紹介:『教養主義者  河合榮治郎』 - 伊原教授の読書室

> コラム > 伊原吉之助教授の読書室


紹  介:


              青木 育志



    『 教養主義者  河合榮治郎 』

                    ( 春風社、2012.8.28)  3000圓+税


  『 河合榮治郎文獻目録 』 ( 河合榮治郎研究會、1994年)、 『 河合榮治郎の社會思想體系──マルクス主義とファシズムを超えて── 』 ( 春風社、2011.6.2) といふ著書がある青木育志さんが、河合榮治郎の教養論を取り上げた新著を贈つて下さいました。


  私は、河合榮治郎の教養論を頗る高く評價する者ですから、早速一讀しました。


  青木さんは、大丸に務めながら勉強を續け、大學教授を志した人です。

  本書も理論的整理が行き届いてをり、周到且つ論理的分析が成されてをります。


  先づは、目次を一瞥しませう。



  はじめに── 「 教養 」 と 「 昭和教養主義 」 とは何か──


  第1章  哲學者

    第1節  教養主義

    第2節  學問論

    第3節  認識論

    第4節  道コ哲學

    第5節  藝術・宗教論

    第6節  比較文化論


  第2章  大學教授──大學教育を通して──

    第1節  大學教育論

    第2節  講義と試驗

    第3節  ゼミナール

    第4節  古典研究會

    第5節  面會日と學生相談

    第6節  師弟論


  第3章  社會教育家──出版活動を通して──

    第1節  『 學生叢書 』 の出版

    第2節  『 教養文獻解説 』 の出版

    第3節  『 學生に與ふ 』 の出版


  第4章  知的生活論者

    第1節  知的生活論

    第2節  書齋論

    第3節  讀書論・思索論

    第4節  討論・執筆論


  第5章  人生論者

    第1節  日常生活論

    第2節  修養論

    第3節  職業論

    第4節  親子・友情論

    第5節  戀愛・結婚論

    第6節  同胞愛・社會論


  おはりに


  そして本文 281頁のあとに、參考文獻・人名索引・事項索引が20頁ついてゐます。


  冒頭に、戰後の教養論議を取り上げ、

  教養論は肯定者が少なく、否定論者が壓倒的に多いと説きます。

  そして、是否の分れ目は 「 教養 」 の定義如何によるとして、 「 教養 」 の定義を六つ並べます。

  ( A )定義:常識

  ( B )定義:稍高度な知識・たしなみ

  ( C )定義:基礎知識 ( 嘗ての大學の 「 專門課程 」 に對する 「 教養課程 」 )

  ( D )定義:古典の習熟とその自由な引用 ( ギリシャ・ラテン語、漢文の習熟 )

  ( E )定義:主知主義・學問的生活

  ( F )定義:人格の成長 ( 修養・人間形成 )を目指す生き方。


  青木さん曰く、教養主義否定論者は、教養=ディレッタンティズムとして否定する人が多く、また個人の問題・内面の問題に留まり、社會問題に目を向けないと批判する ( 特にマルクス主義者 )が、それは河合榮治郎の教養論には當はまらないと批判します。


  私の考へ ( 河合榮治郎理解 )は、以下の通りです。

( 1 ) 「 教養 」 とは自己形成 Selbstentwickelung des Menschen/Selbstentbildung des Menschen である。


( 2 ) 「 教養 」 とは what should I do? と共に、 what should I be? を考へる立場である。


( 3 )そして、河合榮治郎の理想主義・人格主義とは、高等教育を受けた者に 「 君らは特別な恩惠を得て高等教育を受けられたのだから、卒業したら世のため人のために盡せといふ教へ 」 と理解する。


  從つて、人格成長とは、世のため人のために盡す努力を言ふと考へてをります。


  青木さんの本書での論旨もほぼ同樣なので、氣持良く讀み進みました。


  以下、青木さんの言葉を幾つか拾つて紹介に換へます。


  30頁:教養即ち人格の成長とは……佛教に於る苦行にも似た……不斷の努力の積重ねである。

        そこで 「 内面沈潜型 」 になり易い。だが河合榮治郎は 「 社會的展開型 」 である。

        河合榮治郎自身、 『 學生に與ふ 』 で 「 人生に於る戰ひ 」 を三つ擧げてゐる。

          ( 『 河合榮治郎全集 ( 14) 』 63頁)

        「 教養は人生に於る戰ひである。かつてヴィクトル・ユーゴーは世に戰ひが三つあるとして、

        人間の自然に對する戰ひ、人と人との戰ひ、人の内心の戰ひを擧げ、それぞれの戰ひのために

        『 海上の苦鬪者 』 『 1793年 』 『 レ・ミゼラブル 』 の三部作を書いた…… 」


  71頁:第一次大戰後のドイツ學問について、河合榮治郎は述べる。

        「 經濟學や社會思想の領域に於ては、19世紀末から今世紀の初めにかけてドイツ學問の最盛期

        で、今はドイツが世界學界の最高峰を占める時代は去つたのだ 」

        そして青木さんがこの言葉を評して曰く、

        「 ドイツの學問の停滯が言はれ出すのは第二次世界大戰後のことであるが、河合は既に第一次

        世界大戰が終了した1930年代に悟つてゐたのである 」


  第二章の 「 大學教授 」 の項目は、同じく大學に勤めた私にとつて身近な内容を成します。

  私は最後の 「 河合ゼミ生 」 である音田正巳先生に 「 社會思想研究會 」 で鍛へられた 「 孫弟子 」 です。

  讀書會での激しい討論を始終經驗しましたし、合宿研修を主催して朝晝晩から深更に到る討議生活もやりました。

  123頁に、青木さんが前著 『 河合榮治郎の社會思想體系 』 から次の言葉を引用してゐますが、全く同感です。


  「 近代日本の高等教育史上、情熱的な教育によつて優秀な數多くの弟子を育て上げ、後世へ多大の影響を與へたといふ意味で、二人 ( 吉田松陰と河合榮治郎) は大教育者の双璧と言へるのではないだらうか 」 ( 青木育志 『 河合榮治郎の社會思想體系 』 318頁)


  河合榮治郎の社會的貢獻で際立つのは、 「 讀書の薦め 」 です。

  讀書は語彙を殖やし ( つまり、考へる基盤を擴げる)、考へさせ ( 思想を鍛へる)、洞察力を育みます。

  今の若者は、讀書どころか、新聞さへ讀まない。

  讀むのは專らスマホの畫面です。

  あれは 「 拾ひ讀み 」 であつて、じつくり考へる讀み方ではありません。

  これでは 「 考へる能力 」 が育ちません。


  八月下旬に所用あり、久しぶりに東京へ行きました。そして神田の古本屋街を訪ね、四册 1萬4000圓の買物をしたら、本屋のおかみさんが喜色滿面で言ひました。

  「 あゝ、この高い本がやつと賣れた! 」

  そして、問はず語りに言ふのです。

  「 今、若い人達は本を讀まなくなつたでしょ。本がさつぱり賣れないのです 」

  「 うちだけじやあありません。軒並み賣れないんです。皆さん、困つてをられます 」


  日本の沈没必至と思ひました。


  今月の 『 日經 』 に 「 私の履歴書 」 を掲載し始めた新日鐵名譽會長の今井 敬さんが、 『 産經 』 9月2日 6面の 「 舊制高校寮歌物語 ( 5) 」 に登場して、こんなことを喋つてゐます。


      「 舊制高校の良い所は、 ( 進學の心配がなかつたため )受驗勉強をしなくてよいといふ余裕があ

      つたことでせうね。スポーツ、讀書、哲學、仲間との議論 」


  記事は更に、かう續きます。


      戰後、今井が アメリカ の社會學者で 『 ジャパン・アズ・ナンバーワン 』 の著書で知られる エズラ・ヴォーゲルと

      會つたとき、 「 舊制高校卒業生の ネットワーク が日本の復興に隨分役立つた 」 と聞かされた。

      實際、ある時期まで政界・官界・財界の一線には舊制高校OBがゐた。“財界總理" と稱ばれた

      歴代の經團聯會長の學歴を見ても、今井を含め、會長の殆どが舊制高校−帝國大學コースを歩ん

      でゐる。

      所が、最後の舊制高校世代が現役を離れた約20年前から、時期を合せたかのやうに日本の凋落が

      始つた。今に續く 「 失はれた20年 」 である。

      元東洋經濟新報社取締役編輯局長の伊豆村房一 ( 1941〜 ) は、 「 曾ての財界人は、剛毅で、天下

      國家を見据えてゐる リーダーが多かつた。財界の衰退も 『 失はれた20年 』 と重つてゐる 」 といふ。


  232頁:河合榮治郎は、かう書きました。

  「 數日徹夜同樣を續けてもびくともしない位に身體を鋼鐵化してをくのは、學生時代の任務である 」


  でも、今の若者は身體を鍛へません。ひたすら樂をしようとします。

  靴をスリッバーのやうに引きずつて歩くのは、脚を持ち上げる勞を惜しんでゐるのです。

  電車の座席で大股を擴げてゐるのは、脚を揃へる努力を怠つてゐるのです。

  若いのに階段を使はず、エスカレーターを使ふのは、努めて樂をしたいためです。


  若い時の蓄積が如何に將來を支へるかに思ひ及ばないのでせう。

  淺はかであります。


  青木さんは、河合榮治郎について立派な本を書きました。

  前途ある若者に是否読んで慾しいと願ひます。

( 平成24.9.3記)