中國近代化の難題:帝國と國民國家の交錯-伊原教授の読書室

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  中國近代化の難題:帝國と國民國家の交錯




伊原註:私の屬する神戸社會人大學は毎年、關西日中關係學會と協力して、兵庫縣が主催する

         「 ひょうご講座 」 で 「 日中關係講座 」 (10回連續講座 ) を開いてゐます。

        昨年は、 『 中國の近代化 』 をテーマに開きました。

        私はその第六回 ( 平成23年10月11日 ) に、上記の題目で講義しました。

        それが幸ひ本になつて出版されました。


        關西日中關係學會・神戸社會人大學編

             『 中國の近代化 』 (櫻美林大學北東アジア綜合研究所、2012.8.1 )

              1600圓+税


        目  次:

          まへがき
櫻美林大學北東アジア綜合研究所所長  川西重忠

          第I部  中國近代化の基本問題

            第1章  躍進する中國の光と影
神戸大學名譽教授・神戸社會人大學學長  野尻武敏

            第2章  王力雄の 「 遞進民主制 」 と中國民主化

                    ── 『 私の西域、君の東トルキスタン 』 と 「 チベット獨立への ロードマップ 」 に關連させて

作家・現代中國文學者  劉燕子

            第3章  中國の近代化と市民社會の擡頭
ルポライター  麻生晴一郎

            第4章  辛亥革命と日本
神戸大學名譽教授・關西日中關係學會長  安井三吉

            第5章  中國近代化の難題:帝國と國民國家の交錯
帝塚山大學名譽教授  伊原吉之助

            第6章  中國の近代化と神戸── 『 東亞報 』 を中心に
武庫川女子大學非常勤講師  蔣海波

          第II部  中國の經營・經濟・社會

            第1章  生産據點から市場參入へ

                    ──貿易と現地法人の賣上動向からみた日本企業の對中國ビジネス──

甲南大學經營學部教授  杉田俊明

            第2章  中國メディアの實態と日中のメディア比較

フリージャーナリスト・元産經新聞中國總局記者  福島香織

            第3章   「 アラブの春 」 の中國・ロシアへの波及はあるか

京都大學大學院經濟學研究科・經濟學部名譽フェロー  大森經コ

            第4章  最新上海學生事情

                    ──輝ける 「 J 」 ポップカルチャー と翳りゆく 「 日本 」 ──

中國同濟大學外國語學院特別招聘副教授  木村陽子

            第5章  ドイツ、ロシアに於る北東アジア地域への新たな視線

                    ──在外研究1年間の歸國報告に代へて
櫻美林大學教授  川西重忠

            第6章  GDP世界2位となった經濟大國中國の實態
大阪商業大學教授  安室憲一


     「 ひょうご講座 」 に參加した下記お二人は、本書に不參加です。

            嚴善平 「 中國近代化に於る農村部の實態 」

            王  柯 「 中國の近代化と民族問題 」


    そして、下記四人の方が執筆參加です。

            福島香織・大森經コ・木村陽子・川西重忠


    扨 ( さ ) て、以下に私の擔當部分を増補して掲載します。

    本書執筆は頁數が極く限られてゐたので、全面的な文章化は斷念し、

    部分的に講義レジュメの簡略表現を利用しました。

    それを、多少補足しつつ、できるだけ文章化します。


    なほ、書物収録の文章では 「 現代假名遣ひ 」 を使ひつつ、

    漢字は全部、格調の高い 「 本字 」 を使ひました ( 略字はだらしないのです ) 。

    この 「 讀書室 」 掲載文では、假名遣ひも本來の 「 歴史的假名遣ひ 」 に戻します。




I.西力東漸 Western Impact の正體:

  西力東漸とは、 「 近代國民國家形成壓力 」 の到來を言ふ。


  今回の講座 「 中國近代化の基本問題 」 では、 「 近代化とは何か 」 が根幹の問題です。


  普通、中國の近代化は阿片戰爭に始ると言はれますが、

  阿片戰爭は、清朝にとつては新夷狄の襲來に過ぎず、何ら衝撃は受けてをりません。

  だからその後、義和團事件に至るまで、清朝は 「 夷狄懲罰 」 を繰返したのです。


  清朝が 「 體制への衝撃 」 を感ずるのは、日清戰爭敗戰と義和團戰爭の敗北でした。

  夷狄の眞似をした日本に敗れたことと、夷狄に絶對勝てぬと判つたこと。


  清朝が體制への衝撃を感じた證據に、

  日清戰爭後に 「 戊戌の變法 」 を、

  義和團事件後に新政(憲法發布・議會設置による立憲君主國化)といふ

   「 體制改革 」 を、發起してゐます。


  ではこの 「 衝撃 」 の正體は何か?

  それは 「 近代國家 」 を形成するかしないかを迫る壓力でした。


  世界最富裕國だった清朝:


  江南を開拓して食糧及び輕工業を發展させた南宋以降の歴代王朝(元・明・清)は、

  世界で最も富裕な國でした。


  特に清朝の18世紀は、英國使節マカートニー ( 1833-1906 ) に對する

  乾隆帝 ( 1711生れ/在位 1736-1795/1799歿 ) の言葉


       「 天朝は物産豐富にして無いものは無い 」


の通り 「 地大物博 」 でした。


  だからこそ、貧しかつた西洋諸國が、

  インドを含む 「 東洋の富 」 を求めて、大航海に乘出したのです。


  この貧富の關係が逆轉するのが、19世紀です。


  農業大帝國に留つてゐた清朝に對し、

  西洋諸國は、歐洲−アフリカ−西インドを結ぶ 「 大西洋三角貿易 」 と、

  歐洲−東インド−中國を結ぶ 「 東洋三角貿易 」 を組合せて生活革命を實現し、

  更に科學革命と生産革命(産業革命)を經て、

  史上初の強力且つ高能率・高密度な 「 富國強兵 」 の近代國家を生み出し、

  この近代國家の力を以てして、東洋に開國壓力・貿易壓力をかけたのが

  中國に對する阿片戰爭であり、日本に對するペリーの來寇でした。


  近代國民國家は、中産階級を中核にした強固な結集體です。

  史上、どの國にも況して 「 強國 」 でした。

  そして、機械による大量生産を組込んだため、製品は忽ち供給過剰となり、

  賣込先の 「 販賣市場 」 を探さねばならなくなります。


  この近代國家の賣込壓力に對抗するには、自國も近代國家を形成せねばなりません。

  そして、農業時代の巨大版圖の儘では、機能的・合目的的な近代國家は形成できません。


  對應を異にした日本と中國:


  日本の指導者は逸早く天下の形勢を察知して、

  討幕により舊政權を倒して新政權による近代國家建設 nation-building をやります。


  指導層が舊習を墨守して農業大帝國に留まつた清朝は、

  義和團事件まで 「 夷狄懲罰戰爭 」 を繰返して近代國家に連戰連敗を喫します。


  そして中國は、その後──

      新政に乘出した清朝も、

      清朝を倒した中華民國も、

      中華民國を倒した中華人民共和國も、

  農業大帝國の版圖といふ 「 重荷 」 をその儘 受繼いだため、

  過大・雜多のまま、國民國家を形成できずに、現在に至つてゐるのです。


  伊原追記 : 近代化に對する日中兩國の對應の違ひは、 西太后と井伊直弼の對比にも見られます。

             共に末期の政權を創立時の元氣恢復に戻さうと試みますが、

             日本では井伊直弼が殺されて體制崩壞に到ります。

             中國では西太后が改革派を潰して一旦舊體制に戻します。

             日本は保守派が弱く、 中國は保守派が強いのです。


  では、問題の核心 「 近代國民國家 」 modern nation state とは何者でせうか?



II.壓力の根源:近代國民國家の形成と展開


  近代國民國家は、西歐で ナポレオン戰爭後の19世紀に展開しました。

  それまで 「 前史 」 がたつぷりあります。


(1)國民國家:一民族・一言語・一政府(中央集權)・一國民+國境劃定


  上記の國民國家の定義は、マックス・ウェーバーのいふ 「 理念型 」 でありまして、

  現實は、こんなにすつきりとは割切れません。

  國民國家が 「 想像の共同體 」 ( ベネディクト・アンダーソン ) と言はれる所以(ゆゑん)です。


      註 : ベネディクト・アンダーソン は 『 想像の共同體 』 といふ著書を書いてゐます。

           邦譯は リブロポート から出てゐます。最近、新譯が出ました。


  しかし一つの中央政府が全國を統治して法の前の平等 ( 基本的人權 ) を確保する點では、

   「 國民共同體 」  は決して假想のものではありません。


  中國にとつて最大の問題點は、 「 一民族・一言語 」 にあります。

  農業大帝國の大版圖を受繼いだため、中華民國も中華人民共和國も

  “過大・雜多な人民" を 「 國民共同體 」 に轉化できず、

  從つて 「 國民國家 」 を形成できず、

  民意の吸収がうまく行かぬ儘、強權統治・專制支配といふ 「 上からの押附け 」 に終始します。


   「 漢族 」 の日常言語がどれほど違ふかは、改めて指摘するまでもないでせう。


  浙江辯の蔣介石の演説は、あとで印刷して配つて初めて

   「 さつきはこんなことを喋つてゐたのか 」

と判つたさうです。

  中國の地方辯の差は、日本の東北辯と薩摩辯の違ひどころではないのです。

  華僑が海外で 「 郷黨 」 で固まるのは、言葉が通ずるグループだからです。


  所で話變つて──

  中國の人口は、有史以來、明朝まで、數千萬止まりです。

  清朝になつて初めて億を越え、19世紀には 「 支那四億 ( しおく ) の民 」 と言はれました。


  これが一國として纏つて來られたのは、

  漢帝國以來實施し、宋以降に強化整備された 「 科擧 」 といふ官吏登用試驗のお蔭です。

  支配者側は、筆談により 「 一言語 」 を擬似的に實現したのです。

  音聲ではばらばらだが、

  字を書けば意思疏通できるといふ“漢字共同體" で廣大な國土を統合したのです。


  伊原註 : もう一つ、 官僚用語として  「 北京官話 」  を人工的に作りました。

           これは、エスペラント以上の人工語です。

           大體、 科擧以來、 中國語とは  「 先づ文字ありき 」  で、 文字を組合せて文章にします。

           北京語とは、 文字を讀上げる人工言語であつて、

           先づ音聲があつて後で書留める自然言語ではありません。


  西洋で近代に生れた國民國家は、中産階級國家です。


   「 働かざる者 喰ふべからず 」 といふ旺盛な自助獨立の精神と、

  新規開拓に乘出す進取の氣性が、中産階級の目立つた特徴です。

   「 自由・平等・友愛 」 や、 「 法の前の平等 」 が中産階級の特徴を端的に示してをります。

  等質の中産階級の共同體が 「 國民 」 の實體なのです。


  中國は有史以來、治める側と治められる側が不平等の儘、現在に至つてをります。

  擬似的も何も、 凡 ( およ ) そ 「 等質 」 からは程遠いのです。


  そして法や規則は、御上が下々を縛るため出すもので、出した御上は、それに縛られません。

  出した法の解釋や適用は御上がするもので、下々に文句をいふ權利はないのです。

  この 「 法 」 の恣意的適用こそ、 「 無法 」 の根源です。


  無法の好例が 「 中華人民共和國憲法 」 です。

  思想・言論の自由を謳つてゐますが、實施されてゐません。

  あれは“畫餅" そのものです。


  科擧官僚が學んだ四書五經同樣、 法律も飾りであつて、 實效を伴はぬ存在なのです。

       ( 但し、他人を抑へるのに役立つ場合には使ひます )

       ( この“恣意的適用" こそ、中華思想のお得意です )

  規制は他人には適用するが、出した自分には適用しないといふ適例が、毛澤東の出した

   「 八項注意三大紀律 」 です。あれは他人を縛るため出したもので、毛澤東自身は、全然

  守りませんでした。


  傳統的な俚言に、

   「 お上は放火しても罪に問はれぬが、下々は灯火を灯しても罰せられる 」

とあります。

  權力を握る側と、權力を適用される側とが如何に隔絶してゐるかを示した言葉です。


  ノーベル平和賞を授かつた劉曉波が獄中にあり、妻の劉霞が自宅軟禁といふ事態一つ見ても、

  中國に 「 法の前の平等 」 も 「 基本的人權 」 もないことが判ります。


  國民形成 nation-building には、以下の二つの特徴づけができます。

  構造上の三局面:

      政治 ( 上からの指導統合 )

      社會 ( 獨立自尊の中産階級の成熟 )

      經濟 ( 産業革命による經濟構造の高度化 ) と、


  時系列からする三段階:

     「 初期統一段階 」  ( ともかく纏める )

     「 工業化推進段階 」  ( 生産の高能率化 )

     「 國民福祉段階 」  ( 國民國家の成熟 )


(2)歴史的展開:


  國民形成の第一波=先發近代國家群:


  蘭 ( 忠誠廢棄宣言 ) → 英 ( 議會に於る王 ) → 米 ( 共和國新設 ) → 佛 ( 王政を倒して共和制へ )


   「 法の前に平等 」 な 「 國民 」 を形成するには、時間がかかります。

  普通選擧 universal suffrage が實現するまでには、たつぷり時間がかかるからです。


  以下に、實例を二つ擧げましょう。


  第一の例は、英國です。

  英國が近代國家形成を始めるのが ピューリタン革命 ( 1642-60 ) です。

  その後、名譽革命 ( 1688 ) を經て、

  更に王樣が オランダ から ドイツ に變り、

  ハノーヴァー王朝 ( 1714-1901, これ以降 ウィンザー家 と改稱 ) 、

  選擧法改正 ( 1832年以降に3回 ) と來て、

  1918年の國民代表法で やつと男女普通選擧が實施されます。


  第二の例は、我が日本です。

  先づ、江戸時代に藩政改革の經驗を蓄積して、

  國家經營の基本を學び取ります ( 官僚+經濟發展+自治 ) 。


  次いで明治維新 ( 1868 ) をやつて舊體制を新體制に變へ、

  1878年の西南戰爭で内亂克服の仕上げをし、

  財政改革 ( 1881-86 ) → 憲法制定・議會開設へと進みます。


  日清・日露戰爭で安全保障を確立し ( つまり獨立維持の見通しを立て ) 、

  更に薩長藩閥政治から政黨政治へと、 民意汲上げの仕組みを向上させます。


  そして滿25歳以上の男子に關して普通選擧を實施するのが 1925年です。

  婦人參政權を含む普通選擧を實施するのは、

  敗戰の年、1945年の衆議院選擧法改正によつてです。


(3)國民形成の第二波:


  ナポレオン戰爭後、歐洲各國に國民國家形成競爭が起きます。


  後發近代國家群=普露墺伊日獨米


  米國が、先發國民國家に入りながら、ここで 「 後發國民國家 」 にも入つてゐるのは、

  物凄く急激な領土擴張があり、

  南北戰爭といふ國家分裂の危機を克服した大内亂があつて、

  列強に並ぶのが19世紀末 ( 1898年の米西戰爭+1899年ヘイ國務長官の門戸開放覺書 ) と

  出遲れたためです。


  伊原註 : 米國が列強に並ぶのは、 1898年の米西戰爭以降です。


  佐伯彰一さんが、 「 後發近代國家日米の並行現象 」 といふ興味深い指摘をしてゐるので、

  簡單に紹介してをきませう。


  佐伯彰一 「 明治維新と南北戰爭──比較史の面白さ 」

     ( 『 外から見た近代日本 』 講談社學術文庫、昭和59.7.10 所収 )


  建國のあと、 内亂が起きます。

  米國は南北戰爭 ( 1861-1865 ) 、 日本は戊辰戰爭 ( 1868-1869 ) です。

  共に 「 分裂の危機を孕んだ國内戰爭 」 です。


   「 勝てば官軍 」  の 「 北部 」 及び 「 薩長 」 の 奢りと、

  敗者 「 南部 」 ・ 「 東北諸藩 」 の虐遇が並行します。

  勝者 「 薩長政權 」 は、幕府側の開國努力も功績も評價しません。


  以後、 日本は薩長政權・米國は北部政權の下で工業化・都市化が進みました。


  そして 「 日清・日露戰爭 」 と 「 米西戰爭 」 を契機とする建艦競爭により、

  太平洋に於る日米の競爭が生じ、日米衝突を齎 ( もたら ) します。


  第二次大戰後、日米同盟で軍事同盟を結んで現在に到ります。

  佐伯説の興味深い點は、フォークナーの訪日講演を紹介して、

  北軍による南部の敗戰處理と、米軍による敗北日本の處理が酷似してゐると指摘した點です。

  私達はこの觀點から改めて南北戰爭を讀直す必要がありさうです。


  伊原註 : 第二次大戰後の日米關係は平等ではありません。

           敗戰時の占領體制が繼續してゐる状態にあります。

           第二次大戰後の日米關係については、 下記が必讀です。

           孫崎 亨 『 戰後史の正體 1945-2012 』  ( 創元社、2012.8.10 )   1500圓+税



(4)國民形成の第三波:


  第二次大戰後の新興國勃興:

  cf. 國聯加盟國 50ヶ國 → 200ヶ國

   ( 大半が國民形成以前の國、つまり 「 國民國家 」 でない状態の儘、 「 獨立 」 状態を保つてゐる )

   ( 皆さん、まともな國民國家は希少または例外であることに御注意あれ! )



III.近代國家形成壓力に對する中國の對應:


  以上のやうな近代國家形成競爭の波の中に於る中國の對應は、

  一言でいふと、 「 中華思想の挫折と復活 」 です。


  中華思想とは、 「 天下に中心は一つ 」  「 お山の大將俺一人 」 といふ自己中心の發想であり、

   「 惡いのは皆他人 」 といふ獨善的な考へ方です。

  だから、いふことを聽かぬ夷狄には懲罰を加へるのです。

  強い夷狄には屈服し、金品まで提供しますが、文化的には自分の方が上と信じてやみません。

  中華思想は上下關係の發想ですから、中華思想の下に 「 平等思想 」 は存在しません。

  例へば 「 日中友好 」 とは、日本が中國に奉仕することであつて、友達になることではありません。


(1)清朝 ( 西太后 ) の對應:

  攘夷 ( 夷狄懲罰戰爭 ) → 清末の新政 ( 立憲君主制 ) へ → 辛亥革命で倒れる


  清朝は農業時代の大帝國です。從つてその版圖は巨大且つ雜多です。


  清朝の版圖は三つの部分から成ります。

      第一に、故地滿洲 ( 漢族立入禁止 )

      第二に、明の舊領 ( 戰前 「 支那本部 」 China proper と稱した地域 )

      第三に藩部 ( モンゴル・回〈新疆〉・チベット )

  この巨大さ・雜多さは、國民統合の一大障碍となります。


  皇帝專制の 「 人治 」  ( 法治の不在 ) は、國民不在 ( 自由平等人權の不在 ) を意味します。


(2)辛亥革命は近代國家形成の好機

  1911年に勃發し、翌年の清朝崩壞を招いた辛亥革命は、

  政治史的には袁世凱のクーデター、

  社會經濟史的には、明末清初以來二百數十年續く 「 郷治 」 ( 黄宗羲 ) といふ

  中國流地方自治の行着く先としての 「 各省獨立 」 による清朝の統治體制崩壞でした。


  そして、人口數千萬の各省こそ、

   「 國民形成 」 の基盤になり得る 「 近代國家 」 の母體だつたのです。


  しかし、西洋列強の中國分割支配 ( 瓜分 ) を恐れた袁世凱が清朝の版圖保持に固執したため、

  中華民國は過大雜多な領土を丸々抱へ込んだまま統治する羽目に陷ります。


  國民國家形成のための意識改革を目指した

  蔣介石の 「 新生活運動 」 が稔らなかつた最大の理由は、

   「 過大・雜多 」 な版圖と住民でした。

  この版圖・住民を抱へたままでは、國民共同體が 「 擬似的 」 にさへ成立しません。

  だから終始一貫、“統合" にエネルギーを吸ひ取られ、

  “國家建設" にまで手が回らなくなります。

   ( だから 「 ひとの褌利用 」 の成長に傾くのです )


(3)中華民國北京政權:

  清朝の過大・雜多な版圖をその儘繼承 ( 國民形成の一大障礙 ) した袁世凱

  → 軍閥濫立 ( 内亂状態・無政府状態 )

  → 南北對立 ( 北京政權・廣東國民黨政權 )


(4)中華民國南京政權 ( 中國國民黨政權 ) :

  北伐 ( 形式的全國統一 )

  → 安内攘外政策による十年建設 ( 幣制改革・新生活運動 )

  → 抗日戰爭

  五族共和 ( 漢族=紅・滿族=黄・蒙族=藍・回族=白・藏族=黒 の五色旗 )

  → 中華民族 ( 漢族への同化による民族統合 )


  五色旗 → 青天白日滿地紅旗 ( 中國國民黨一黨獨裁の旗 ) +中國國民黨の黨歌を“國歌" へ


  蔣介石が 1934.2.19 南昌行營で發動した新生活運動は、

  蔣介石の文化革命 ( nation-building ) でした。

  青年層に甚大な影響を與へ、 「 新支那 」 出現と騒がれましたが、

  過大・雜多な人々を一體化できず、專制支配體質を殘した儘、抗日戰爭に突入します。


  因みに、滿洲事變は關東軍が發起した戰爭ですが、

  支那事變は蔣介石が日本弱しと見て挑發・發起した戰爭です。


伊原註:この背後に、對獨宣戰布告した第一次大戰への復讐のため、

        蔣介石に對日戰爭發動をけしかけた

        ドイツ帝國陸軍による強力な蔣介石支援活動があります。


參考文獻:阿羅憲一 『 日中戰爭はドイツが仕組んだ 』 ( 小學館、2008.12.21 )   1500圓+税

           『 國際關係のなかの日中戰爭 』 ( 慶応義塾大學出版會、2011.7.30 )   5800圓+税

           『 ドイツ史と戰爭 「 軍次史 」 と 「 戰爭史 」 』 ( 彩流社、2011.11.15 )   3800圓+税


  白晝、陸軍省で起きた永田軍務局長斬殺事件や、二二六事件の叛亂を見て、

  日本陸軍は内部抗爭でばらばらと判斷しました。

  加へて綏遠事件 ( 百靈廟事件 ) で關東軍を破つたと思ひ込んだ。

  更に海軍軍縮條約から離脱した日本海軍は、建造能力豐かな米國海軍に敵し得ないと見た。

  そして、日本を輕視する蔣介石の背後に、

  日中を戰はせたい思惑を秘めたソ聯 ( コミンテルン ) と

  嫌日家 FDR の米國が控へて居ました。


  參考文獻:山岡貞次郎 『 支那事變──その秘められた史實 』 ( 原書房、昭和50.8.15 )

            拙稿 「 大東亞戰爭と支那事變 」

            ( 現代アジア研究會編 『 世紀末から見た大東亞戰爭 』 第一章)

           (プレジデント社、1991.12.18 )


  抗日戰爭を耐え抜いた國府政權は戰後、

  對ソ融和的な米國の民主黨政權に見放されて國共内戰に敗退し、台灣へ逃亡します。

  亡命政權であり、反蔣勢力を追出して蔣家獨裁政權 ( 軍閥そのもの ) となります。


  しかし東西冷戰の激化、特に朝鮮戰爭で米國の支援が復活し、

  台灣で生存し續けた上、蔣經國の歿後、民主化・多黨化して生き延びました。


  蔣政權が台灣で生き延びた最大の理由は、

  台灣が日本統治時期に近代國家の洗禮を受けて文明國化してゐたことが大きいです。

  台灣は、中華世界から切り離されることにより、國民形成が可能になつたのです。


(4)中共政權:

  中共政權は、大きく言つて二段階に分れます。

  毛澤東時代と、ケ小平時代です。


  近代國家形成といふ觀點から見ると、

  毛澤東時代は、外國權益の一掃・中國の威信の確立・強兵の諸點で“自立" の功績を擧げました。


  しかし、國民形成の點では、

  傳統的に統治者側と被治者側に二分されてきた國民を、更に三分しました。

  被治者を、都市住民と農村住民 ( 農奴 ) に二分したからです。

  この兩者には儼然たる差別があつて、

  とてもじやないが 「 近代國家 」 「 文明國家 」 とは言へません。


  ケ小平時代は、この三部分に分裂した國民構造を引繼ぎつつ、

  毛澤東時代の混亂から脱出するため、改革開放に方針を轉換しました。

  なりふり構はぬ 「 富國 」 策です。


  毛澤東が唱へた 「 自力更生 」 を止め、

  華僑資本・外國資本利用といふ 「 他人の褌利用 」 の經濟成長策です。

  汚職 ( 權力濫用による金儲け ) が蔓延り、強欲資本主義が罷り通つてゐます。


  國民形成の觀點からして注目に値するのが、中共政權下で進む 民族“淨化" の動きです。

  “漢族" による強引極まる 「 民族同化政策 」 です。


  滿族と内蒙古のモンゴル族は、母語が消滅中で、漢族化が完結しかけてをります。


  そして今、民族浄化が進行中なのは、チベット族とウイグル族です。

  漢語化・漢族化が進んで母語が消滅の危機に瀕してゐます。

  彼ら非漢族は、漢語世界に没入しないと喰つて行けないのです。


  言葉がなくなれば、民族も消滅するほかありません。

  そして、大多數の 「 漢族 」 なるものは、ごちや混ぜの寄せ集め集團に過ぎません。

  とても 「 一つの民族 」 ではないのです。


  19世紀以來、ヨーロッパを中心に進んで來た 「 國民形成 」 の動きが、

  ロシヤと中國でいびつな形をとつて進行し、

  經濟だけが突出してグローバル化してゐる、といふのが、世界の現状です。


( 平成24年 7月26日補筆 )