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個 人 主 義 の 陷 穽
これは、『關西師友』八月號,8-9頁に載せた 「 世界の話題 」 (272) の増補版です。
個人主義の行き着く先は孤立分散
前號で、戰後の日本社會の孤立分散に觸れました。
今回は、それと關連する個人主義について考へます。
人は集團で生活しますから、個より集團を大事にするのは、洋の東西を問ひません。
ですが世の中が發展するに連れ、個が重んぜられるやうになります。
その走りは、カトリック教會を無用視して信者を神と直結した ルターの福音主義でせう。
以後、獨立生産者の出現や國民國家の形成を通じて、近代個人主義が確立します。
この西歐個人主義を我國に導入したのが、明治政府による民法典の制定です。
フランス人の法律顧問 ボアソナード Boissonade に起草を依頼したため、
ナポレオン法典に則(のつと)つた個人主義民法が原型になりました。
ここから論爭が起き、我國の傳統的立場である大家族主義の立場からする
穗積八束の 「 民法出デテ忠孝亡ブ 」 論まで出來(しゅったい)する騷ぎになりました。
結局、この 「 舊民法 」 は施行を延期され、
長子相續により家の存續を認めて個人主義と家共同體が兩立する 「 新民法 」 が成立し、
敗戰までは個人主義が家を解體する事態は起きませんでした。
敗戰と米軍の占領でこの事態が變ります。
結婚が家でなく當事者個人の行爲となり、均分相續によつて家が解體に向ひます。
親の老後を子が見とらず、先祖代々の墓を誰も世話せぬ状況となります。
家解體、故郷消滅、都會生れ都會育ちの 「 根無し草 」 人口の激増。
氣樂な都會のアパート住まひで 「 隣は何をする人ぞ 」 、
近所附合ひお斷り、といふ生き方です。
かくて、近代個人主義といふ光榮ある立場が家共同體を亡ぼし、
個人をばらばらの孤立分散状態に追込みました。
今や大都會住まひの日本の若い層は、世界で一番孤立無援な存在ではないでせうか?
個は全との關係に於て存立する
「 個と全 」 に似た言葉に 「 公と私 」 があります。
公 (こう、おおやけ) とは共存するみんな、
私 (わたくし) は自分獨りですから、社會生活で私は抑へねばなりません。
私がのさばると他人の領域を侵し、近所迷惑となります。
個と全といふ場合、個は全の構成要素であり、全は個の總體です。
個を無視しては全體は成立たず、全體を無視しては個は存立できません。
持ちつ持たれつの相關關係です。
自由の主張を考へると、個と全の關係が判り易い。
他人の自由を犯さぬ範圍内で自分の自由が主張できるのです。
即ち、他と共存してゐるからこそ、自由の主張が出て來ます。
他人がゐなければ、自由の主張は無意味です。
要するに個人主義の主張は、全體との調和・緊張・奉仕の状態に於る個人の存立容認なのです。
もう一つ、
私は 「 自分だけ 」 の存立ですが、個は全の一部として 「 普遍性 」 を秘めてゐます。
だから個性の伸長が尊ばれるのです。
他人を押し退(の)けるやうなものは個性ではありません。
個は全と、權利は義務と一組で存立する。
かういふ常識が躾(しつ)けられなかつた我國の戰後デモクラシーは、
私がのさばり、利己主義が蔓延 (まんえん) しました。
“お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの”
“世界は二人のために”だけ認めて“二人は世界のために”は無視する“やらずぼつたくり”の横行。
戰前の“滅私奉公”が戰後は“滅公奉私”に轉化した、と言はれる所以です。
母親が我子を邪魔者扱ひする時代。
私がのさばると、かうなります。
家庭を共同體、老ひも若きも“共存共榮”する和氣藹々たる團欒の場に戻さないと、
せつかく地上の樂園を實現した日本も、やがて現世の地獄になります。
日本語は、相手に對する配慮に滿ち滿ちてゐる言葉、その特徴は敬語に典型的に見られます。
伊原註:英語の yes, no は 續く文章が否定か肯定かを反映するだけで、相手の意向とは無關係です。
(それでも yes man といふ表現あり)
日本語の 「 はい 」 は 「 さうです、貴方の仰る通り 」
「 いいえ 」 は 「 いや、貴方のお考へとは違つて 」
の意味合ひを持ちます。
だから日本語で 「 はい、はい 」 といふのは、傾聽してゐますよといふ意味合ひと共に、
話し相手の言ひ分を受け入れる意味合ひを含みます。
ですから逆に、 「 いいえ 」 は、相手の思惑を否定する言葉ですから、
相手との協調を圖りたい日本人には、言ひにくい言葉です。
目上には敬語を使ふ。同輩・目下には敬語は使はない。
しかしこれとは別に丁寧語もある。
この使ひ分けが疎(おろそ)かになつてゐる現状が、日本社會の問題點を如實に知らせてゐます。
伊原註:大學の運動部では、先輩後輩の間で嚴然と敬語が使はれてゐます。
人間關係がしつかりしてゐる處では、敬語が生きてゐるのです。
2012.7.2/8.10補筆)