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戰後日本人を幼稚化したもの
伊原註:8月15日の停戰記念日に因み、日本語の改惡の問題點について書いて置かうと考へ、
8月16日に執筆した文章です。
「 讀書室 」 掲載に當り、少し増補しました。
敗戰後の日本人は、戰前に較べて隨分幼稚化しました。
その要因は幾つもあります。
( 1 ) 大人と子供の區別がなくなり、幼稚から脱却せぬ儘 年齢だけ重ねる人が殖えたとか、
伊原註:大人とは、自分の行爲に責任を持つ人の筈ですが、
今や、要職に在つて給與だけ貪り、責任は取らぬ
背任横領の徒がやたら殖えました。
世の人も、責任を問はなくなりましたねえ。
奇怪至極です。
( 2 ) 「 世界は二人のために 」 だけを見て 「 二人は世界のために 」 を無視する
「 やらずぶつたくり 」 態度の蔓延とか。
( 3 ) 人生經驗不足の若者が結婚して一家を構へ、祖父母が孫に人生の智慧を授ける機會を喪ひ、
未熟者が氾濫したとか。
( 4 ) 邪魔臭がりがやたら殖えて、嚴しく精進する人が少くなつたとか……。
伊原註: 「 我に七難八苦を與へ給へ 」 と月に祈つた山中鹿之介が懷しいです。
私は、人生は死ぬまで努力奮鬪すべきものと心得てゐるのですが。
少くとも河合學派の人は河合榮治郎先生を初め、皆さんさうでした。
祖父母は家庭内に於る世間の目であり、他人の目であります。
( 祖父母のゐない ) 核家族は、社會から隔絶した密室です。
ここで育つ子供は、社會性が育ちにくいのです。
況 ( ま ) してその子供に個室を與へ、機器に相手をさせれば、
益々社會性は育ちにくくなります。
言葉の幼稚化が根本原因
其他 剰多ある原因のうち、本稿では國語の問題點について述べたいと思ひます。
漢字が子供に負擔になるといふ見解が、大人の偏見に過ぎぬことは、
幼兒に漢字を教へて實績を擧げた石井勲先生の著書に明かです。
伊原註:私が持つてゐる石井先生の著書は下記の二册です。
『 漢字の神話 』 ( 宮川書房、昭和42.12.15 ) 320圓
『 漢字興國論:IQを高める漢字教育 』 ( 日本教文社、平成4.5.25 ) 1600圓
奥附の著者紹介によれば、ほかにも多くの著書があります。
『 石井勲の漢字教室 全9巻 』 ( 双柿舎 )
『 石井式漢字教育革命 』 ( グリーンアロー出版社 )
『 日本語の再發見 』 ( 日本教文社 )
『 幼兒はみんな天才 』 ( 日本教文社 ) 其他
石井先生によると、複雜な漢字ほど、子供には見分け易いのださうです。
曲線を多用する平假名は、子供には識別し難い。
角張つた片假名の方がまだしも見分け易い。
それなのに、一番識別し難い平假名から教へて、片假名は教へない。
漢字も劃數の尠いものから教へて劃數の多いものは假名書きにする。
假名が先行すると、好い加減な當字が殖える、
漢字から先に教へるのが宜しい、と。
「 漢字先習論 」 であります。
石井先生また曰く、 「 學校 」 を世間では假名書きしたりしない。
( 『 漢字興國論 』 12頁 )
それなら子供にも初めから漢字で教へよ。
必要なら振假名をつければ濟む、と。
小學校低學年では朗讀が先、書くのは後回しで宜しい。
子供の頭は柔軟だから、どんどん讀めるやうになる、これが大事だ、と。
今の小學校では、石井先生の教への逆を行つてゐます。
だから大學生の國語力が低調なのです。
伊原註: 『 漢字興國論:IQを高める漢字教育 』 の初めの方の小見出しを拾つてをきます。
漢字は假名より覺え易い
初めから漢字で教へて見た
書ける漢字を作文でなぜ使はない ( 假名を先に習ふから )
大きな間違ひ ( 假名を先習するから後で習ふ漢字を使はない )
假名先習の諸弊害
最初から漢字表記で學習させよ
幼兒の有つ驚異的な能力
漢字を覺える能力は年毎に低下する
漢字は書けなくても讀めれば好い
( 以下略 )
漢字制限で頭空つぽ
戰後の現代假名遣・略字・漢字制限は、
戰後育ちに戰前の書物を讀めなくする米占領軍の 「 日本弱體化政策 」 の一環ですが、
極めて不合理なものですから、 「 獨立後 」 直ぐ改めるべきでした。
今や使ひ續けて半世紀以上經ち、すつかり定着したので、今更元に戻せとは言ひませんが、
後述するやうに、漢文と古文の學習を取入れるべきであります。
基礎知識があれば、あとは自習できますし、
文字や假名遣は慣れが一番ですから、慣れれば戰前の書物もすらすら讀めるやうになります。
現代假名遣の不合理の一つは、破裂音 「 ぢづ 」 を摩擦音 「 じず 」 で表記する點です。
國語では壓倒的に破裂音が多いのに、摩擦音だけで表記させるのは理不盡極まります。
略字は使つて宜しいが、正字も知つてゐた方がよいです。
例へば、 「 學 」 は子供が座机の上で書物を兩手で持つて朗誦する姿の象形文字です。
これが判れば左と右の筆順の差 ( 親指→小指→腕の順に書く ) がよく判ります。
略字の 「 学 」 では何も判りません。
戰後の國語劣化で最大の問題は、語彙が激減したことです。
語彙が尠 ( すくな ) いと、思考が薄つぺらになります。
この點、ハングル一邊倒で漢字を追放した韓國は、日本より危いですね。
この方式は、 「 全文假名書文 」 に相當します。
漢字を假名書きすると、同音異字が區別できず、複雑な内容が表しにくくなります。
速讀も無理となります。
だから韓國人の頭は、漢字を殘した日本人以上に粗雑になつてゐる筈です。
日本は幸ひ漢字を殘しました。
ですが略字にし、使用字數を制限したため、
語彙が激減して頭、特に知識人の頭が粗雜になりました。
論より證據、實例を見れば、問題點がたちどころに判明します。
漢文と古文が國語に必須
江戸時代の我が祖先は、識字率が世界に冠たる高さに達してゐました。
支配層は四書五經を學び、庶民の一部もそれを學んだからです。
多くの庶民は繪入りの 「 讀本 」 ( よみほん ) を讀むため寺子屋に通ひました。
明治になつて言文一致の現代日本語を創造しましたが、
これは漢文讀下し文 ( 片假名使用 ) と和文 ( 平假名使用 ) の組合せです。
從つて國語を習得するには、漢文と古文の素養が必須なのであります。
現代語中心の國語教育は、話し言葉中心の輕佻浮薄な言語に傾くのです。
語彙が激減した話に戻しませう。
戰前の文章を二つ、以下に示します。
皆さん、讀めますか?
伊原註: 「 讀む 」 とは、讀みあげること、聲に出して朗誦することです。
「 黙讀 」 は 「 黙つて朗誦する 」 といふ不可能事を意味します。
つまり、 「 讀 」 といふ文字の誤用です。
「 黙讀 」 は、昔の人は 「 書見 」 ( 本を見る、眺める ) と言ひました。
先づ、五一五事件の首謀者の一人、
三上卓 ( みかみ たかし ) 海軍中尉が作詞した
「 青年日本の歌 」 ( 「 昭和維新の歌 」 ) に曰く、
一、汨羅の淵に浪騷ぎ 巫山の雲は亂れ飛ぶ
混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く
二、權門上に驕れども 國を憂ふる誠なし
財閥富を誇れども 社稷を念ふ心なし
三、あゝ人榮え國亡ぶ 盲ひたる民世に踊る
治亂興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり
四、昭和維新の春の空 正義に結ぶ益良夫が
胸裡百萬兵足りて 散るや萬朶の櫻花
五、古びしむくろ乘越えて 雲飄搖の身は一つ
國を憂へて起つ時に 大丈夫の歌ならかめや
六、天の怒りか地の聲か そも只ならぬ響きあり
民永劫の眠りより 醒めよ日本の朝ぼらけ
七、見よ九天の雲は垂れ 四海の水は雄叫びて
革新の機到りぬと 吹くや日本の夕嵐
八、あゝうらぶれし天地の 迷ひの道を人は行く
榮華を誇る塵の世に 誰が高樓の眺めぞや
九、功名何か夢の跡 消えざるものはただ誠
人生意氣に感じては 成否を誰か論らふ
十、やめよ離騷の一悲曲 悲歌慷慨の日は去りぬ
我等が劍今こそは 廓清の血に踊るかな
次に、原文を野中四郎大尉が執筆し、村中孝次元大尉が加筆した
二二六事件の 「 蹶起趣意書 」 に曰く、
謹ンテ惟ルニ我神洲タル所以ハ、萬世一神タル天皇陛下御統帥ノ下ニ、
擧國一體生成化育ヲ遂ケ、終ニ八紘一宇ヲ完フスルノ國體ニ存ス。
此ノ國體ノ尊嚴秀絶ハ天祖肇國神武建國ヨリ明治維新ヲ經テ益々體制ヲ整ヘ、
今ヤ方ニ萬方ニ向ツテ開顯進展ヲ遂クヘキノ秋ナリ
然ルニ頃來遂ニ不逞兇惡ノ徒簇出シテ、私心我慾ヲ恣ニシ、至尊絶對ノ尊嚴ヲ藐視シ
僭上之レ働キ、萬民ノ生成化育ヲ阻碍シテ塗炭ノ痛苦ニ呻吟セシメ、
從ツテ外侮外患日ヲ逐フテ激化ス
所謂元老重臣軍閥官僚政黨等ハ此ノ國體破壞ノ元兇ナリ、
倫敦海軍條約並ニ教育總監更迭ニ於ケル統帥權干犯、
至尊兵馬大權ノ僭窃ヲ圖リタル三月事件
或ハ學匪共匪大逆教團等利害相結テ陰謀至ラサルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、
其ノ滔天ノ罪惡ハ流血憤怒眞ニ譬ヘ難キ所ナリ。
中岡、佐郷屋、血盟團ノ先驅捨身、五・一五事件ノ噴騰、相澤中佐ノ閃發トナル、
寔ニ故ナキニ非ス
而モ幾度カ頸血ヲ濺キ來ツテ今尚些カモ懺悔反省ナク、
然モ依然トシテ私權自慾ニ居ツテ苟且偸安ヲ事トセリ。
露支英米トノ間一觸即發シテ祖宗遺埀ノ此ノ神洲ヲ一擲破滅ニ堕ラシムルハ
火ヲ賭ルヨリモ明カナリ
内外眞ニ重大危急、今ニシテ國體破壞ノ不義不臣ヲ誅戮シテ、
稜威ヲ遮リ御維新ヲ阻止シ來レル奸賊ヲ芟除スルニ非スンハ皇謨ヲ一空セン。
恰モ第一師團出動ノ大命煥發セラレ、
年來御維新翼贊ヲ誓ヒ殉國捨身ノ奉公ヲ期シ來リシ帝都衛戍ノ我等同志ハ、
將ニ萬里征途ニ上ラントシテ而モ顧ミテ國内ノ亡状ニ憂心轉禁ズル能ハズ。
君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼ノ中樞ヲ粉碎スルハ我等ノ任トシテ能ク爲スヘシ。
臣子タリ股肱タルノ絶對道ヲ今ニシテ盡ササレハ破滅沈淪ヲ翻スニ由ナシ
茲ニ同憂同志機ヲ一ニシテ蹶起シ、奸賊ヲ誅滅シテ大義ヲ正シ、
國體ノ擁護開顯ニ肝腦ヲ竭シ、以テ神洲赤子ノ微衷ヲ獻セントス
皇祖皇宗ノ神靈冀クハ照覧冥助ヲ埀レ給ハンコトヲ
昭和十一年二月二十六日
海兵 ( 海軍兵學校 ) ・陸士 ( 陸軍士官學校 ) とも
舊制中學校の上の段階である高等專門學校レベルですが、
その卒業生は、これだけの文章が書けました。
この短い引用でも、戰後使はなくなつた語彙がどれだけあることか。
語彙が減つた分、頭の中が簡素化・單純化・幼稚化してゐるのです。
追 記:
テレビも考へる暇を與へない 「 頭を空つぽにする道具 」 でありますが、
そのことは別に書くことにします。
テレビをよく觀る人は、即答する人が 「 頭の良い人 」 と思ふやうですが、
獨創的な人ほど 「 じつくり考へる 」 のであつて、
即答する人は、單なる 「 頭の回轉の速い人 」 に過ぎません。
( 世に言ふ 「 秀才 」 に、即答型が多い )
更に、ウォークマンの類も、貴重な 「 考へる時間 」 を奪ふので、
テレビと同じく 「 頭を空つぽにする道具 」 です。
讀書が良いのは、ものを考へさすからです。
讀書せぬ人の考へは淺いのです。
序に言つてをけば、
最近の歌がリズムに乘せて文句を流すだけで
メロディーが殆ど無いのは、私には原始への退行と見えます。
リズムは原始的感覺的、メロディーは理性的で高尚です。
直觀 ( 理性・知性の働き、洞察力 ) を直感 ( 感性 ) と書く人が殖えたのも、
知性の退行です。
知的怠惰の横行です。
輕佻浮薄の氾濫です。