紹介:中谷 彪『塩尻公明 求道者・學者の生涯と思想』 - 伊原教授の読書室

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紹 介



    中谷 彪 ( なかたに  かほる )


『 塩尻公明──求道者・學者の生涯と思想── 』


                  ( 大學教育出版、2012.1.10 )   2800圓+税




  今年の6月22日、梅田の紀伊國屋書店で發見して、懷しさの餘り直ぐ手に取りました。

  「 こんな本が出てゐたのか…… 」


  鹽尻公明( 上記書名では戰後の習慣に從つて略字にしたが、戰前は鹽尻が正式なので、


  本文中ではこの漢字を使ひます )先生との私の縁は、

  御著書の愛讀者といふほかに、三つあります。


  第一に、社會思想研究會の縁。

  鹽尻先生は河合榮治郎の初期のゼミ生 ( 一高在校時に河合先生に師事 ) として、

  河合ゼミの人達は皆、尊敬してをられました。勿論、私もさうでした。


  第二に、神戸大學の恩師として。

  昭和25年 ( 1950年 ) に神戸大學經濟學部に入つたあと、

  教養課程の學生として、 「 政治學 」 の講義を聽講しましたし、

  直接教育學部長室を訪ねて教へを請ふたこともあります。


  第三に、帝塚山大學では光榮にも同僚となりました。

  そして、講義中に倒れられた先生の最期を看取ることになりました。


  本書 『 鹽尻公明 』 の著者、中谷 彪さんは

  神戸大學教育學部教育學科の卒業生 ( 1966年卒 ) で、

  鹽尻先生の教へ子です。鹽尻先生の最終講義も聽いてをられます。


  教育學・教育行政學者の本業に勤 ( いそ ) しむ傍ら、

  鹽尻公明の著書の愛讀者として愛讀者の會 「 鹽尻公明研究會 」 に參加して來ました。


  しかし、鹽尻公明研究は、他に適任者ありとして考へてゐなかつたさうです。


  所が、2010年春以來、著者に 「 想定外の仕事 」 が舞込みました。

  『 鹽尻公明  民主主義の道コ哲學 ( 講義ノート ) 』 ( 北樹出版、2010.10. )

の編輯をすることになつたのです。


  その作業のため、

  「 改めて鹽尻公明の講義原稿を讀んだり、講義録音を聽き返したりするうちに、

  「 身の程を忘れて、何らかの形の鹽尻公明論を書いてをきたいと思ふやうになつた 」 ( はしがき )


  なほ、この 「 はしがき 」 中に、

  『 現代教育思想としての鹽尻公明 』 ( 大學教育出版、1999年 ) といふ 「 前著 」 があることが

  明かにされてゐます。

  興味のある方は、どうぞ御注文されよ。


  私は鹽尻公明愛讀者の會で一度報告したことがありますから、

  著者とお目にかかつてゐるかも知れませんが、

  面識はありません。


  しかし、内容のある立派な著書であるし、

  ほかならぬ鹽尻公明先生の詳しい傳記なので、

  河合榮治郎論に續いて本書を紹介することにします。



  先づは 「 目次 」 の紹介です。




  はしがき


  プロローグ

        1  鹽尻公明といふ人

          ( 1 ) 忘れられた思索家──牛村圭の鹽尻像──

          ( 2 ) 憧れの名物教授──綱淵謙錠の鹽尻像──

          ( 3 ) 求道者・學者・教育家──木村健康の鹽尻像──

        2  鹽尻公明像の素描──知人が語る鹽尻像──

          ( 1 ) 兩極端の鹽尻像

          ( 2 ) 奥宮延子の鹽尻像

          ( 3 ) 舊制高知高校の學生達の鹽尻像

          ( 4 ) 神戸大學の學生達の鹽尻像

        3  鹽尻公明の實像を求めて


  第1章  備藤公明の誕生

        1  備藤家と公明の誕生

          ( 1 ) 備藤公明の誕生

          ( 2 ) 備藤家の家族

        2  鹽尻家と公明

          ( 1 ) 鹽尻家の養父・養母

          ( 2 ) 鹽尻卯女と公明

          ( 3 ) 卯女の生き方と公明


  第2章  青少年期の備藤公明

        1  幼少期の生活

          ( 1 ) 小學校時代

          ( 2 ) 中學校時代

        2  青年期の生活

          ( 1 ) 舊制第一高等學校の時代

          ( 2 ) 東京帝国大學時代の生活


  第3章  苦惱地獄時代の鹽尻公明

        1  一燈園時代

          ( 1 ) 托鉢の生活

          ( 2 ) 一燈園に別れ

        2  越後の田舎生活

          ( 1 ) 讀書と百姓の生活

          ( 2 ) 『 生活者 』 への寄稿

          ( 3 ) 越後から大阪へ

        3  坐禪から受取るへ

          ( 1 ) 順正寺で坐禪する

          ( 2 ) 蜂屋賢喜代師に師事

          ( 3 ) 「 すべてよく受取る 」


  第4章  舊制高知高等學校時代の鹽尻公明

        1  教職に就く

          ( 1 ) 舊制高知高等學校の教授に

          ( 2 ) 實力を發揮する

          ( 3 ) 學問と求道の兩立

          ( 4 ) 彼の容貌と服裝と講義原稿

          ( 5 ) 如何に生くべきかを語つた名講義

          ( 6 ) 謙虚であつた講義態度

          ( 7 ) 個人主義と自由主義の擁護

          ( 8 ) 勉強時間なき苦しみ

        2  著作の發表

          ( 1 ) 『 ベンサムとコールリッヂ 』

          ( 2 ) 『 天分と愛情の問題 』

        3  空襲で原稿類を燒失

          ( 1 ) 空襲と彼の行動

          ( 2 ) 校長彈劾騒動の先頭に立つ


  第5章  結婚と家族と病氣

        1  體驗した結婚と離婚

          ( 1 ) 結婚と離婚の秘密

          ( 2 ) 記事から推測する

          ( 3 ) 相手の女性について

          ( 4 ) 離婚の原因は何か

        2  40?で再婚

          ( 1 ) 名越一枝女史と再婚

          ( 2 ) 結婚を講義する

        3  鹽尻家の新しい生活

          ( 1 ) 長男の誕生

          ( 2 ) 郷里で長男と初對面

          ( 3 ) 空襲で三度目の疎開

          ( 4 ) 不自由な疎開生活

          ( 5 ) 官舎での樂しい家庭

          ( 6 ) 多くの著作を生み出した書齋

        4  鹽尻の病氣

          ( 1 ) 絶對安靜の病状

          ( 2 ) 妻と子供への遺書

          ( 3 ) 危險な病氣との附合ひ

          ( 4 ) 鬪病下での勉強


  第6章  高知から神戸へ

        1  鹽尻思想の爆發

          ( 1 ) 蓄積した思想の爆發時代

          ( 2 ) 神戸大學へスカウトされる

          ( 3 ) 鹽尻が招聘に應じた理由

        2  さらば高知よ

          ( 1 ) 「 虚無について 」 の眞意

          ( 2 ) 鹽尻教授お別れ講演會


  第7章  神戸大學時代の鹽尻公明

        1  傑出した教育學部長

          ( 1 ) 神戸での新しい生活と人氣教授

          ( 2 ) 4期8年の名教育學部長

          ( 3 ) 求道としての學部長職

          ( 4 ) A級大學のA級教育學部の創設

          ( 5 ) 教育學部の整備

          ( 6 ) 開かれた大學自治・教授會自治

        2  鹽尻公明教育學部長の挨拶

          ( 1 ) 講義としての挨拶──周到に用意した原稿──

          ( 2 ) 劣等觀念の横行する國

          ( 3 ) 就職難について

          ( 4 ) 全教學協大會への所感

          ( 5 ) 社會改革と宗教──教育學部卒業生への送別の辭

        3  學長候補者に推薦される

          ( 1 ) 教育學部長職を終へる

          ( 2 ) 教育學部長職8年の總括

          ( 3 ) 學長候補者に推される

          ( 4 ) 教師としての喜びを享受


  第8章  帝塚山大學時代の鹽尻公明

        1  帝塚山大學に招聘される

          ( 1 ) 帝塚山大學に就職

          ( 2 ) 役職と講義

        2  妻への官舎──入院生活を體驗して──

          ( 1 ) 悲劇の夫婦?

          ( 2 ) 入院生活と妻の看護

        3  最後の講義ノート

        4  教壇で倒れる

          ( 1 ) 最後の講義

          ( 2 ) 葬儀と墓碑銘


  エピローグ

        1  求道者としての鹽尻公明──求め續けた眞實の幸福と安心立命──

          ( 1 ) 唯一人の旅路

          ( 2 ) 求道に導いた5つの要因

          ( 3 ) 求道者としての生涯

        2  學者としての鹽尻公明──求道としての學問研究──

          ( 1 ) 天職としての教授職

          ( 2 ) 求道としての一四原則

          ( 3 ) 求道としての役職

          ( 4 ) 「 民主主義を基礎づける5つの基礎理論 」 への努力

        3  教育家としての鹽尻公明──天性の教育者──

          ( 1 ) 天性の教育者

          ( 2 ) 惱める人々の北極星

        4  鹽尻公明の實像──人間の業と鬪つた人生──


  附    録

        1  鹽尻公明略年譜

        2  鹽尻公明著作一覧

        3  鹽尻公明 「 或る遺書について 」


  あとがき


  人名索引




  扨て、目次の轉記だけで隨分の紙幅を取つてしまひました。

  でも、これで内容がよくお解りでせう。


  あと、できるだけ簡潔に、要點を適記します。


  第一、よく調べてあります。

  さすが學者で、敬服しました。

  私は、神戸大學時代以前の鹽尻先生についてはよく知らなかつたので、

  この部分で恩惠を受けました。


  いや、神戸大學時代も、教育學部長としてどう手腕を振るはれたかを知らなかつたので、

  この部分でも大いに恩惠を受けました。


  鹽尻先生が、

  求道者として學問をし、讀書し、講義し、學部長を勤められたこと

がよく判りました。



  第二、これは私自身の感想ですが、

  鹽尻公明を理解する焦點は、失戀に長期こだはり續けたあの執念深さにあります。

  愛憎の念が極端に激しいのです。

  人間性の實に厭味な部分です。

  御自分にこの厭味な部分がたつぷりあることを、先生は隱してゐません。

  書かれたエッセイに出て來ます。


  この深淵のどろどろした部分を覗き見て愕然とした人だけが、

  鹽尻公明を眞に理解できます。


  鹽尻先生は、接してゐて實に爽やかな御人柄でした。

  だから誰もが御傍に居たいと願ひ、一度接すると離れられなくなります。

    ( 現に、愛讀者の會である鹽尻公明會は今なほ續いてゐます )


  この爽やかさは、先生が御自分の缺點を自覺して嫌ひ抜き、

  克服しようと惡戰苦鬪した末にやつと到達した見事な成果だと思ひます。


  自己嫌惡が徹底してゐたからこそ、

  あれだけ有能だつた先生が、 「 天分の無さ 」 に惱み抜くのです。

  自分を愛するが故に徹底的に嫌ひ抜くといふ

  地獄を通り抜けて得たこの爽やかさこそ、

  鹽尻公明の人格の感化力の根源なのであります。


  第三、本書に足りぬ點があるとすれば、帝塚山大學時代、

  つまり鹽尻先生の晩年の重要な時期を過ごされた時代の記述が極めて簡素なことです。

  私は神戸大學時代以來、社會思想研究會の關西支部の組織者として

  鹽尻先生を讀書會や講演、合宿研修會の講師に引張り出しましたから、

  先生の晩年に、比較的身近に居た者の一人です。

  特に帝塚山大學では同僚でしたから、帝塚山大學でも親しく接して居ります。


  だから、著者が私に聯絡を取つてくれたら、

  第8章の帝塚山大學時代について多少の記述材料を提供できたのにと、

  殘念に思ひます。


  帝塚山大學時代の鹽尻先生について二點、補足と訂正をしてをきます。


( 1 ) なぜ片道3時間もかかる奈良の帝塚山大學に勤めたか?

  282頁には、帝塚山學園理事長兼帝塚山大學學長の森磯吉さんが

  「 懇切丁寧な招聘の申し出 」 をしたから、と解説してあります。


  その森磯吉さんに鹽尻先生の採用を薦めたのは、

  「 最後の河合ゼミ生 」 音田正巳先生 ( おんだ  まさみ/大阪府立大學經濟學部教授 ) です。

    ( 昭和14年3月、河合榮治郎が東大を辭任した時の卒業生 )


  河合ゼミと社會思想研究會の關係で、

  音田正巳先生が鹽尻先生と私を、

  親しかつた森磯吉理事長兼學長に賣込んで下さつたのです。


  音田先生は、東京帝國大學經濟學部の後輩熊澤安定學監の相談に乘り、

  河合榮治郎の教養論 ( 教養を人間形成と捉へる考へ方 ) に基づいて

  教養學部の構想を練りましたから、

  河合學派の鹽尻公明先生や私の帝塚山大學就職は、必要不可欠の人事だつたのです。


  なほ、本書で帝塚山大學教養學部の所在地を ( 奈良縣生駒市 ) としてあるのは間違ひ。

  奈良市です。


  それから、音田先生は當時は帝塚山大學に 「 勤務 」 ( 283頁 ) してゐません。

  音田先生が帝塚山大學學長に就任するのは、ずつとあとのことです。


( 2 ) 283頁に、鹽尻先生が 「 教務部長で多忙 」 とあるのも間違ひです。

  創立當時、帝塚山大學の教授陣は、

      高名な定年退職組の老教授陣と、

      大學院を出たての若手の助教授講師陣の

  二世代で構成してゐました。


  そして、教務部長や學生部長など必要な役職の長には老教授を當てましたが、

  それは名目だけで、實務は次長の助教授講師が擔當しました。

  鹽尻先生の教務部長の實務は、教務部次長の私 ( 當時助教授 ) が全部こなしました。


  事務員は若い女性が教務部・學生部兼任で一人しか居ませんでしたから、

  討議資料のガリ版切りまで私がやりました。


  だから

  「 帝塚山大學では、教務部長として會議を運營して苦勞された…… 」 ( 283頁 )

といふのは、些か納得し兼ねます。


  「 眞面目な鹽尻は役職者 ( 教務部長 ) といふ立場上、會議を運營し、

  「 多くの事務的處理を指示して行かなければならなかつた 」 ( 284頁 )

といふのに異論を唱へたい思ひです。


  當時、帝塚山大學は新構想の教養學部として發足し、モデルはどこにもないので、

  教務關係の制度の手直しや新規事業の開始など、不斷に提案がありました。

  ですから私が下仕事をしても、鹽尻先生は教授會で部長として提案し、異論を聽き、

  結論に持込まねばなりません。


  これが 「 會議を運營し、…… 」 といふ表現になつたのでせうが、

  教育學部長を8年勤めた先生が、教授會の中の教務部長としての提案 → 結論 の取纏めに

  それほど難澁されたでせうか?

  教授會で議論は盛んでしたが、紛糾はしませんでした。

  專門を異にする教授連が好き勝手な議論をするのは、私には寧ろ面白いことでしたが……


  憚り乍ら、ほかの私學では、帝塚山大學ほど雜務から開放されなかつたと思ひます。


  かういふ“形式的な教務部長の教授會での儀禮的取纏め役" でも身體に應 ( こた ) へるほど、

  健康が弱つてゐられたといふことなのでせうか?

  確かに、意に染まぬことを押しつけられると、

  何でもないことでも負擔に感ずるものではありますが……


  それにもう一つ、

  當時の帝塚山大學は、鹽尻先生と同じく創立 2年目に就任した某助教授が、

    「 日曜日に自宅にゐると、何か損してゐるやうな氣分になる。

    「 大學に居る方が精氣潑溂として、精神が昂揚するからだ 」

と言つたやうに、學内に創立期の活氣が漲つてゐました。


  だから、鹽尻先生も、

    「 講義や事務的仕事 ( 伊原註:これは教授會出席だけ ) に費す體力の消耗 」

もあつたでせうが、

  活氣のある學生と一緒に居ることによる快適さも感じてをられた筈です。


  何しろ鹽尻先生は、愛讀者を大事にする人でしたから。

  そして鹽尻先生を崇拝する學生は大勢居ました。


  ですから、他の私立大學に行かれるより、帝塚山大學に來られた方が、

  遠距離通勤のマイナスがあつたにせよ、

  學内の雰圍氣は遙かに良かつた筈です。


  鹽尻先生について、私は、鹽尻先生の愛讀者の會で、奥樣を含めた會員を前に

    「 鹽尻公明と河合榮治郎 」

と題して報告したことがあります。

  この報告のレジュメが我家の何處かにある筈ですから、

  何れ出て來たら、この 「 讀書室 」 に掲載することにします。


  その基本的主張は、

      河合榮治郎=強き者・有能と自負する者を導く導師、

      鹽尻  公明=弱き者・無能と卑下する者を導く導師、

といふ所にあります。


  だから、人生に躓いた人にとつては、鹽尻公明は救ひの神なのです。

  實は、鹽尻公明も有能且つ實に強き人なのですけれども。


  最後に、鹽尻公明は 『 全集 』 が出てゐて然るべき貴重な人生の案内者なのに、

  全集はおろか、選集も出てゐません。

  殘念至極です。

( 平成24./2012.9.5記 )