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河合榮治郎の理想主義 ( 附:墓參記 )
( 民主社會主義研究會機關誌 『 改革者 』 平成3年3月號, 11-14頁に掲載 )
前 書:初めて河合榮治郎先生のお墓に御参りして來ました。
毎年秋に、大學時代の友人と一泊旅行します。
今年は東京の住人が東京江戸巡りを設定してくれました。
そして、私が 「 河合榮治郎の弟子 」 を自任してゐることを知る友人は、
青山墓地にある河合榮治郎先生のお墓を訪ねる企畫をしてくれました。
東京に本部のある河合榮治郎研究會が毎年2月15日の命日に
午前お墓參り、
午後研究會といふ催しを行ひ、
私にも案内してくれるのに、
私はこれまで、心を惹かれながら一度も參加しませんでした。
それが圖らずも今回、實現しました。
訪問當日は生憎の雨、それも相當な吹き降り。
その中を五人で捜しました。
なかなか見つかりませんでした。
やつと見付けたのは、極く質素な墓で、
「 河合榮治郎之墓 」 とだけ記されてゐました。
私は 「 初めまして、先生 」 と唱へながら手を合せました。
友人が寫真を撮つてくれ、あとで送つてくれました。
私が今、河合先生と對話できたら、
先生の理想主義體系にぜひとも江戸時代の王道思想を取込んで頂きたかつた、と
申し上げたい。
日本の傳統思想の最善部分を取り込まずして
日本人の思想たり得ないと確信するからです。
シナ思想の最善の部分を、江戸時代の日本人は取込んだのです。
ところで河合榮治郎といつても知らぬ人も多いでせうから、今から20年前に書いた
上記標題の文章を再録してをきます。
假名遣と略字を改めました。
以下、その本文です。
河合榮治郎生誕百周年といふ。
もうそんなに年月が經つたのか。
私が河合榮治郎の著作に接したのは、戰後のことである。
もちろん、河合榮治郎は既に亡き人だつた。
だが、そんなことに關りなく、著作を貪り讀んだ。
敗戰、占領、日本の過去の斷罪、行くべき方向の模索……。
かういふ價値觀の大搖れに惱む青年に、河合榮治郎は行くべき方向を明示した。
「 我何をなすべきか 」
「 我如何に生くべきか 」
伊原註:河合榮治郎は 前者 to do より、
後者 to be の方が遙かに大事だと
教へ諭 ( サト ) しました。
河合榮治郎が青年に與へた指針は、二つある。
第一、 「 人格の成長 」 といふことによつて、人間の内面充實の大切さを教へた。
第二、 「 人格の成長 」 といふことによつて、世間への奉仕の尊さを教へた。
自己の内面に小宇宙を見、世の中への貢獻に自己の存在意義を見る。
「 人格 」 を持つ自分は、個と全とを繋ぐ節點として、充實さるべき存在なのであつた。
個が專ら全への奉仕を求められた戰爭中の生き方、
個の慾望充足が全面肯定された戰後の生き方と較べ、
如何に正鵠を射た考へ方だつたことか。
物の生産・消費・所有に目が眩んだ今の日本を見るにつけ、河合榮治郎の考へ方が今の青年に見直される必要があると思ふ。
* * * *
河合榮治郎の時流を見る目は、實に的確だつた。
日本の勞働者のためにと張り切つて勤めてゐた農商務省の官吏を辭めたのは、
目的である人格の成長を手段である國家が邪魔だてすることに愛想をつかしたからだし、
東京帝國大學教授として青年の指導に當つたのは、
正しい考へ方 ( 人格主義による自己形成 ) を研鑽し傳道するためだつた。
昭和初年代のマルクス主義批判は、
唯物論が人間の尊嚴を踏みにじることを見抜いてゐたからだし、
祖國なき國際主義 ( マルクス主義 ) への反動で擡頭した國家主義に對する批判は、
國家が人間を從屬させる恐ろしさについて警告したものだつた。
河合榮治郎の國家主義批判は、昭和11年の二二六事件批判で頂點に達する。
支那事變についても、支那大陸視察後の講演で
「 この戰爭によつて、日本は滿洲はもとより、朝鮮・台灣も失ふことにならう 」
と明確にその結末を指摘してゐる。
このとき、 「 大學教授はとんでもないことを放言する 」
と驚き呆れた聽衆は、數年後の敗戰を經驗して、
河合教授の指摘が如何に的確であつたかを思ひ知る羽目になる。
河合榮治郎の國家主義批判の正さは、1945年の敗戰によつて實證された。
河合榮治郎のマルクス主義批判の正さは、それより遙かに遲れたものの、
1989年以降のソ聯東歐の激動で實證されつつある。
河合榮治郎の見通しが誤つてゐたのは、資本主義の活力についてである。
貧富の差や失業問題の原因を資本主義の經濟體制に求め、
自由主義的社會主義 ( 今でいふ民主社會主義 ) によつて解決しようとした。
河合榮治郎のこの誤認は、當時の經濟の發展段階からすれば、やむを得なかつたかも知れない。
だが、河合榮治郎の思想體系中、社會主義は自由主義よりずつと輕い比重しか持たない。
自由民主主義を堅持すれば、經濟體制の問題も克服できるのである。
* * * *
多くの青年を惹き附けたのは、河合榮治郎の考へ方の正さだけだつたであらうか。
猪木正道さんは、河合榮治郎からは強烈な放射能が迸 ( ホトバシ ) つてゐた、と證言してゐる。
寫真には寫つてゐない 「 あるもの 」 が放射してゐた、といふのだ。
直接接した多くの人が、今なほ河合榮治郎を慕つてゐるのは、
この人格的放射能の感化によるのだらう。
しかし、河合榮治郎の死後に著作を通じて感化を受けた私は、
著作や河合榮治郎自身の行動からも、ある種の放射能が發してゐるやうに思ふ。
河合榮治郎が殘した言動が、感化力を持つてゐたのである。
河合榮治郎の感化力は、その生身から發してゐるだけではない。
それならば、影響力は直接會つた人に限られたであらう。
人格だけでもない。
人格に發してゐるだけなら、河合榮治郎は 「 教師 」 であるに留 ( トドマ ) る。
河合榮治郎の感化力は、その理想主義からも發してゐるのである。
「 思想家 」 、それも 「 理想主義の思想家 」 としての河合榮治郎である。
理想を掲げ、行住坐臥の精進を求める。
世のため人のために貢獻すべく己を磨き鍛へる 「 魂の高貴さ! 」
活力に溢れ、意欲に滿ちた青年を惹き附けたのは、
彼らに首尾一貫した思想體系を與へ、
意欲と活力に確實な方向を與へたからではないか。
それも單に知的な指針を與へただけでなく、
生きる據所 ( ヨリドコロ ) となる明確な理想を與へたからではないか。
河合榮治郎によつて魂に火を附けられたからこそ、
多くの青年が河合榮治郎に傾倒したのではないか。
河合榮治郎の著作から、
そして何よりその生き方から魂に火を附けられた者の一人として、
私はつくづくさう思ふ。
理想主義にはもう一つ、
塩尻公明の求道型 ( 自己沈潜型 ) があるのだが、
挫折を知らぬ青年には、
ディオニュソス型 ( 吸収型・自己顯示型 ) の河合榮治郎の理想主義こそ相應 ( フサハ ) しい。
ケネディ大統領が死後益々慕はれるのは、
人々を理想に向つて奮ひ立たせたからである。
河合榮治郎も
「 世のため人のため、大いに奮鬪せよ 」
と勵まして多くの青年の魂を搖り動かした。
曾て河合榮治郎が指摘した 「 メンタル・アナーキー 」 ( 思想の混亂状態 ) は、
現在遙かにひどい状態にある。
その中で、人々に方向を與へ、理想に向つて邁進するよう呼掛ける思想家が、
如何に求められてゐることか。
* * * *
1990年代の世界史的激動は、1989年に始つた。
この激動は、單に第二次世界大戰後の國際秩序の改変に留らない。
もつと大きな秩序の見直しが求められてゐる。
短く見て二百年來の“資源多用による省力化" の工業文明の見直し、
長く見ると一萬年前の農耕革命 ( 自然改造による収穫増 ) の見直しである。
一口にいふと、
「 産めよ、殖えよ、地に滿てよ 」 といふ人口垂れ流しの價値觀、
「 より多く、より豐に、より便利快適に 」 といふ多消費型價値觀の見直しが
求められてゐるのだ。
地球上に54億もの人類が居て、豊かな人々は浪費によつて環境を破壞してゐる。
貧しい人々も、より多くの食糧や燃料を求めて環境を破壞してゐる。
中進國は中進國で、なりふり構はぬ成長のため環境を破壞してゐる。
富める者も貧しき者も、生産者も消費者も、老ひも若きも、
寄つてたかつて他の生物を壓迫して絶滅に追ひやり、
地球環境のバランスを崩してゐるのである。
壓迫や破壞は、
「 より多く、より豐に、より便利快適に 」
といふ發想に基く生産方法や生活樣式に由來してゐる。
しかも人類は年々1億弱殖え續けけゐるのである。
エネルギー浪費による省力化を實現した先進國は、
今なほ 「 經濟成長 」 を求め、環境を貪り續けてゐるのである。
今必要なことは、
貧しかつた時代の價値觀 「 より多く、より豐に、より便利快適に 」 から一刻も早く脱却し、
「 足るを知る 」 「 内面の價値 」 「 全生物の共存 」 に向けて
生産方法・生活樣式を根本から見直すことである。
その際大切なことは、
「 緊縮 」 「 節約 」 「 禁欲 」 「 後退 」 と言つたマイナス・イメージでなく、
「 新境地の開拓 」 「 新生活樣式の創造 」 といつた
前向きイメージで人々を奮ひ立たせることである。
人々は、後退にはついて行かない。
抵抗し、そつぽを向くだけだ。
人類の文明轉換といつた大動搖期には、理想主義でないと人々を動かせない。
河合榮治郎の理想主義は、今こそ出番を迎へてゐるのではないか。
( 2011.10.12 補筆 )