指導者は何故小粒化したか-伊原教授の読書室

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    指導者は何故小粒化したか


            『 産經 』 平成24.4.12 掲載 「 正論 」 ( 大阪版 13面/東京版 7面 ) の増補版。

                                  2012.3.29 執筆/4.14 補筆




  愛讀してゐた 「 幕末から學ぶ現在 」 の連載が終り、

  筆者の山内昌之さんが 「 連載を振り返つて 」 と題して

  「 偉人は何故生れるのか 」 を掲載された ( 3月20日付 ) 。

  その冒頭に設問がある。


    「 幕末維新の時には人材が輩出して良きリーダーが日本を指導したのに、

    「 現在の日本は何故に指導者に惠まれないのか 」


  そして自身は答へず、 「 偉人出現の條件 」 の論議に話を移して居られる。



  この問は、私がかねがね考へて來た所である。

  そこでこの答を書く。


  答は簡單明瞭、次の通り──


  幕末に指導的人材が輩出したのは、江戸時代に積極的に育てたからである。

  其後人材が拂底したのは、明治以降、指導者を育てなかつたからである。


            江戸期の王道政治學習


  江戸時代に各藩は、財政が破綻するよう仕組まれてゐた。

  お國許 ( くにもと ) のほかに江戸藩邸や參勤交代があり、

  商業・輕工業が發達して、米一邊倒の藩財政が取殘された。


  各藩は差當りは借金、儉約、貢納の強化で凌ぐが、どれも殖え續ける支出を賄へない。


  そこで各藩は、赤字體質が定着する元祿以降、藩校を創設して人材育成にかかる。

    ( 伊原註 1:コ川家初め各藩主が備蓄した金銀は、元禄期には悉く町人の懷に収まつた。

    ( 伊原註 2:藩政改革の指導者を養成する藩校は、江戸中期以降に殖える。

          1624/寛永 1  藩校の總數    9

          1688/元祿 1      〃        17

          1716/享保 1      〃        15

          1751/寶暦 1      〃        53

          1789/寛政 1      〃        84

          1830/天保 1      〃        63

    ( 二度、減つてゐるのは、多分、財政困窮のため )

    ( なほ、和暦は全て 1年になりましたが、全て元年 ( がんねん ) とお讀み下さい )


  教育理念は王道政治であつた。

  藩財政黒字化を優先すると収奪となり、苛斂誅求に惱む民が離反する。

    ( 伊原註:農民が逃散すると、耕地は耕す者が居なくなつて荒れ果てる上、

    ( 最惡の場合、藩政不行き届きの咎で藩は取潰しとなる )


  行き着く先が、下々も潤ふ政策を採れば民衆は喜んで働くから藩財政も潤ふといふ、

  王道政治の實施であつた。

  そのためには、王道政治を導く指導者の養成が不可欠だつたのである。


  王道政治の初期の模索例が上杉鷹山の米澤藩であり、

  幕末の成功例が横井小楠が指導した福井藩である。

    ( 伊原註:横井小楠の基本思想=有道の國・無道の國/私の政治・公の政治/文武兩道の備へ

    ( 横井小楠は 「 藩財政のための改革 」 を 「 覇道=君中心=私優先=惡 」 とし、

    ( 「 民と共存共榮するための改革 」 を 「 王道=民中心=公優先=善 」 とした )

    ( 横井小楠については、著作・傳記をじつくり讀むのが最善だが、

    ( 簡單には下記を讀まれ度し。

    ( 源了圓編 『 横井小楠 1809-1869 「 公共 」 の先驅者 』 別冊 環17 ) 藤原書店、2009.11.30 )

      ( 2800圓+税 )

      ( 帶に曰く、 「 近代日本 」 を創った思想家は龍馬でも松陰でもなく小楠である )


  藩政改革の失敗例も含めて、

  各藩は、手工業期の國民形成 ( 藩共同體の繁栄 ) の道を模索していたのである。

    ( 伊原註:江戸時代は一種の國際社會であつた。藩=國、江戸藩邸=各藩の大使館。

    ( 各藩は獨立財政であつたから、藩政改革とは、藩共同體の立直しであつた。

    ( 各藩のこの努力あつたが故に、明治以降の日本全體の近代國家建設が軌道に乘つた。

    ( 藩政改革の受け皿として、各藩に手厚い中産階層が育つてゐたことも大事である。

    ( 島崎藤村の 『 夜明け前 』 を見よ。山中の庄屋が、日本國の前途を憂慮して行動してゐる! )


            明治維新後の方向轉換


  そこへペリーが來寇して開國を迫つた。

  機械による大量生産を實現した西洋工業諸國が、

  もつと多くを稼ぐために通商 ( 原料供給・市場開放 ) を求めたのである。


  幕府や各藩に指導者型人材は居たが、外國語や西洋事情に通じた專門家が拂底してゐた。


  かくて我國は、討幕・新政權樹立後、洋學一邊倒の教育を實施する。


  「 日本に歴史はありません。これから始るのです 」

  と答へて、帝國大學で醫學を教へてゐたベルツを驚かせた帝大學生が象徴するように、

    ( 伊原註: 『 ベルツの日記 ( 第一部上 ) 』 岩波文庫、27頁 に曰く、

    ( 「 不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去については何も知りたくないのです。

    ( 「 それどころか、教養ある人達はそれを恥ぢてさへゐます。

    ( 「 『 何も彼もすつかり野蠻なものでした 』 と私に言明した者があるかと思ふと、

    ( 「 私が日本の歴史について質問した時、きつぱりと

    ( 「 『 我々に歴史はありません、我々の歴史は今からやつと始るのです 』

    ( 「 と斷言した者もゐます。

    ( 「 自國の固有の文化をかくも輕視すれば、却つて外人の間で信頼を失ひます 」 )

  傳統文化は見捨てられる。

  廢佛毀釋、浮世繪や書畫骨董の海外流出を見よ。

  漢文の素讀も廢れた。

    ( 伊原註:關川夏央 『 白樺たちの大正 』 文藝春秋、2003.6.30,7頁以下は、

    ( 明治15年/1882年が劃期だとします。

    ( この年以降に生れた者は 「 幼少時に漢學の訓練を受けなかつた世代 」 だからです )

    ( 現代日本語は、和文+漢文讀下し文の合成ですから、

    ( 日本人を育てるには、この二つの教育が必須です。

    ( 和文は和歌で代替できますが、今の子供は百人一首を取りません。

    ( 古文と漢文の教育を怠つた戰後の教育は、日本人を育て損ひました )


  明治時代に人材養成法が一變するのである。


  明治維新以降、帝國大學も陸海軍の大學校も外國語教育と專門教育に集中し、

  指導者教育 ( 文武兩道で鍛へて 「 強く優しく智慧ある人物 」 を養成する ) を疎かにした。


  新教育で育つたのは、官僚・幕僚・專門家、つまり指導者に仕へる側の人材のみ。

  彼等には、決斷力も膽力も求められないから、それを備へた指導者型人材は育たなかつた。


  それでも日露戰爭までは、江戸期に育てた指導的人材が各界に居り、

  日本は大局を誤らなかつた。


  しかし日露戰爭後、輕佻浮薄が目立ち始める。

  若い世代が乃木大將の殉死に共感しなくなるのである。

    ( 伊原註:明治45年1912年 7月30日、明治天皇薨去、61歲 → 乃木大將夫妻 殉死

    ( 武者小路實篤27歲 「 乃木大將の殉死はある不健全なる時が自然を惡用してつくり上げたる

    (   思想に育まれた人の不健全な理性のみが、賛美することを許せる行動である 」 『 白樺 』 後記

    ( 志賀直哉29歲 「 乃木さんが自殺したと聞いた時、 『 馬鹿な奴だ 』 といふ氣が、丁度下女か何かが

    (   無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた 」 日記

    ( 芥川龍之介20歲 「 ( 乃木さんは ) 至誠の人だつた事も想像できます。唯その至誠が僕等には、どうも

    (   はつきり呑込めないのです。僕等より後の人間には、猶更通ずるとは思はれません 」


  帝國大學卒業生が指導層に入ると、日本の國策に蹉跌が生ずる。


  帝大第一期生の加藤高明は外相時代、第一次世界大戰への參戰で英國と齟齬を來し、

      伊原註:英國は日本にドイツの武裝商船だけ取締つて欲しかつた。

              だから、日本が 「 正式參戰する 」 と聞いて、武裝商船取締の依頼を取消す。

              日本は 「 日英同盟のよしみ 」 で參戰要請と早とちりして天皇の裁可まで得たので

              「 參戰 」 から後戻り出來ず。


  正式參戰を迫られた加藤外相は、ひたすら英國に參戰を認めてほしいと懇願した揚句、

  「 支那に還付するためドイツの膠州灣租借地を攻める 」

  といふ但書をつけて英國を納得させるが、

  この但書がドイツ利權の繼承を不利にし、ヴェルサイユ會議は乘切つたものの、

        ( 伊原註:このあと、シナで 「 五四 ( 反日 ) 運動 」 が發生し、

        ( ロシヤ革命の革命ニヒリズムと相俟つて、日本の敗戰までしぶとく反日運動が續く )

  結局ワシントン條約でドイツ利權の大半を吐出す羽目となる。


  また加藤外相は、二十一箇條要求で餘計な要求を上積みして末永く惡評を殘した。


  明治から大正、昭和と時代が進むにつれて指導者が矮小化するのは、

  指導者を育てなかつたからである。


  伊原註:司令官は參謀と違ひ、指導者そのものだが、司令官教育の機關はなく、

          各人が on the job training で自習するほかなかつた。

          但し、教科書はあつた。

          「 軍事機密 」 とされた 『 統帥綱領 』 ( 1928 ) は、司令官の教科書である。

          cf.大橋武雄解説 『 統帥綱領 』 ( 建帛社、昭和47/平成14.5.30 15刷 )   6000圓+税



            官僚榮えて國亡んだ昭和


  昭和になると、中堅官僚が國家を運營するやうになる。

  世にいふ 「 下剋上の時代 」 である。


  政治では明治維新を指導した元老が死没乃至老化して影響力を失ひ、

  明治以來の名望家政治が大衆民主主義に變る。


  經濟は輕工業時代から重化學工業時代へと、産業構造が轉換した。

  轉換の劃期は、第一次世界大戰である。


  世の中が樣變りし、新知識をもつ中堅が、舊態依然たる長老を輕蔑し始める。

  輕工業時代に應じた自由放任經濟政策や金本位制が、

  重化學工業時代を迎へて適合しなくなる。


  昭和は出發點で金融恐慌に躓き、

  農村が不況と豐作貧乏とで塗炭の苦しみを嘗める中、

  名望家政治 ( 待合政治 ) を續けた政黨政治が、有權者から見放された。


  更に、ソ聯の五ヶ年計劃が、新知識を持つ中堅以下に歡迎される。


  我國では、滿洲國に派遣されて重化學工業化の建設經驗を積んだ官僚が

  「 新官僚 」 ともてはやされ、

        ( 伊原註:後に 「 新々官僚 」 「 革新官僚 」 と名稱が“進化”する )


  支那事變の進行と共に軍需生産を中軸とする

  昭和十年代の 「 國家總動員 」 體制・統制經濟時代に突入する。


  支那事變以來、中堅官僚は、

  議會に豫算を制約される心配なく國家を運營する快適さに醉ひしれ、

  戰爭をずるずると繼續させてしまふ。


  實權を握る中堅が解決を望まなかつたのだから、

  幾ら上層が解決を望んでも、支那事變は解決に到らなかつた。


  官僚は指導者と違ひ、國家を運營しても責任はとらない。

  それでも我國には畏くも

  天皇陛下が居られたので、辛ふじて終戰に持込めた。


  中堅官僚が國家を牛耳る體制は戰後も續く。

  復興から高度成長までは、見事效果を發揮した。


  だが、大局を見て決斷する指導者を缺いた日本は、

  上り坂では物の見事に成功するが、

  下り坂や先行き不透明な時期には烏合の衆と化し、

  もたつくばかりで障礙を突破できない。


  恰も、山中で遭難しかけた登山隊同樣、指導者の決斷なしには前へ進めなくなる。


  日本現代史には 40年で循環するサイクルがある。


  1868 明治維新:殖民地になることなく、國民國家建設に出發

  1905 日露戰勝:列強に伍して獨立確保・安全保障環境が確立

  1945 敗戰:大日本帝國亡び、 「 日本國 」 として存續

  1985 プラザ合意:第二次大戰後の貿易戰爭に勝利 ( 圓高ドル安で日本の貿易を抑制 )


  高度成長で戰後の貿易戰爭に勝つて以來、我國が低迷してゐるのは、

  指導者らしい指導者がゐないせいである。


  民主主義とは、立派な指導者なしにはうまく運營できぬ政治體制である。

  指導者教育を怠ると、衆愚政治に墮落する。

  日本は正にその陷穽に陷つてゐる。


  指導者教育が急務である。