『昭和天皇とワシントンを結んだ男──「パケナム日記」が語る日本占領──』 - 伊原教授の読書室

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紹  介:




          青木 富貴子 ( あおき ふきこ )


  『 昭和天皇とワシントンを結んだ男
    ── 「 パケナム日記 」 が語る日本占領── 』


                  ( 新潮社、2011.5.20/2011.8.5 二刷 )   1600圓+税




  2012年 8月 8日附で本讀書室に掲載した


  孫崎 享 『 戰後史の正體 1945-2012 』 の中の


  第一、戰後日本の對米從屬路線の定着 の中で、

  昭和天皇が米軍の長期駐留を望まれたことが、吉田内閣以降の對米從屬路線定着の重要な原因を爲す、と紹介しました。


  孫崎さんは、その根據として、下記三項目を擧げてゐます。


( 1 ) 1947.9.20 の シーボルト覺書:

      昭和天皇の顧問、寺崎英成が天皇の傳言 「 米軍の沖繩占領を長期化して慾しい 」 を、

      マッカーサーの政治顧問 シーボルトに傳へたこと。

      この情報は、進藤榮一筑波大學助教授が米國の公文書館から發掘し、

      『 世界 』 1979年 4月號に 「 分割された領土 」 と題して發表したのに、

      新聞も論壇も學界も徹底的に黙殺した。

      「 都合の惡い眞實 」 は騷ぐと注目の的になつて拙いので、

      黙殺して消してしまふのである。


( 2 ) 1955.8.20  重光葵外相が渡米前に上奏した時の天皇の御言葉:

      「 駐留軍の撤退は不可なり 」

        ( 『 續 重光葵 手記 』 中央公論社、昭和63.5.25,732頁 )


( 3 ) 豊下楢彦 ( 關西學院大學教授 ) 『 昭和天皇・マッカーサー會見 』 ( 岩波現代文庫、2008 )

      昭和天皇が 「 沖繩の軍事占領を無期限で繼續して慾しい 」 といふメッセージを

      米側に傳へたことを實證した。



  今回紹介する青木富貴子さんの著書は、上記とは別の線で、

  昭和天皇の意向をワシントン ( トルーマン大統領 ) に傳へる

  秘密徑路があつたことを實證してゐます。

  日本の内閣も、GHQ ( 連合軍司令部 ) のマッカーサー元帥も素通りするパイプです。



  例によつて、先づ 「 目次 」 を紹介しませう。


      第一章  鳩山邸を訪ねる英國人

      第二章  マッカーサーに嫌はれた男

      第三章  占領された日本へ再入國

      第四章  「 昭和天皇の側近 」 松平康昌

      第五章  フリーメーソンへの誘ひ

      第六章  「 天皇の傳言 」 パケナム邸での夕食會

      第七章  パケナム追跡  日本・英國編

      第八章  鳩山一郎とダレスの秘密會談

      第九章  マッカーサー解任と日本の獨立

      第十章  岸政權誕生のシナリオ

      第十一章  パケナム追跡  アイルランド・英國・神戸・東京編

      終  章  多磨靈園に眠る



  本書は、昭和天皇の對米意志傳達のアメリカ側の受け皿になつた人物、

  トーマス・コンプトン・パケナムThomas Compton Pakenham

      ( 本書では一貫して 「 コンプトン・パケナム 」 と表記してゐるが、

      ( パケナムの息子 エドワード・マイケル・パケナム が

      ( 「 トマス・コンプトン・パケナムといふのが父の本名です 」

      ( と言つてゐる。本書 49頁 )

  の生涯を追つた謎解きノンフィクションです。


  この謎解き自體、頗る面白い物語です。

  周到な追跡調査で次々と眞相に迫ります。


  でもこの紹介では、

      昭和天皇の戰後日本の對米關係構築と意志傳達

の一點に絞つて見ることにします。


  英國人パケナムは、明治26/1893.5.11、英國人貿易商の子として神戸で生れます。

  パケナム家は、爵位を持つ英國の名家で、アイルランドに城があります。

  伯父ウィリアム・パケナムは、日露戰爭當時、

  英國海軍の觀戰武官として戰艦 「 朝日 」 に乘組んで詳しい觀戰報告を送り、

  當局から稱讃されたことで知られる海軍軍人です。

  司馬遼太郎も 『 坂の上の雲 』 で

      「 ペケナム大佐 」 として

  この觀戰武官に言及してゐます ( 15頁 ) 。


  この經歴と環境が コンプトン・パケナム を、

  日本語と日本文化に通じた貴重な人材に育てます。


  著者曰く ( 34頁 ) 、

      「 明治26年生れのパケナムにとつて、明治天皇こそ偉大な君主であり、

      「 あの時代を知つてゐることが大いなる譽であつた。

      「 彼にとつての日本は、清國を敗り、英國と同盟を結んでロシヤを打負かしたあの

      「 輝かしい時代の日本であつた 」


  パケナムは、學習院に通つて近衞文麿と幼 ( をさな ) 馴染みだつたとか、

  英國へ歸つて有名校ハロースクールを卒業後に

  サンドハースト王立士官學校へ進んだとされますが、

  これは、米國で就職する必要上生じた經歴詐稱のやうです。


  パケナムは其後、第一次大戰に從軍、

  戰後アメリカに渡つて地方大學の教職を轉々としたあと、

  ジャーナリストとなり、1930年代には NYタイムズ に 音樂評を書いた。


  日本の降伏直前の 昭和20/1945年、 『 ニューズウィーク 』 6.11號〜7.30號 に

  日本人の精神構造・神道・皇室・死生觀などを紹介する 7回の連載を發表して評判になり、

  日本に派遣されるきつかけとなつた。


  そして日本の占領期に日本に來てGHQの日本統治のでたらめさに呆れ、

  マッカーサーの占領政策を批判したことから、

  昭和天皇との意思疏通のパイプが出來るのです。


  著者は パケナム が、

  所屬する 『 ニューズウィーク 』 の上司 ハリー・カーン Harry Kern に送つた

  手書きの報告 「 パケナム日記 」 のコピーを手に入れて、

  これを讀み解きつつ本書を書きます。

      ( 初め 『 新潮45 』 2009年 8月號〜10月號に掲載 )

  本書はさながら 「 米軍日本占領史の裏話秘録 」 です。


  パケナムは戰後の 昭和21/1946年初 6月、東京に來ます。

  『 ニューズウィーク 』 が パケナム を日本に送つたのは、

  聯合軍による日本占領一周年記念號の取材をするためです。


  パケナムは取材した結果、

      「 占領は失敗、失敗、また失敗 」

と酷評します。

  例へば 「 公職追放 」 です。

      「 産業界・金融界・商業界の指導者 2萬5000人〜 3萬人が職を奪はれた。

      「 三親等までの血縁者も公職につけなくなつたため、今回の措置の對象者は總計實に25萬人。

      「 日本の經濟を支へてゐる人々が仕事から締め出されかけてゐる 」


  本來、公職追放は

      「 軍國主義者・侵略戰爭加擔者を政界から追放するのが目的であつた 」 のに、

  追放が經濟界にまで及んだため、

      「 日本で最も活動的で能率が良く、經驗豐かで教養もあり、國際感覺を併せ持つ層、

      「 正にアメリカに最も協力的な層が切捨てられることになつた 」


  パケナムが憂へるのは、共産主義の跋扈 ( ばつこ ) です。


  公職追放が資本主義大國アメリカの指令として行はれたとは何たる矛盾であるか。

      「 日本經濟の主導權が新圓長者やヤミ投機家の手に移り、

      「 極左グループに利用されて隙を狙ふソ聯に好都合になる 」

  恐れがあるではないか、と。


  かくて パケナム は、親共の ニューディーラー、

  コートニー・ホイットニー准將率ゐる民生局 GS と對立します。


  また、占領の實體調査のため、ワシントンから日本に調査團を送れと書いて、

  マッカーサーの逆鱗 ( げきりん ) に觸れました。


  だから昭和22/1947年 8月に一時歸國したパケナムは、GHQから再入國を拒否されます。

  著者曰く ( 43頁 ) 。

  これが、トルーマン が マッカーサー を解任するに到る兩者の亀裂の始りだと、


  パケナムは昭和23/1948年末、A級戰犯 7名の死刑が執行される頃に、

  やつと日本を再訪します。

  但し、トランジット・パス支給による 48時間の短い滯在です。


  この短期間に、天皇とのパイプが出來ます。

  宮内府式部官長の松平康昌が會ひに來ます。松平はパケナムと同じ明治26年生れ。

  昭和天皇の側近であり、米側との非公式聯絡係を務めてゐました。


  昭和24/1949年 4月13日、パケナムは晴れて日本に入國します。

  GHQからやつと記者證が取れたのです。

  そして、松平康昌の努力で、要人と密會できるアジトがつくられます。

  吉川重國男爵の邸宅で、秋山コ藏といふフランスで料理を修行した 「 天皇のコック 」 が

  いつでも必要な時に出張して和食を提供してくれるといふ、物凄い優遇條件附きです。


  かくて、

      昭和天皇 = 松平康昌 = パケナム = ハリー・カーン = ワシントン

  といふ日米意思疏通の秘密徑路が確立するのです。


  單に 「 秘密の、非公式の 」 といふほかに、

  GHQ ( 占領軍當局=マッカーサー ) も日本國政府もバイパスして

  ワシントンに直結してゐる點が重要です。


  この秘密徑路が出來たのは、必ずしもこの時が初めてでない證據があります。


  パケナムが一時歸國した昭和22/1947年の 『 ニューズウィーク 』 11月17日號に、

  パケナムが 「 眞珠灣秘話 」 を掲載してゐます。

  この秘話は明らかに、

  昭和天皇に密着してゐた松平康昌から出たネタを使つて書かれてゐます。


  「 天皇は眞珠灣攻撃を中止できたか? 」 と題するこの記事の主旨は、以下の通り。


  東京 1941.12.7 早朝。

  日本外務省は UP通信の報道で大統領が天皇に メッセージ を送るとの情報を察知。

  正午、東京電報局が 大統領の メッセージ 2通を受取る。

  だが 「 その筋 」 の命令により配達できず。

  配達を押さへたのは 「 陸軍參謀本部 」

      ( 伊原註:具體的に動いたのは瀬島龍三參謀です )

  但し、軍部だけでは天皇の開戰反對は抑へ込めない。

  皇居内の協力者が必要である。

  その協力者とは、内大臣木戸幸一侯爵である。

      ( 以上、83-85頁 )


  餘談ながら、本書にはフリーメーソンについて一章が設けてあり、

  マッカーサーが 「 33位階 」 といふ最高位の會員であつたこと ( フィリピンで入會 ) 、

  リビスト大佐といふ退役軍人が昭和天皇を入會させようとして、

  松平にピシャリと斷られたことなどが書かれてゐます。


  扨て、問題の 「 天皇の傳言 」 です ( 第六章 ) 。


  長引く日本占領を切上げるべく、朝鮮戰爭直前に、

  ジョン・フォスター・ダレスが大統領特使として訪日します。


  ダレスは、日本を再武裝し、米軍基地も維持するつもりでゐた。

  所が吉田首相はそれをはぐらかし、非武裝中立を維持すると答へた。

  その背景に、かういふ事件がありました。


  マッカーサーをバイパスして池田勇人藏相を渡米させ、

  直接ワシントンに次の意向を傳へさせたのです。

      米軍の駐留を認めるから、早く講和條約を結びたい。

      米軍駐留を米側が言ひ出しにくければ、日本側から要請してもよい、と。

  所が 「 直接交渉 」 をマッカーサーから嚴しく叱られ、以後吉田はマッカーサーに逆らひません。

  マッカーサーは日本に武裝さすつもりは、朝鮮戰爭前には考へてゐませんでした。

      「 日本よ、アジアのスイスたれ 」

          ( 伊原註:スイスは始終軍事訓練をして侵略に備へてゐる重武裝國家なのですが )

  だから、ダレスが期待した 「 日本の武裝 」 と 「 米軍駐留の繼續 」 を吉田は言はなかつたのです。


  失望したダレスは、6月22日、パケナム邸を訪れ、非公式密談をします。

  これに日本側から 4名が出席します。

      渡邊  武 ( 大藏省 ) 、

      海原  治 ( 國家地方警察本部 ) 、

      澤田謙三 ( 元外務次官 ) 、

      松平康昌 ( 宮内廳 ) 。

  話題は、講和後の日本の安全保障問題でした。

  松平康昌は、このあと、昭和天皇に會談内容を詳しく傳へた筈です。


  その 3日後、朝鮮戰爭 ( 當時は朝鮮動亂と稱〈よ〉んだ ) が勃發し、

  日本は否應なしに警察豫備隊を發足させました。


  そして 「 天皇の傳言 」 です。


  朝鮮戰爭勃發の翌日 ( 即ち 6.26 ) 、

  昭和天皇は松平康昌をパケナム邸に派遣し、ダレスへの傳言を依頼させます ( 140頁 ) 。


  この昭和天皇の傳言は後に文書化 ( 英文 ) されました。

  その英文は、日本語化されて本書に引用 ( 142頁以下 ) されてゐますが、

  要點はかうです。


      公職追放を緩和し、有能な日本人を米國の對日窓口に起用できるようにして慾しい。

      「 今は沈黙してゐるが、人心の奥まで届く意見を表明できる人が澤山居ます。

      「 かうした人々がその意見を公表できる立場にゐれば、米軍基地問題を巡る混亂は、

      「 日本側からの自發的提言により解決できた筈です 」


  昭和天皇は、吉田首相のもたつきにより、日本の安全保障が搖らぐことを恐れ、

  政治的發言を敢へてなさつた模樣です。


  著者は、天皇がマッカーサーと10回會談を重ねたことを書き、

  「 東洋のスイスたれ 」 などといふ老人 ( マッカーサー ) の繰り言を信用せず、

  またそのマッカーサーに丸め込まれた吉田首相にも苛立ち、

  非公式ルートを使つて直接ワシントンに 「 日本の前途 」 を定める提言をしたのであらうと

  推測してゐます。


  曰く、

      「 第一回會見から 5年の歳月を經て、益々話のくどくなる老人 ( マッカーサー ) の限界を

      「 見たのではないか。

      「 第一回ダレス・吉田會談の不調、その後マッカーサーに屈從する吉田の振舞を見て、

      「 講和條約と安全保障をマッカーサーと吉田には任せて置けないと

      「 天皇は判斷したのである 」


  このあと、鳩山一郎や岸信介との密談がパケナム邸で行はれたなど、

  獨立後の日本の政局に關する重要な話が續きますが、以下は省略します。


  昭和天皇が 「 象徴天皇 」 となつた戰後でも、

  日本の前途に關して重要な政治的發言をなさつてゐた

  との報告を、これで終ります。

( 平成24/2012年 9月12日記 )