘す道を選んではどうか。
( 柔道の達人プーチンなら、櫻の花に象徴される
( 「潔 ( いさぎよ ) さ」といふ日本人のコ目を知つてゐよう。
( 潔さとは、惡足搔 ( わるあが ) きしないことをいふ。
( 觀察者に「爽快さ」を味ははせる )
先づ、首都を マスクヴァー (モスクワ) から ヴラヂヴァストーク に移す。
アジア太平洋時代に向けたロシヤの大國策設定である。
次に、日本に北方四島のみならず、千島列島も南樺太も返す。
この秘策は、日露關係の二大障礙を一夜にして突破でき、日露親善關係が磐石となる。
二大障礙の第一は、フランクリン・デラノ・ローズヴェルトが仕掛けた罠である。
ローズヴェルトは、「滿洲事變以降の領土變更」をする筈の對日戰爭で、
滿洲事變を遙かに遡つて領土を確定濟だつた千島列島と南樺太をスターリンにくれてやり、
日ソ不和の種を仕掛けた。
二大障礙の第二は、戰後のどさくさまぎれに、北海道附屬の四島まで掠 (かす) め取り、
60萬 ( 105萬説もある ) もの日本の軍民を徴用して戰時國際法を踏みにじった
スターリン の無法である。
プーチン の決斷は、この二つの不和の種を解消する。
この決斷によつて日露兩國の親善が成り、
過疎地帶の極東が日本との經濟協力の下に順調に開發され、
シナ人が幾ら移り住んでも ロシヤ の主權が安泰となる。
ひいてはアジア太平洋の國際關係が頗る安定することにもなる。
一旦奪つた領土を返すことにより、プーチンは暗殺の危險に身を曝すが、
暗殺されようとされなからうと、この決斷によつて、
ロシヤのアジア太平洋への發展を促し、
過疎の東シベリヤと極東を大發展させ、
ロシヤを 21世紀の強國にした名君として、
ピョートル大帝と並んで プーチンの名聲が 歴史に殘ることは間違ひない。
私は切に、プーチン大統領にかう言ひたい。
「日本こそ 東アジアの安定勢力なのですよ」と。
(平成25年/2013年 1月10日執筆/1.24補筆)
追 記:
現在の東アジアのごたごたの原因は、
米國が日露戰爭以來、日本を「東アジアの不安定要因」と見誤つて壓迫したからである。
米國の誤認は、もう一つある。
シナを東アジアの安定要因と見誤つたこと、である。