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昭和十年代の日米共榮の道
伊原註:これは、 『 關西師友 』 平成23年8月號 8-9頁に掲載した 「 世界の話題 」 ( 260 ) です。
少し増補してあります。
日米不戰は有り得たか?
「 日本現代史 」 の講義をしてゐた時、
學生から、日米戰爭は回避できなかつたのでせうかと訊かれ、
無理ですねと答へました。
その後日米關係を知れば知るほど、
「 親華反日のローズヴェルト大統領相手では回避不能 」 と思へました。
でも、戰爭回避どころか、
平和裡に日米が共存共榮する方策もあつたのではないか……?
今月は、それについて考へて見ませう。
考へるヒントが三つあります。
第一のヒントは、第一次大戰後の軍縮機運です。
これで、朝鮮李朝・清朝李鴻章の 「 以夷制夷 」 策に振り回されて
明治十五年以降、外征型國造りをさせられ、富國強兵といふ形で軍備に足を引っ張られて來た我國は、
海軍=八八艦隊建艦計劃の凍結
陸軍も軍縮で、
やつと内政優先政策がとれるやうになりました。
伊原註:實は、日露大戰に 「 勝つた 」 段階で、
日本は安全な國際環境を確保したのですから、
大幅軍縮して經濟を民生中心に切換へるのが最善策でした。
元老中、先の見える人が居たらさうしてゐた筈です。
陸軍は、ロシヤの報復は當分なしと考へ、日露協商で平和を確保する。
海軍は、差當り假想敵がなくなつたので、保有艦艇を半減する。
所が陸軍はロシヤの報復が怖くて、日露協商をやりながら、軍擴を試みます。
海軍は太平洋の彼方の米海軍を假想敵に選んで新鋭艦建造を計劃します。
具合の惡いことに、英國にドレッドノートといふ新鋭戰艦が出現したため、
列強は軒並み保有艦艇を全部造り直さねばならぬ事態に直面しました。
日露戰爭で賠償金がとれず、戰爭中に借りた外債の利拂いと借り換へ、
それに戰後處理の費用まで外債で賄はねばなりませんでした。
かくて日本は、破産状態の儘、陸軍も海軍も軍擴に走るのです。
軍擴の基盤である經濟は弱體からなかなか脱却できません。
だから、第一次大戰による日本經濟の發展と、戰後の軍縮機運は 「 天の賜物 」 でした。
これをもつとうまく利用すれば良かつたのに……
第二は、世界を捲込んだ大不況から日本が逸早く脱出したことです。
戰前の日本經濟の頂點は昭和9年〜11年 ( 1934〜36 ) です。
宇垣一成が日記にかう書いてゐます。
( 『 宇垣一成日記3 』 みすず書房、1971.1.25, 1798頁 )
「 その當時の日本の勢といふものは産業も着々と興り、貿易では世界を壓倒する。
「 南洋、濠洲、インドは無論のこと、南米からアフリカまでどんどん行つて
「 英國を初め合衆國ですら悲鳴をあげてゐる。日本が安い品物をどんどん造つて押出して來る、
「 日本品とは競爭が出來ぬ、といふことになつて來かけてをる時である。
「 この調子をもう五年か八年續けて行つたならば日本は名實共に世界第一等國になれる。……
「 この調子を五年八年續けてをつたら英米を抜くかも知れない。
「 だから今下手に戰などを始めてはいかぬ 」
當時の日本經濟の強さの由來については、
池田美智子 『 對日經濟封鎖 』 ( 日經新聞社、1992.3.25 ) を御覧下さい。
私達の先輩が、いかに逆境の中で苦心惨憺して日本を育てて來たかがよく判ります。
第三は、會田雄次の戰前の經驗です。
會田雄次曰く ( 『 歴史を變へた決斷の瞬間 』 角川書店、昭和59.6.10/61.8.20 六版 ) 66頁
戰後、高度成長期に少年期に達した私の子供がやつた遊びで
「 私が經驗しなかつたのはボーリングだけ 」
スキー・スケート は勿論、乘馬やスカール、グライダーもやつた、と。
そして 「 私がとりわけ特權階級だつたのではない 」 と言ひます。
「 東京だけでなく、少くとも大都市には、中學生・高校生ともなれば
「 ぶらりと出掛けて行つて、さう言つたスポーツを低料金で樂しめる施設や組織が
「 公私を問はず存在してゐたのである 」
さう言へば、中産階層だつた我家にはスキー・スキー靴・スケート靴・登山靴があり、
暗室もあつて、兄達はフィルムの現像・燒付から引延まで樂しんでゐました。
昭和十年代前半には日本でも都市に中産階層が育ち、大衆文化が根付き始めてゐたのです。
日本が大衆社會化してゐたら
第一次大戰で、アメリカ文化が世界中を席捲しました。
スポーツ・スクリーン・セックスの三Sから自動車まで。
自動車は大戰で使はれたあと、1920年代に米國で家庭 ( 個人 ) に普及します。
我國では、關東大震災後に乘用車需要が急増します。
この大量注文に氣を良くしたフォードが大正14年に横濱で組立生産を始め、
競爭相手のGMも昭和二年、大阪で組立を始めます。
日本では乘用車はタクシーに使はれ、
圓タク ( 市内1圓 均一料金のタクシー ) として都市に普及しました。
其の他の需要者は官公廳・企業と醫者です。
cf. 呂寅滿 『 日本自動車工業史──小型車と大衆車による二つの道程 』
( 東京大學出版會、2011.2.28 ) 7600圓+税
私の 「 日米共存共榮 」 の夢想は、ここから始ります。
日本は工業資源に乏しく、鐵 ( 屑鐵 ) や石油など、工業資源を米國に依存しました。
その日本が、曲りなりにも自動車時代を迎へた。
この、初期モータリゼーションの波に乘つてゐたら、
日本は鐵と石油と工作機械をどんどん米國から買付けた筈。
そして、大不況からの脱出にもたついてゐた米國は、日本への輸出急増を大歡迎した筈。
いくら大統領が 「 親華反日 」 でも、日本への輸出増大が大不況で弱つた米國經濟の活性化に役立てば、
日米關係が好轉し、東亞も安定します。
すると、日本主導下で中華民國も發展した筈。
東アジアは、シナが 「 お山の大將、俺一人 」 の中華思想を保持する限り、
彼らが主導する場合以外の秩序は存在し得ない。
上下關係の發想しかない中華思想は
「 自由・平等・友愛 」 を原則とする國民國家の平等な共存とは兩立しない。
兩立するのは、國民國家時代に適應した日本を東亞の主導者とした場合だけです。
日米が協調すれば、太平洋も東アジアも同じ原理で安定します。
國民國家の共存を否定する中華思想の獨善に固執するシナを立てる限り、
東アジアも太平洋も、現に見る通り、安定しません。
シナ人には、外國人を心服させるだけの“コ" が缺けてゐるのです。
米國も日本も、東亞や世界を安定させ繁榮までさせる好機を、
1930年代後半 ( 昭和10年代前半 ) に構築し損ねました。
( 2011.6.23/8.25補筆 )
伊原追記:これを書いた時から、氣付いてゐた問題點が、少くとも一つあります。
當時、乘用車の需要が タクシーと 官公廳中心で、
自家用車の買ひ手がお醫者さんしか無かつた理由──
それは 「 道路事情 」 です。
道路が 「 狹く 」 「 未舗裝 」 だつたのです。
日本の道路が馬車を含む 「 車 」 の通行に向いてゐないのは、江戸時代に乘物を禁止してゐた
ことと關係があります。
日本の道路が 「 人が歩く道 」 から 「 車が通れる道 」 に變るには、戰後の佐藤内閣を待たねば
なりません。
これでは、少々補助金をつけても、自家用車は大都會で少し賣れるだけで、地方ではまるで
賣れなかつたでせう。
日本で四輪車が普及する前に、三輪車 ( オート三輪 ) 時代があるのは、この道路事情が大き
く立ちはだかつてゐたからだと思はれます。