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大東亞戰爭と支那事變
──日米關係の蹉跌が日本を迷走させた──
現代アジア研究會編 『 世紀末から見た大東亞戰爭:戰爭はなぜ起こつたのか 』
( プレジデント社、1991.12.18, 第一部第一章より再録 )
伊原註:平成 6年/1994年に執筆した 「 幕僚國家の悲劇 」 を 「 日米戰爭 敗戰までの經緯 」 と
改題・再録した序に、其の前に書いた本文を再録する必要を感じました。
そこで掲載します。私の趣旨を徹底するため若干補筆・書換へをしてあります。
若い世代の人達に、是非戰前の東アジア國際關係の基本を承知してをいて頂きたい。
そして先人の苦勞を偲んで貰ひたいのです。
これは東京で講演したあと、一冊に纏めるに際して書き下ろした文章です。
蔣介石も帝國陸軍首腦も相手を輕視してゐました。
皆さん、 「 彼ヲ知リ己を知ラハ百戰殆フカラス 」 を拳拳服膺 ( ケンケン フクヨウ ) されたし。
( 1 ) 大東亞戰爭を考へる視點──時間經過と二重構造
大東亞戰爭 ( 日米戰爭 ) がなぜ起きたか、その意味は何か。
これを考へるためには、少くとも二つの視點が必要となる。
第一は明治維新後の日本の展開である。
時間の經過で目標〈國家の基本方針、國是、政戰略〉の轉換及び人材刷新が必要になつたが、
相手方米國の 「 原則押付けの拙劣な外交 」 にうまく對應できなかつた。
【追記】米國の拙劣な外交については、ジョージ・ケナンが、かう述懷して居ます。
( ジョージF.ケナン 『 アメリカ外交50年 』 岩波書店 同時代ライブラリー、1991.1.14 ) 76-79頁
「 我々は十年一日の如く、日本に嫌がらせをしたが、それは我々の原則が立派なら
「 結果も立派な筈といふ不動の信念に基づいてゐた。しかし日本の膨脹する人口、
「 シナ政府の脆弱性や他の列強の野心に對する實效的對抗策といふやうな本質問題
「 についての論議には加はらなかつた……
「 我々の要求が特に敏感な箇所に觸れて日本人の感情を傷つけたにしても、我々は
「 氣にもとめなかつた。……
「 1905年、日露戰爭の終りに我々が日本の勝利の前に立ちはだかるやうな格好にな
「 つた時にも、我々は別段氣にしなかつた。また、第一次大戰直後、對獨參戰の當
「 然の報酬と考へた日本から、これ ( 伊原註:青島のドイツ利權 ) を剥奪しようと
「 する斷固たる運動の中心的指導者として出しやばつた…… 」
「 この長い不幸な物語が展開した時期を通じて、我々が何度も移民政策や、特定地
「 方に於る日本人系乃至一般的に東洋人系の人々に對する處遇問題によつて、神經
「 質な日本人を刺戟し怒らせた……。聯邦政府は、居住、土地所有及び社會的待遇
「 などの不幸な問題が國家的利益と關聯してゐることを承認するかのやうに、カリ
「 フォルニア及び其他の州當局に對して懇請する用意があつたものの、これを強制
「 するほどの準備を持たなかつた。そして國全體として、州及び地方官憲の行動と
「 態度が外交政策を形成する重大な要素となつてゐることを認めようとしなかつた。
「 況してや移民問題を巡る紛爭の故に、我々は日本に對する他の要求を稍緩和すべ
「 きではないかといふことなど認めようとしなかつたのである 」
讀者の皆さんは、このケナンの言葉に示された 「 事實 」 の重さをどれだけありありと
思ひ浮かべられるでせうか?
例へば次の本を讀むだけで、日本人ならば怒り心頭に發する筈です。
そしてこの米國人の身勝手對應は、慰安婦問題や捕鯨問題で今なほ續いてゐます。
在米 松枝保二著 『 驚くべし此の横暴 此の國辱 米國排日の實相 』
( 大日本雄辯會、大正14.5.18, 序文・例言19頁/目次3頁/本文306頁 ) 壹圓五拾錢
せめて、下記 2冊位には目を通しておかれたし。
賀川眞理 『 サンフランシスコに於る日本人學童隔離問題 』
( 阪南大學叢書 56/論創社、1999.3.30 ) 3000圓+税
蓑原俊洋 『 排日移民法と日米關係── 「 埴原書簡 」 の真相とその 「 重大なる結果 」 』
( 岩波書店、2002.7.25 ) 10000圓+税
因みに、昭和天皇は 「 大東亞戰爭の遠因 」 として、かう仰つてをられます。
( 『 昭和天皇獨白録 』 文藝春秋、1991.3.10, 20-21頁 )
「 この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戰後の平和條約 ( ヴェルサイユ條約 ) に伏在してゐる。
「 日本の主張した人種平等案は列國の容認する處とならず、黄白の差別感は依然殘存し
「 加州 ( カリフォルニア州 ) 移民拒否の如きは日本國民を憤慨させるに充分なものである。
「 又青島還附を強ひられたこと亦然りである。
「 かゝる國民的憤慨を背景として一度、軍が立上つた時に、之を抑へることは
「 容易な業ではない 」
第二は日本外交の二重構造の解明である。
開國以來、日本外交は、對歐米列強外交と、對近隣諸國外交との二重の展開が必要であつた。
日英同盟下で展開したシナ大陸政策が米國を刺戟し、日本をシナとも米國とも對立する方向
に追ひやることになる。
日本現代史の40年サイクル
幕末以來の日本現代史には、凡そ40年の サイクル がある。
開國といふ新事態に對應して新政權を樹立した明治維新が 1868年 ( 明治元年 ) 、
目標は獨立の維持であり、
外交では不平等條約の平等化、内政では富國強兵・殖産興業であつた。
一言で、近代國家の建設と言つてもよい。
治外法權を撤廢し、關税自主權を一部恢復した日英通商航海條約を結ぶのが、
日清戰爭の始る 1894年 ( 明治27年 ) 、
日露戰爭が日本の勝利に終つて獨立と安全保障の見通しがついたのが 1905年 ( 明治38年 ) 、
關税自主權を恢復した日米通商航海條約締結が 1911年 ( 明治44年 ) 、
明治維新からざつと 40年經つてゐる。
このとき日本は、富國強兵・殖産興業を達成してゐた。
從つて、ここで目標の轉換と、それに應じた人材の入れ替へが必要になつてゐたが、
轉換にもたついてゐるうちに、國際的孤立を招いてしまつた。
隣國シナと戰ひ、貿易の機軸國米國と戰つた末、力盡きて降伏するのが 1945年 ( 昭和20年 ) 、
日露戰爭から ちやうど 40年經つてゐる。
敗戰で否應なしに目標の轉換〈軍事支配 → 經濟復興〉、
人材の入替へ〈指導的人物の公職追放と若手の登用〉が徹底的に行はれた。
斯 ( カ ) くて戰後の經濟高度成長時代が展開する。
經濟成長に成功し、今や敗戰から40年以上經て、
日本現代史上 4度目〈幕末/日露戰爭後/敗戰に次ぐ〉の目標の大轉換
〈エネルギー浪費に基く大量生産・物的生活充實から省エネ・省資源による生産・内面充實の生活へ〉、
人材刷新の時期を迎へてゐる。それにも拘 ( カカハ ) らず、
敗戰後の 「 經濟成長 」 路線の呪縛から離れられず、成長萬能の價値觀を持つ指導者が
相變らず經濟成長路線を突つ走つてゐるのが、日本の現状である。
日本外交の變質
40年サイクル との關聯で日本外交を見ると、日露戰爭が轉換點として浮かび上つて來る。
それまで慎重且つ堅實であつた日本外交が、日露戰爭後、とりわけ第一次大戰後は
孤立と敵對に向ひ、戰爭に突入した揚句、敗戰の憂き目に遭ふ。
岡崎久彦さんは、日本側の事情をかう説明してゐる。
( 『 陸奥宗光 ( 上 ) 』 PHP研究所, 1987.12.4, 147頁 )
「 征韓論の時や、ポーツマス條約の時は、結局は大の利益が勝つて、日本は事なきを得た。
「 しかし日露戰爭後は 『 國威發揚 』 とか 『 自主性 ( つまりは英米追從反對 ) 』 といふやうな
「 觀念的利益、或は中國に於る一つの權益、一つの勢力範圍を増すといふやうな中規模の利
「 益が、國家全體の長期的安全と繁榮といふ最も基本的な、最大の利益より先行するやうに
「 なつて、破滅的な敗戰に導くのである 」
日本外交のもう一つの特徴は、アングロ・サクソン と結んだ時〈戰前の日英同盟、戰後の日米同盟〉
は安定し、それと切れた時〈ワシントン會議以降〉は具合が惡くなる、といふ點である。
日露戰爭まで慎重且つ堅實であつたのは、慎重且つ堅實であらざるを得ないほど、國際環境
が嚴しかつたからである。
アングロ・サクソン と結んだ時に日本外交が安泰なのは、二つ理由がある。
第一に、海洋性の グローバル・パワー との提携だから。
第二に、日本人の國民性が 「 二國間關係 」 志向だから。
日本人の目配りは單純で、大國と結ぶと、判斷規準が明確で迷ふことがなく、秩序の枠から
はみ出さずに濟む。それだけに第一次大戰後、ワシントン會議によつて日英同盟が多國間條約
( 太平洋問題ニ關スル四國條約・支那ニ關スル九國條約 )
に代ると、多國間での舵取りがうまく行かず、迷走し始める。
日本人は複雜な目配りが苦手なのである。
だが、日本が迷走する大きな理由として、アメリカの日本に對する拙劣な外交がある。
日本が戰爭を始めるについては、相手の出方も大いに關はつてゐたのだ。
日本外交の二重構造
幕末以降の日本外交は、二重構造になつてゐる。
一つは、歐米列強とどう附合ふか、
もう一つは、近隣諸國とどう附合ふか。
前者では日米關係が、後者では日中關係が機軸をなし、しかも相互に關聯する。
この日米・日中の二重構造こそ、支那事變や大東亞戰爭を解き明かす鍵である。
日本を開國させたのがアメリカであつたことについては、功罪兩面がある。
功は、日本の獨立を守る上で、列強中一番無難な相手だつたことだ。
植民地化の動きが歐洲列強ほど剥き出しでなかつたからである。
日本が阿片戰爭のあと、獨立を守れたについては、幸運 ( 例へば、列強の主目標はシナで
日本はその陰に隱れられたことや、列強の相互牽制、クリミヤ戰爭・南北戰爭の勃發など ) 、
日本の指導者の賢明な對應 ( 討幕運動に外國勢力を介入させなかつたこと ) もあつたが、
最初の開國交渉の相手がアメリカであつたことも、無視できぬ理由である。
だが、功ばかりではなかつた。
日露戰爭後、對日警戒から對日牽制に轉換したアメリカ外交に振り回されて日本外交は孤立
を深め、終 ( ツヒ ) には衝突するに到る。明治政府が學んだのは歐洲列強の現實外交であり、
「 二十一箇條要求 」 も、英國の諒解を取附けてゐた。
所が理想主義を振り回すアメリカ外交がシナの領土保全・門戸開放政策を理由に不承認を通告
して介入して來て以來、日本外交は米國の 「 原則 」 と衝突し始める。
シナ人の一部が理想主義の米國と組むことで、日本牽制を圖る。
この圖式で日中關係にアメリカが絶えず水を差し、軈 ( ヤガ ) て滿洲事變や支那事變が
大東亞戰爭に發展することにもなるのである。
日米交渉は、ペリー以來現在に到る迄、ワンパターンに終始する。
アメリカが一方的に條件を出す。
日本は抵抗し、辯明しつつ相手側に擦り寄り、結局受け入れてしまふ。
ワシントン會議も、昭和16年 ( 1941年 ) の日米交渉も、戰後の貿易摩擦も、現在の構造協議も、
基本的にこの原則押附け型である。
日本が米國の要求を拒否した時は、戰爭になつた。
日米開戰の責任の一半は、アメリカの拙劣な原則押附け外交にある。
近隣諸國との關係では、日本は不幸であつた。
近隣諸國と大同團結して歐米列強の侵略に對抗しようとした大アジア主義が、
朝鮮からも清朝からも受入れられず、日本は孤軍奮鬪せざるを得なかつたからである。
大同團結とまで行かなくても、彼らがせめて外國勢力を引込まず、
自國の獨立を堅持してくれて居れば、日本は日清戰爭も日露戰爭もせずに濟み、
安んじて國内建設に專念できたのに……。
事實はその反對であつた。
日本の獨立及び安全にとつて、地政學上の樞要の位置にある朝鮮半島が、安定するどころか、
近代國家形成を始めた日本に反撥し、清朝勢力の導入を圖つたため、
日本は清朝と戰はざるを得なくなつた。
その後、李朝朝鮮が清朝の代りにロシヤを引き入れようとし、そのロシヤが三國干渉後、
旅順・大連を租借したばかりか、義和團事件のあと、滿洲に居坐り、朝鮮半島をも脅かす勢を
示したので、日本は國運を賭してロシヤと戰はざるを得なくなつた。
この近所迷惑な韓國を日本が併合して、やつと朝鮮半島は安定したのである。
【追記】ここでは清朝がロシヤを引込んで日本に懲罰させようとしたことに觸れてゐませんが、
清朝の外交を擔當してゐた李鴻章が、ニコライ二世の戴冠式に出席した時買収され、
「 露清密約 」 を結んで滿洲をロシヤに賣飛ばさうとしてゐたことを御承知あれ。
日本の滿洲權益を批判する廣東政權の外交部長 陳友仁に對し、幣原外相はかう答へて
ゐます。
( 昭和 6/1931.7.31の會談。外務省編 『 日本外交年表竝主要文書 ( 下 ) 』 178頁 ) 。
「 1896年 ( 伊原註:日清戰爭の翌年/5月26日 ニコライ二世の戴冠式 ) ニ清國ハ露國ト
「 ノ間ニ日本ヲ對象トセル秘密同盟條約ヲ締結シタルカ同條約ノ有效期間ハ滿15個年ニ
「 シテ日露戰爭ハ其ノ期間内ニ發生セルモノナリ同條約締結セラルルヤ直ニ露國ハ滿洲
「 ニ於ケル侵略政策ノ實行ニ著手シタルカ明治三十七八年戰役ノ勃發ニ至ル迄ノ日露交
「 渉ノ記録ハ當時露國カ實際上滿洲ヲ以テ自國領土ノ不可分的一部ト目シ居リタルコト
「 ヲ明確ニ證スルモノナリ
「 斯クノ如キ露國政府ノ威壓的活動ニ對シ清國ハ全ク無力ニシテ一言ノ抗議ヲモ提出シ
「 タルコトナシ此ノ事態ニシテ自然ノ推移ニ放置セラレタラムニハ滿洲ハ疾クニ清國領
「 土中ヨリ喪失セラレタルコト疑ヲ容レス清國ヲシテ此ノ廣大ナル沃地ヲ保持セシメタ
「 ル所以ノモノハ實ニ日本ノ武力干渉ニ外ナラス吾人ハ清國ノ日露戰爭ニ對スル嚴正中
「 立ノ宣言ニ信頼シ終始同國領土保全ノ方針ニ忠實ナリシ次第ナルカ若シ當時露清秘密
「 同盟ノ條項ニシテ暴露セラレ居リタランニハ日本ハ上述領土保全ノ方針ヲ一變シテ別
「 個ノ政策ヲ執ルニ十分理由アルコトヲ認メラレタルナルヘシ 」
あんな密約を結んでゐたのなら、あの儘行けば滿洲はロシヤ領になつてゐた。
日本が日露戰爭をやつたから、滿洲は清朝の領土として保持できた。
若しその當時、日本が露清密約の存在を知つてゐたら、滿洲を清朝に渡さず、日本領に
してゐたぞ、と言つてゐるのです。
それを、今 ( 滿洲事變が起きる 9月18日の直前です ) 日本の權益を非難するとは、と
説教してゐるのです。
從つて、日露戰爭までは、日本の安全確保のための戰ひである。
日本が朝鮮半島を勢力圏にするのは、安全保障追求のためであつて、領土慾からではなかつた。
日清・日露の戰爭を 「 帝國主義戰爭 」 と見るのは、當時の日本の國力に對する買被りとしか
言ひようがない。日露戰爭が外債によつて戰はれた事實を見ただけでも、それが 「 帝國主義的
侵略 」 などと言へるやうな餘裕のある戰爭でなかつたことが判る。
だが、近隣諸國との關係の不幸はまだ續く。
末期の清朝も、辛亥革命後の中華民國も不安定で、日本は國内建設に專念させて貰へなかつた。
日華關係を安定させるべく持出した 「 二十一箇條 」 で、日本はシナの若い民族主義と衝突する。
ワシントン會議後、アメリカの中國割込み政策〈門戸開放・機會均等原則〉とも對立する。
アメリカの獨善、カリフォルニアでの日本人移民排斥問題と大不況の時の 「 持たざる國 」 締出し
政策が日本の目をシナ大陸に向けさせ、それが益々シナともアメリカとも對立を増す結果を生む。
惡循環である。
この延長上に、支那事變と大東亞戰爭がある。
【追記】米國の 「 門戸開放・機會均等原則 」 とは、度厚かましい要求です。
米洲 ( 南北アメリカ ) は米國の裏庭だから列強は手を出すな ( モンロー主義 ) 。
しかしシナと滿洲の利權に米國も與れるやうにせよ、といふ要求なのです。
何故なら、フィリピン を領有してアジアに君臨する一國になつたからだと。
米國は米洲を獨占するが、シナはお前ら獨占するな、といふ譯です。
日本は 「 滿蒙の特殊權益 」 を主張したのですが、
「 滿洲は日本の裏庭 」 といふ主張を米國は頭から認めませんでした。
不正確な戰後の表記
戰後、支那事變を 「 日中戰爭 」 と稱び、大東亞戰爭を 「 太平洋戰爭 」 と言ひ換へるのが普通に
なつてゐる。しかし、これらの表記は不正確である。
日中戰爭では、何時から何時までの戰爭かが判りにくい。
シナでは、日清戰爭も 「 中日戰爭 」 といふのである。
その點、滿洲事變、支那事變といふと、誤解の餘地がない。
太平洋戰爭とは、戰後、アメリカ占領軍から押附けられた表現だが、
大東亞戰爭を日米間に限定し、海軍の戰ひに限つてしまふ缺點がある。
大東亞戰爭といふと、日本の戰爭目的〈白人のアジア支配への挑戰〉も、
日本軍の展開した舞台が 「 アジア 」 だつたことも、はつきり判る。
そこで本文では、第一に曖昧さを避けるため、第二に歴史的表記として、
これら當時の表現を使ふことにする。
大東亞戰爭 ( 1941-1945年 ) は、支那事變 ( 1937-1941年 ) を解決するために日本が始めた戰爭
だが、日本外交が持つ日中と日米の二重構造が、戰爭にも反映してゐる。
大東亞戰爭を戰つた日本人は、假令 ( タトヘ ) シナとの戰ひを 「 侵略 」 と認めても、
對英米戰爭を 「 侵略 」 とは考へてゐない。
寧ろ、追詰められてやむなく戰つた 「 自存自衛ノ爲 」 ( 「 宣戰の詔書 」 ) の戰爭と考へる。
この考へ方が妥當かどうかは檢討の餘地があるが、少くとも、日本人が 「 支那事變 」 と
「 大東亞戰爭 」 をかうした二重構造で考へてゐることを承知してをかないと、
日本人の 「 あの戰爭 」 に對する見方が理解できなくなる。
( 2 ) 日英同盟からワシントン體制へ──日露戰爭後の日米關係
日露戰爭後の日本の目標轉換努力
先にも述べたやうに、日本は明治維新から40年で不平等條約平等化の悲願を達成し、
富國強兵を一應實現した。日本の獨立と安全は確保でき、工業國にもなつた。
但し、問題があつた。
日露戰爭は、戰費20億圓弱の半分餘 ( 10億圓以上 ) を外債に頼つた。
媾和會議で賠償金を取れず、戰後經營にも外債を使つた ( 4億8000萬圓 ) ため、
その元利支拂で國家財政は破産の危機に瀕した。
幸ひやがて歐洲大戰 ( 第一次世界大戰 ) が始り、貿易が伸びて危機を脱出できたばかりか、
史上空前の貿易黒字を貯め込むことができた ( * ) 。
( * ) 第一次大戰前年の 1913年に 8億圓強だつた輸出額が、開戰の年 1914年に 8億圓に
減つたあと、1915年10億圓、1916年16億圓、1917年24億圓、1918年30億圓、1919年32
億圓と伸びた。輸入も伸びてゐるが、輸出より少なく、異常な出超によつて國際収支
はそれまでの慢性赤字から大幅黒字に變つた。
1914年に19億圓あつた外債が、1920年には16億圓に減り、海外投資は 4.6億圓から
22億圓に、正貨準備が 1.3億圓から11.1億圓に、在外正貨が 2.2億圓から10.6億圓に
殖えた。第一次大戰の 6年間に、日本は10.9億圓の債務國から、27.7億圓の債權國に
變つてゐる。
( 中村隆英 『 日本經濟──その成長と構造 』 東京大學出版會、1978.3.10, 100-102頁 )
日本は、ワシントン會議以降、國家目標の轉換を試みた。
對英協調に代へて對米協調を圖ること。
軍擴〈議會の承認を得てゐた八八艦隊建造計劃〉を中止して軍縮に轉換すること。
國内經濟では、輕工業中心の段階から、重化學工業を軸に産業構造を高度化すること。
だが、 「 出る杭は打たれる 」 といふ諺の通り、歐洲大戰で浮上した日本の前途は嚴しかつた。
國内では未曾有の大災害に遭遇した。
戰後引締めを實施しかけてゐた所を襲つた関東大震災が、首都東京を廢墟にした。
多くの惡影響中、戰後處理のための引締政策〈戰時の好景氣による水増企業の整理〉の實施を
先送りしたことが、頗る拙い結果を生むことになる。
不良企業の殘存が昭和の初めに金融恐慌を惹起し、
折からの農村不況及び世界大不況と重なつて日本を不景氣のどん底に陷れ、
軍國主義を呼び起こす大きな原因となつた。
對外的には、日米關係を搖さぶる事件が相次ぐ。
日米關係での蹉跌 ( サテツ ) は、先にも述べた通り、米國の理想主義外交と、日本の中國獨占外交
の衝突である。米國が原則を振りかざし、日本が特殊權益擁護で防戰に努めた。
問題點を列擧してみよう。
第一、日露戰爭後の滿洲問題〈日本の南滿洲獨占が米國の門戸開放・機會均等原則と衝突〉
第二、21箇條要求は英國の了解を得たものの、米國には日本の中國獨占と見られ、その理想主義
的外交原則と正面衝突して問題化した。
第三、第一次大戰のあと、日本が範としてゐた歐洲型勢力均衡外交〈國益追求の現實主義外交〉
が後退し、米國の理想主義外交が興隆した。ワシントン會議で中國の領土保全・機會均等を謳
つた九ヶ國條約締結がその一例である。
ワシントン體制は日米協調體制であつたが、カリフォルニアの日本移民排斥問題と、大不況が齎
したブロック經濟〈自國の勢力圏を高關税で保護して外國商品を締出す政策〉で破綻した。
大不況は世界貿易を四分の一に縮小した。
この時、 「 持てる國 」 米英が率先、高關税政策を實施して自國市場から外國製品を締出す利己主
義を剥 ( ム ) き出しにしたのである。
1930年に米國が、1932年に英國が高關税政策を打出し、ブロック經濟化する。
貿易國家日本は行詰り、新たな市場を求めてシナ大陸に 「 進出 」 せざるを得なくなる。
日本はそれまで、幣原外交も田中外交も 「 對英米協調 」 を第一に据へてゐたが、英米の利己主義
で挫折した。英米と協調してゐたのでは喰へなくなつたからである。
喰へなくなつた日本は、一億の民を養ふ 「 生活圏 」 を求めて、1931年 ( 昭和6年 ) 9月に滿洲事變
を起した。關外の地を、 「 五族協和 」 の樂園にしようと切取つたのである。
1928年12月の張學良の易幟〈南京國民政府への歸順〉で滿洲に青天白日滿地紅旗を掲げてゐた南
京の國民政府は、これを日本の九ヶ國條約違反として國際聯盟に提訴した。
情勢不利と判斷した日本は國際聯盟を脱退し、 「 太平洋に關する四ヶ國條約 」 も、 「 シナに關す
る九ヶ國條約 」 も破棄してワシントン體制を崩壞させた。
孤立した日本は、英米協調に代る自立の立場を必死で探る。
日本の選擇は、シナ大陸 「 進出 」 と、同じ 「 持たざる國 」 獨伊と結ぶ道であつた。
「 持てる國 」 英米から締め出された 「 持たざる國 」 は、現状打破に突破口を見出さざるを得なか
つたのだが、この兩策とも、英米との對立を深めて行く。
「 別の道 」 を打開し損ねた日本
當時、正確に言ふと明治末期から昭和前期にかけて、石橋湛山が雜誌 『 東洋經濟新報 』 に據つて
「 小日本主義 」 を唱へてゐた。これはケインズ的構想を先取りするもので、領土を擴張したり、
資源を確保したりする帝國主義的膨脹政策〈大日本主義〉を痛烈に批判し、對米移民の不要・殖
民地の放棄・軍備撤廢を含む 「 小日本主義 」 による立國を主張したのである。
( 増田弘 『 石橋湛山研究── 「 小日本主義者 」 の國際認識 』 東洋經濟新報社、1990.6.21 )
第二次大戰後は常識になつた見方だが、
當時は餘りに斬新過ぎて、識者の認識を變へるに到らなかつた。
ここから得られる教訓は、かうである。
一握りの識者だけが理解してゐても、時代は動かせない。
大勢の人間を捲込んでその支持を得ない限り、力にはならない。
やがて日本は、華北に對する勢力擴張を圖り、シナや米英との對立を深めて行く。
この延長線上に支那事變と大東亞戰爭が發生するのである。
滿洲事變・支那事變・大東亞戰爭を導く根底に、第一次大戰後の日米關係の蹉跌があつた。
世界的な勢力と對立しては生き延び難いといふのは、
イラクのフセイン大統領だけの教訓ではない。
( 3 ) 日中の確執──滿洲事變から支那事變へ
シナとの確執
日シ衝突の淵源は、三つある。
第一に、日露戰爭と、その結果としての關東州租借地及び南滿洲鐵道の獲得。
日露戰爭は、義和團事件後滿洲に居坐つたロシヤを日本が必死の努力で追出した戰爭である。
この時清朝がロシヤを獨力で追出してゐたら、日本はロシヤと戰ふ必要などなかつた。
また、この時日本が戰つてゐなければ、滿洲事變よりずつと早く、ロシヤの傀儡政權が滿洲
に出來てゐただらう。
日本は自國の安全確保のため、國運を賭してロシヤと戰つた。
この結果、日本はシナ大陸に 「 血を流した權益 」 を得た。
島國〈海洋國〉が大陸に手掛りを得たのである。
大陸の泥沼に足を取られる第一歩を踏み出したとも言へる。
この權益は、米外交の大原則 「 門戸開放・機會均等 」 原則と正面衝突する。
あとから考へると、甚だ拙い一歩であつた。
この據點から足を引き抜くには、敗戰を經驗せねばならなかつたのである。
後智慧ながら、あの時鐵道王 E.H.ハリマン の申し出を入れて、米資と共同開發してゐたら、
米國との對立を大幅緩和できてゐた筈だ。
滿洲獨占が、米國との對立・米中による日本挾み撃ちを呼び起こしたのだから。
第二は、先に述べた 「 持てる國 」 英米の利己主義である。
先進國市場から締め出されて喰へなくなつた日本は、窮地を脱するため、シナ大陸に目を附けた。
新興國日本には、ほかに行く所が見當らなかつたのである。
第三は、北伐、つまりシナ國民黨によるシナ統一である。
この統一が頗る不完全だつたところに問題があつた。
治安不良が改善されなかつたのである。
これは蔣介石やシナ國民黨の責任といふより、
大き過ぎ、廣過ぎ、多過ぎ、雜多過ぎ、古過ぎるシナ自體に問題がある。
( 拙稿 「 中國工業化の問題點 」 『 極東・アジア の政治と經濟 』 泰流社、1987.9.30 )
日本は初め、 「 滿蒙の權益 」 を守るため、シナ統一の滿蒙への影響を遮断しようとした。
これは、シナ國民黨の側から見れば、シナ統一への干渉である。
「 濟南慘案 」 として、蔣介石が日本の 「 干渉 」 に對する報復を膽に銘じた ( 後述 ) のも
無理はない。
では、どうすれば良かつたのか。
日本側は居留民を戰亂から保護する必要に迫られてゐた。
當時、國民黨政權への理解と讓歩を示した幣原外交は、
侮日 ( ブニチ ) を呼んだだけで無力さ暴露した。
外交交渉だけでは、在留邦人の安全を守れなかつたのである。
【追記】幣原外交が 「 軟弱 」 と罵倒され、國民から見放された典型が南京事件です。
事態の經緯は、例へば 『 日本外交史辭典 』 を御覧あれ。事件が起きたのは、
北伐軍 ( 國民革命軍 ) が南京に到着した 1927年 ( 昭和2年 ) 3月24日のことです。
實態は下記の如し ( 佐々木到一 『 ある軍人の自傳 』 普通社、昭和38.6.30, 139頁 ) 。
「 我が在留民は全部領事館に收容され、而も三次に亙つて暴兵の襲撃を受けた。
「 領事 ( 森岡正平 ) が神經痛のため病臥中を庇う夫人を良人の前で裸體にし、薪炭庫に
「 連行して27人が輪姦したとか。三十數名の婦女は少女に到る迄凌辱せられ、現に我が
「 驅逐艦に收容されて治療を受けた者が十數名もゐる。根本少佐が臀部を銃劍で突かれ、
「 官邸の二階から庭に飛び下りた。警察署長が射撃されて瀕死の重傷を負ふた。抵抗を
「 禁ぜられた水兵が切歯扼腕してこの惨状に目を被ふてゐなければならなかつた、等々。
「 然るに、だ。外務省の公報には 『 我が在留婦女にして凌辱を受けたる者一名も無し 』
「 といふことであつた。南京在留民の憤激は極點に達した。居留民大會を上海に開き、
「 支那軍の暴状と外務官憲の無責任とを同胞に訴へんとしたが、それすら禁止された、
「 等々。實にこれが我が幣原外交の總決算だつたのである 」
田中内閣は、北伐干渉のためでなく、在留邦人保護のために山東出兵をやつたのだが、
北伐軍との行き違ひ ( 日本側は、北伐軍の不法と主張する ) があつて、
事件が擴大してしまつた。
問題の根源は、シナ大陸の治安の惡さ ( 中華民國が獨立國の態を成してゐなかつたこと )
にあつたのだ。
北伐完成後の南京を首都とする中華民國國府政權も、なほ統一國家からは程遠く、義和團
事件後の 「 北清事變ニ關スル最終議定書 」 ( 1901.9.7 調印 ) 第七條で得た駐兵權を、各國
とも返上できる状態ではなかつた。
かういふ無法状態は、奇麗事では對處できない。
當時の日本も、あれこれ模索するほかなかつたのである。
「 十五年戰爭 」 説の誤り
日シは、滿洲事變以來15年間戰つてゐたとする説がある。
これは、事實認識を誤つてゐる。
第一に、日シは15年間繼續して戰つてゐた譯ではない。
第二に、滿洲事變と支那事變は異質である。
滿洲事變は關東軍の謀略で始つた。
【追記】その前に、奉天軍の執拗な侮日反日抗日の挑發がありました。
これについては、例へば下記を參照されたし。
( 1 ) 1931年 ( 昭和 6年 ) 12月の重光公使の報告書:
服部龍二編著 『 滿洲事變と重光駐華公使報告書 』
( 日本圖書センター、2002.10.25 ) 2800圓+税
序 ( ツイデ ) に、支那事變を含んで當時のシナの實情を傳へる文獻を擧げてをきます。
( 2 ) 1933年 ( 昭和 8年 ) 發行の書物の翻譯:
ラルフ・タウンゼント 『 暗黒大陸中國の眞實 』 ( 芙蓉書房、2004.7.20 ) 2300圓+税
( 3 ) 1935年 ( 昭和10年 ) に米國外交官が書いた報告の翻譯:
ジョン・マクマリー 『 平和はいかに失はれたか 』 原書房、1997.7.28 ) 2800圓+税
( 4 ) 1938年 ( 昭和13年 ) 初期に在米の日本人が英文で書いた本の邦譯:
K.カール・カワカミ 『 シナ大陸の眞相 1931-1938 』 ( 展轉社、平成13.1.7 ) 2800圓+税
( 5 ) 1938年 ( 昭和13年 ) 10月の武漢陷落後に書かれた書物の戰爭中の翻譯:
フレデリック V.ウィリアムズ 『 背後より見たる日支事變 』
( 南支調査會、昭和14.7.25 ) 壹圓貳拾錢
本書の内容は、目次を一瞥 ( イチベツ ) すれば判ります。
第一章 西安事件までの日本の純情な努力
蔣介石を操る英國ソ聯の排日計畫
第二章 西安事件はソ聯の計畫であつた
對日挑戰手段と邦人虐殺の事實
第三章 此勇武を見よ、而して此奸策を知れ
ソ聯と英國の卑劣な宣傳に警戒せよ
第四章 焦土戰術は軍閥の常套手段である
敗北と非道を覆ひ隱す蔣の宣傳策
第五章 日本は滿洲に於けるサンタクローズ
張鼓峰事件でソ聯の内兜見透かさる
第六章 統計の示す日米貿易の實状を檢討せよ
日米提携すれば東洋の一大市場を獲得
第七章 自國民を阿片で爛 ( タダ ) れさせた支那の軍閥
日本は世界中で最も宣傳の下手な國
第八章 支那國民と信用取引は絶對に不可能
支那には衛生設備も無い劣等野蠻國
第九章 米國内に蔓 ( ハビコ ) つて來た支那の秘密結社
米國人は何も知らずに支那に同情す
第十章 排日煽揚の大ペテン映畫製作の眞相
亞細亞の問題は亞細亞に解決させよ
第十一章 ソ聯は昔から支那を喰物にしてゐる
日本は獨力で支那の崩壞を防衛する
第十二章 米國の干渉を誘引せんとする奸手段
在支布教者等も日本の正義を認めた
第十三章 日本軍の廣東攻略は英佛兩國の責任
支那開發は日米提携して初めて可能
これを書いた直後、以下の新譯を發見し、早速一讀しました。
日本はシナ・滿洲にとつて 「 救世主 」 だと言つてゐます。
支那事變つてどんな戰爭だつたか、全然知らぬ若い人に是非讀んで頂きたい!
( シナの實状は日本人の想像を絶しますから、讀んでも急には判らぬでせうが、
( 讀まぬともつと判らない儘ですよ )
フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ/田中秀雄譯 『 中國の戰爭宣言の内幕:日中戰爭の眞實 』
( 芙蓉書房出版、2009.11.30/12.25 第二刷 ) 1600圓+税
原書:Frederic Vincent Williams, Behind the news in China, NY, 1938
一つ、エピソードを引用してをきませう ( 第二章、30-33頁 ) 。
蔣介石は西安事件の監禁で、即時抗日戰爭を始めるやう約束させられたやうです。
だが、ドイツ軍事顧問團が反對しました。 「 準備に 2年かかる 」
抗日戰の延期に怒つた中共黨員が反撥しました。
じやあ、日本人を片つ端から殺して日本軍を挑發しよう!
ウィリアムズが書きます。
「 私が住んでゐた北支の 150マイル 以内に二百名の日本人家族が住んでゐたが中共黨員
「 に殺された。その中、20名ほどの幼い少女が家から引きずり出され、燒いた針金を
「 咽喉に突き刺され、村の街道に生きた儘吊り下げられた。中空に悶え苦しむに委さ
「 れ、周りを圍んだ共産分子が囃し立て、苦しむ子供達の搖れる身體に小銃を打込み、
「 穴だらけにした 」
盧溝橋事件の前の侮日・抗日・反日では、こんな事態が各地で續いてゐたのです。
出先が既成事實をつくり、日本政府は事後承諾させられたのだが、計畫主體が明確であつた
ため、後始末もちやんとできた。
ところが支那事變は、日本政府にとつても日本陸軍にとつても、
「 不用意に捲込まれた戰爭 」 である。
目的なく、名分なく、攻勢終末點なく、だから足が抜けず、終りなき戰ひになつてしまつた。
この異質な二つの戰爭を繋いで一緒にしたのでは、實態が理解できなくなる。
第三に、日本の軍國化の始りは昭和 5年 ( 1930年 ) のロンドン海軍軍縮條約締結の際の
統帥權干犯問題であり、決定的には昭和11年 ( 1936年 ) の二二六事件であつて、
昭和 6年 ( 1931年 ) の滿洲事變ではない。
滿洲事變は轉機ではないのである。
日本人の獨善的發想
支那事變の教訓は無數にある。
島國は大陸に深入りしてはいけない、足を取られて抜けなくなる、といふのが第一の教訓である。
しかし、ここでは、日本人の發想の缺陷について觸れてをきたい。
それは、單純思考といふ點である。 「 うまく行かなかつた場合 」 の用意がない。
論理的能力の缺如といふほかない。
その好例が、昭和13年 ( 1931年 ) 1月16日に出した近衞内閣の 「 爾後國民政府を對手とせず 」 聲明
( 第一次近衞聲明 ) である。現に戰つてゐる相手を 「 相手としない 」 とは、何といふ獨善!
當然、支那事變はこのあと泥沼化する。
近衞内閣は苦勞の末、第二次近衞聲明で先の 「 對手とせず 」 聲明を取消し、またあらゆる傳手 ( ツテ )
を辿 ( タド ) つて蔣介石政權と話をつけようとするが、 「 覆水盆に還らず 」 で、
獨善的聲明は最後まで祟つた。
話を元へ戻して、滿洲事變のあと、日本は滿洲國を建國するが、
これで日中の妥協が不能となつたし、日米關係も不調に向ふ。
日本は滿洲を 「 關外 」 で本來のシナ領ではないと見たのだが、
時代はさういふ見方を許さなくなつてゐた。
張學良の易幟以來、滿洲は中華民國領になつてゐたし、
日本が大正 4年 ( 1915年 ) 1月に提出した 「 二十一箇條 」 要求以來、
盛んになる一方だつたシナ民族主義も、それを許さなくなつてゐた。
當時の日本の指導者は、時代の潮流を見抜けなかつたのである。
日本は國民政府に 「 滿洲國承認 」 を何度も迫つてゐるが、
日本人の獨善がここにも如實に現れてゐる。
滿洲國を承認した途端に、蔣介石は賣國奴となつてシナの指導者の地位を保てなくなり、
その承認は意味を失ふ。シナ指導者としては、黙認しか有り得なかつたのだ。
にも拘らず、日本の指導者はしつこく蔣介石に滿洲國の承認を迫つた。
この要求が無效であることが、どうして判らなかつたのであらうか?
日本人には日本的發想が骨の隋まで染み込んでゐて、異質の發想を理解できぬものらしい。
このことは、現在も變つてゐない。
日米摩擦は、日本人が日本的發想の枠を超えられぬことが大きな原因となつてゐる。
日シ全面衝突へ
1933年 ( 昭和 8年 ) 、ヒトラーがドイツで政權を擔つたのと時期を同じくして
アメリカで F.D.ローズヴェルト政權が誕生した。
左派に甘く、獨日に辛く、シナに同情的な民主黨政權である。
ローズヴェルト大統領は 1933年11月17日、ソ聯を承認する。
アメリカのソ聯承認は、列國に較べて出遲れてゐたのだが、ローズヴェルト大統領の左派好み
を示す出來事でもあつた。ローズヴェルト大統領は第二次大戰でソ聯を助け、戰後アメリカと
張り合ふ力量を持つた大國に育ててしまふのである。
話が先走つてしまつたが、少くとも、この承認で、後の米ソ聯繋の基盤ができたことに
注目してをかう。
日シ關係を戰爭に向けた一大轉換點が 1936年 ( 昭和11年 ) 12月の西安事變である。
1935年夏にモスクワで開かれた第七回コミンテルン大會で採擇された反ファシズム人民戰線戰術
に、シナ國民黨が組込まれた。
これで、日シ衝突に對してソ聯が國民政府を支援する態勢ができた。
國内的にも、爭つてゐた國共間に抗日協力態勢ができた。
そして、昭和12年 ( 1937年 ) 7月 7日、運命の盧溝橋事件が發生する。
これは初め、單なる局地紛爭と思はれた。
現に、7月11日には停戰協定が成立してゐる。
しかし、抗日態勢を整へてゐた國民政府側が、現地の停戰を押流した。
7月25日の廊坊事件、26日の廣安門事件と相次ぐシナ側の停戰協定無視に、
それまで自重してゐたシナ駐屯軍が反撃を開始した。
【追記】7月28日、北支駐屯軍が堪 ( タマ ) り兼ねて總攻撃開始。
7月29日、通州で冀東政權の保安隊が日本人 250人をなぶり殺しにした。
ウィリアムズの 『 中國の戰爭宣傳の内幕 』 を譯した田中秀雄さんは、
「 支那事變が始つた時、我國の報道機關は、どうして通州事件のおぞましい殘虐寫真を
「 世界にばら撒かなかつたのでせう? 日本の軍事行動を世界は支持せざるを得なかつた
「 でせうに 」 ( 144頁 ) と、日本人の宣傳下手を歎いて居られます。
通州の日本人虐殺については、下記が生々しく傳へてゐます。
梨本祐平 『 中國のなかの日本人 』 ( 同成社 ) 1500圓
なほ、岩波書店の 『 近代日本綜合年表 』 は各版とも、シナ側の挑發である
「 廊坊事件 」 「 廣安門事件 」 「 通州事件 」 を載せてゐません。
これでは、停戰協定ができてゐた北支で日本軍が總攻撃に出る理由が摑めません。
8月13日の第二次上海事變で戰鬪が中支に擴がって日シ全面衝突となり、
簡單に収拾できる見通しがつかなくなつた。
( 盧溝橋事件とその擴大については、廊坊事件・廣安門事件を含めて、
( 山岡貞次郎 『 支那事變──その秘められた史實 』 原書房、昭和50.8.15、が詳しい )
日本側は、首都南京を落とせば蔣介石がおとなしくなり、抗日を引つ込めると簡單に考へたが、
とんでもない、南京陷落は泥沼の始りとなつた。
海洋國の日本に、大陸經營など、初めから 「 出來ない相談 」 だつたのである。
蔣介石の日中衝突豫想
蔣介石は、昭和 3年 ( 1928年 ) の濟南慘案 ( 山東出兵 ) で、
「 シナの統一・建國を妨害する日本 」 とは近い將來、衝突せざるを得ないと覺悟を決めた
やうだ。
同年 5月 9日の日記に、かう書いてゐる。
( 『 蔣介石秘録 ( 8 ) 』 産經新聞社出版局、昭和51.4.30, 40頁 )
「 少しでも人間らしい心を持つてゐるなら、どうしてこの恥辱を忘れられよう。
「 何を以てこの恥辱を雪ぐべきか。ただ自彊あるのみ 」
來るべき日本との衝突に備へて自立自強せねばならぬが、それには先づ國内の癌である共産黨を
掃蕩しなければならない〈 「 安内攘外 」 で先ず剿共〉。
それまでは、外國の力を藉りて日本を抑へる〈 「 以夷制夷 」 「 遠交近攻 」 による日本牽制〉。
これが蔣介石にとどまらず、清朝の李鴻章以來、今日まで、歴代のシナ指導者が日本に對して
とった基本政策である。
外國の利用では、滿洲事變で國際聯盟に提訴し、日本を脱退に追い込んで成果を擧げた。
アメリカへの期待もあつた。
1927年 ( 昭和 2年 ) 8月13日、蔣介石が下野中の エピソードを、董顯光の 『 蔣介石 』 が
かう傳へてゐる ( 邦譯は日本外政學會出版、昭和31.1.15, 90-91頁 ) 。
當時、蔣介石は浙江省雪竇寺に隱遁してゐたが、ここを訪れた米國人記者 2人に、
米國の工業と經濟の發展について聞いたことを詳しく語つて曰く、
「 自分は將來シナも同じ道を辿らねばならぬと思つてをり、自分でそれを實地に見たい。
「 今やシナは、米國を世界で唯一の、そして眞實の友人と見做さなければならない 」
米國を褒めそやすのはお世辭と迎合の臭ひがするが、米國の支援を願ふ氣持は本音だつたに
違ひない。國民政府は軈 ( ヤガ ) て、米國との聯繋によつて抗日戰爭を勝ち抜くのだから。
シナ國民黨と米國は、浙江財閥 ( 蔣介石の妻、宋美麗もその一員 ) を通じて密着してゐた。
蔣介石が 「 米國がワシントン會議の精神を保持し續けるやう望む 」 と附け加へたのは、
對日壓迫政策を續けてほしいとの要請である。
蔣介石は、第二次大戰が近いと豫想してゐた。
資料が三つある。
第一の資料:角田順博士の引用例。
1928年 ( 昭和 3年 ) の暮 ( 12月10日? ) 、蔣介石は國民黨中央黨部 ( 中央本部のこと ) で講話
して、かう見通しを語つたといふ ( 角田順 「 解題 」 /日本國際政治學會 太平洋戰爭原因研究
部編 『 太平洋戰爭への道 ( 4 ) 』 朝日新聞社、昭和38.1.15、424頁 ) 。
第二次大戰が15年を出 ( イデ ) ずして勃發する。それ以前に 「 國防上の措置を確定し、他の
牽制を受けないやうにすれば、シナは滅亡しないばかりか、この機會に應じて完全獨立を
達成できる 」 と。
この講話は、現在發行されてゐる蔣介石の全集では確認できない。
12月10日に中央黨部で講話してゐるが、角田博士が引用した部分は出て來ない。
( 漢族は史料を好き勝手に改竄するから、全集に載つてゐないから無かつたとは言へない )
第二の資料:1934年 3月18日の蔣介石講話。
各省高級行政人員を接見した時の講演 「 今後の政治改革路線 」
( 『 先總統 蔣公全集 ( 1 ) 』 台北、中國文化大學出版部、1984, 820頁 )
この講話で蔣介石は、1936年 ( 昭和11年 ) に第二次大戰が起りさうであるといふ。
なぜなら、1935年は日本の危機だからだ。
その根據を彼は五つ列擧する。
1 ) 海軍軍縮條約が 1935年に期限切れとなり、英米が軍擴に乘出す。
2 ) 日本の國際聯盟脱退で一切の權利義務が終る。當然、日本海軍の基地南洋群島も返還され、
日本海軍は太平洋の基地を失ふ。
3 ) 1935年に米海軍の大型巡洋艦計畫が完成し、日本海軍を引離す。
4 ) 同年に英國のシンガポール要塞化工事が完成し、日本に睨みを利かす。
5 ) ソ聯は第二次五ヶ年計畫 ( 1933-37年 ) で軍擴中である。ソ聯は第一次五ヶ年計畫同樣、
1-2年早く超過達成するだらう。從つて日本は1936年に危機を迎へる。
かうして列強が日本を追詰め、1937年までに第二次大戰が勃發すると蔣介石は豫測し、この戰爭
こそ、シナ復興の好機だと捉へる。
「 第二次大戰とは、諸君よくご存じのやうに、シナを爭ふものであり、シナ問題の解決を圖るも
「 のである。シナについて言へば、第二次大戰は、亡國の時期であると共に、復興の機會でもあ
「 る。この期に及んで我々が自國保全能力を持たなければ 『 俎上の魚 』 となり、亡國の外あるま
「 い。從つて、我國我民族の運命は、長くともこの三年内に決する。この三年間に我々が艱難辛
「 苦・危機に備へ、力を盡して復興の基礎を築くことに成功すれば、我々は危ふきを轉じて安き
「 となし、弱きを轉じて強きとなすことが出來よう 」
第三の資料:蔣介石が 1934年 7月24日に行つた廬山士官訓練團に對する講演
「 外侮の防禦と民族の復興 」 ( 『 先總統 蔣公全集 ( 1 ) 』 875頁以下 )
「 日本は、世界各國を相手にして決戰する能力を持たぬ限り東亞を制壓できず、太平洋問題も解
「 決できない。……シナは各國共同の殖民地だから、日本が中國を獨占するつもりなら、世界の
「 征服が先決となる。日本に世界を征服する力はないので、シナを滅ぼすことも、東亞を制する
「 こともできない。現在、日本人には軍事力があり、シナを侵略する能力も、列強の一國と戰ふ
「 能力もあるが、列強に勝ち、世界を制する能力はない。……
「 私はここで諸君に斷言する。日本は列強を制する力がないからシナを併呑できず、東亞も制壓
「 できない、と。……
「 軍事力では日本は強く、三日以内に我がシナの沿海地方を全部占領できよう。更に重慶や成都
「 までやつて來れよう。そこで、現代國家の軍事作戰遂行能力を殆ど持たないシナが、今、起ち
「 上がることは、自殺行為である。だが自分の見るところ、日本の目標は中國ではなく、陸軍は
「 ソ聯を、海軍は英米を目標にしてゐる。日本は何れ、失敗すること確實な大戰爭を惹起するも
「 のと豫想される。その時こそ、わが民族復興の好機である 」
かなり日本の強さを買ひ被つてゐるが、戰略的判斷は見事なまでに確かである。當時の日本側の
いい加減な判斷に較べ、さすが抗日戰爭を勝ち抜いた英雄と、尊敬の念を禁じ得ない。
だが蔣介石はこのあと、判斷を誤る。日本軍は 「 意外に弱い 」 と誤認したらしいのである。
シナの日本輕視
蔣介石は、1935年 ( 昭和10年 ) 8月12日に起きた永田鐵山軍務局長斬殺事件や、翌1936年 ( 昭和11
年 ) の二二六事件を見て、帝國陸軍は内部抗爭でがたがたと思ひ込んだらしい。
二二六事件の半年後に起きた綏遠事件 ( 1936年11月23日。百靈廟事件ともいふ ) も、溥作義軍が
破つたのは内蒙軍ではなく、關東軍だと信じた ( 董顯光 『 蔣介石 』 195頁 ) 。
宋哲元も關東軍與し易しと考へ、武力で通州を恢復して殷汝耕の冀東政權防共自治政府を倒さう
と企圖して石友三・張璧らに計畫を樹てさせてゐる。石・張らが躊躇 ( タメラ ) つてゐるうちに日本
側が警備を強化し、通州攻撃計畫は未遂に終つた ( 李雲漢 『 宋哲元與七七抗戰 』 台北、傳記文學
社、1973.9.15, 180頁 ) 。
國民政府軍の日本軍輕視が、日本のシナ駐屯軍に對する輕侮・挑發行動を頻發させた。
日本のシナ輕視
日本側も相手を輕視してゐた。
盧溝橋事件勃發の報に接した日本陸軍首腦部は、積極派と不戰派に分れ、結局、積極派が押し切
るのだが、彼らは 「 一撃派 」 だつた。最近のシナには日本を輕視する動き ( “抗日・侮日" とい
つた ) が目立つので、この際一撃を加へて日本への反抗を止めさせよう、といふのである。
當時の國際情勢に對しても、シナ内部の情勢〈西安事變後、國民黨と共産黨の間で一致抗日の態
勢ができてゐた〉に對しても、驚くべき無知・無理解を示してゐる。
これが日清・日露の嚴しい戰ひを切抜けた同じ國民とはとても思へないほどの粗雜さである。
一撃派の代表、杉山元陸軍大臣は天皇に 「 三ヶ月で終ります 」 と奏上してゐるが、
それが彼らの判斷の甘さを示してゐる。
日中關係を振返れば振返るほど、日本もシナも 「 彼ヲ知ラス己ヲ知ラス、戰フ毎ニ必ス殆シ 」
( 孫子謀攻篇 ) だつたと痛惜の念を禁じ得ない。
( 4 ) 大東亞戰爭──追ひ詰められた日本の反撃
對米衝突への道
シナ事變をこじらせた日本は、北部佛印に進駐し ( 1940年/昭和15年 9月22日 ) 、
ナツィス・ドイツ と結ぶ〈1940年/昭和15年 9月27日、第二次近衞内閣が日獨伊三國同盟調印〉など、
對米衝突の方向へ進んだ。
1941年 ( 昭和16年 ) 7月28日の南部佛印進駐が對米衝突の決め手となつた。
米・英・蘭印が直ちに日本資産を凍結した。
8月 1日には、米國が對日石油輸出を停止する。
石油輸出停止は、相手國の息の根を止めることを意味する。
1935年10月に イタリヤ が エチオピア を侵略したとき、國際聯盟總會が規約第16條に基き對伊經濟制裁
〈武器・原料の禁輸〉を決議しながら、石油の輸出を除いたのは、石油の禁輸が相手を追ひ詰め
ることが懸念されたからであつた ( * ) 。
( * ) 「 先年國際聯盟が エチオピア戰爭に際し、伊太利に對して經濟封鎖を決議したにも拘らず
石油の對伊輸出のみは之を禁ずることが出來なかつたのも、それは經濟封鎖以上に宣戰
を意味するものとされたが爲めにほかならない 」 ( 有川治助 『 ロックフェラー 』 昭和圖書
株式會社、昭和14.6.10, 序、1頁 )
「 日本の南部佛印進駐が原因であつたとは言へ、石油、鐵等の輸出禁止、在米資産の凍
結、パナマ運河の通航禁止は國家・國民生活の運營を不可能にするもので、そのショック
はアメリカのやうな大國で自給自足さへ不可能でない國では想像もできないであらう。
石油をはじめ天然資源がほとんどない日本のやうな國は、對外貿易なくして一日も存續
できないのである 」 ( 伊部英男 『 開國──世界における日米關係 』 ミネルヴァ書房、昭和
63.8.20, 255頁 )
米國がかういふ前例を承知の上で、日本に對して石油の禁輸に踏み切つたのは、日本を追ひ詰め
ることが意圖されてゐたのだらう。9月 6日の御前會議が、 「 10月下旬を目途として對米英蘭戰爭
準備を完成する 」 と決めたのは、當然の對應であつた。
それでもなほ日本は堪へ、日米交渉を續けるが、あとは衝突しかなかつた。
對米協調に復歸しようとした日本
1941年 ( 昭和16年 ) 6月22日、ドイツがソ聯に攻め込んだ。
【追記】ヴェルナー・マーザーの 『 獨ソ開戰:盟約から破約へ 』 ( 學習研究社、2000.8.16 ) によると、
獨ソ戰爭とは、先づ スターリンが 1940年春から對獨戰爭の準備を始め、
強力な軍備擴張を推進し始めたことに始まります ( 313,319,484頁 ) 。
ソ聯の攻撃準備を察知したヒトラーが、先手を打つて1941年4月 ( 實施は遲れて 6.22 )
「 豫防戰爭 」 ( 347,350頁 ) を實施しました。
ヒトラーが 「 冷血な打算家 」 と稱んだスターリンは、當時軍隊を國境地帶に配備中で、
攻撃第一梯團の配備完了が7月10日、第二梯團の配備は7月半ばの豫定でした ( 483,501頁 ) 。
ソ聯側は、6月22日にドイツ軍の攻撃があることは承知してゐましたが、自軍が攻撃發動を
準備中なので 「 挑發に乘るな 」 と嚴命。大肅清で萎縮してゐたスターリンの部下連中は、
ドイツ軍の攻撃を受けても 「 命令 」 なしには動けず、緒戰は大敗しました。
でも、その後は頑強に戰ひ、ヒトラーの目算 「 1ヶ月以内にソ聯瓦解 」 は成らずでした。
ソ聯は極東で日米を噛み合はせるべく大童 ( オホワラハ ) で畫策してゐました ( 314頁 ) 。
スターリンは本氣で世界の共産化を考へてゐたのです。
序に言へば、毛澤東も本氣で世界の共産化を考へてゐました。
( スターリン はソ共中央委員會に 「 ソヴエト聯邦は最後の強國として登場する 」 と述べてゐる )
そして二人とも、それを自分が主導するつもりでゐたのです。
共産主義といふ ニヒリズムが 人を狂はせること、斯くの如し!
( 共産主義の起源は19世紀帝政ロシヤのナロードニキの人類救濟思想といふニヒリズム。
( 彼らは 「 世界人類を救ふためには、人類の半分を叩き殺しても神は嘉 ( ヨミ ) される、
( といふ獨善的信念を持つてゐました。これが共産黨の肅清やプロ獨裁になります )
なほ、獨ソ戰爭が 「 ドイツの對ソ先制攻撃 」 だつたことについては、下記も參照されたし。
拙稿 「 ローズヴェルト大統領と第二次大戰 」
( 『 帝塚山大學教養學部紀要 』 第57輯、平成11./1999.3.25, 62-71頁 )
三國同盟を踏みにじるドイツの身勝手な行為は、日本に三國同盟の解消を考慮させた。
これは、日本が再びアングロ・サクソンとの協調路線に復歸する好機であつた。
日本の經濟構造・貿易構造からして、米國との關係なしに日本がやつて行けぬことは、
誰の目にも明らかだつたからである。
だが、日米交渉はうまく行かなかつた。
これまでの實績、とりわけシナに對する陸軍の勝手な振舞と、
その陸軍を政府が統制できないでゐることが、
米國指導者に抜き難い對日不信感を植ゑ附けてゐたからである。
近衞内閣は、最後の力を振り絞つて對米協調を圖るが、遂に成らなかつた。
米國の固い態度〈F.D.ローズヴェルト大統領の ナツィス・ドイツ嫌ひ、軍國日本嫌ひと、
ハル・ノートに見られる條件の一方的押し附け〉が變らぬ限り、
日米交渉が成功する見込みはなかつたのである。
【追記】この文章では言及してゐないが、實は日米の背後で、スターリンの日米衝突工作が
米國でも日本でも強力且つ着實に進行してゐたことを忘れてはならない。
世界中の知識分子の頭腦を支配した赤化工作については、これまで紹介した下記の文獻
近衞文麿の手記/中川八洋の著書/ 『 ヴェノナ 』 ( PHP ) / 『 赤いゲッベルス 』 ( 岩波書店 )
/ 『 別冊正論15 中國共産黨 』 / 『 謎解き 「 張作霖爆殺事件 」 』 ( PHP新書 ) ……
などのほかに、もう 2冊 紹介しよう。
コーネル・シンプソン 『 國防長官はなぜ死んだのか:フォレスタル 怪死と戰後體制の大虚構 』
ジョゼフ・マッカーシー 『 共産中國は アメリカ がつくった:G.マーシャルの背信外交 』
( 共に、成甲書房、2005.12.5/2005.12.25、共に 1800圓+税 )
大東亞戰爭の戰爭目的
日本は米國に追ひ詰められて對米開戰に踏み切つた。
この期に及んでは對米開戰は避けられなかつたと思はれるが、問題があつた。
戰爭終結への準備が不足してゐたことである。
時の東條英機首相は 「 人間、時には清水の舞台から飛び下りる決心が必要 」 と言つてゐるが、
日本人の單純思考を暴露してゐる。
飛び下りて失敗した時の用意が出來てゐないからである。
「 これしかない 」 と思ひ込んで、あとのことも考へずに突進する。
日本人の恐ろしいほどの單純さ!
ところで、對米戰爭に於る日本の戰爭目的は何だつたらうか。
伊部英男氏は、日本が戰爭によつて米國に認めさせられる最善の條件は、自由貿易體制と
滿洲國の承認だつた、と書いてゐる ( 『 開國 』 272頁 ) 。
滿洲國の承認は、それまでの經緯と米外交の基本方針からして不可能だつたと思ふが、
日本は明確な戰爭目的を持つてゐたのだらうか。
先に述べたやうに、支那事變の戰爭目的を日本は持つてゐない。
「 東亞新秩序の建設 」 などと抽象的な表現をとつたのは、具體的な目的がなかつたからである。
中國大陸の支配などは考へてゐなかつたし、出來もしなかつた。精々 「 友好政權 」 をつくつて
日本の權益を守らうとしたに過ぎない。
中國との戰ひが支配のためでなく、米國とも共存するほかなかつたとしたら、日本は一體何を求
めて對米戰爭に踏み切つたのだらうか?
「 大東亞共榮圈 」 とか、アジアから白人の支配を排除するとかは、對米戰爭に踏み切つてからの
合理化であつて、開戰當初の目的ではなかつた。
考へられる限りでは、米國に東アジアの現状を認めさせようとした、といふことであらうか。
門戸開放とか、中國の領土保全とか、自國の國益を普遍的原理的表現にくるんで主張する米國に
對して、日本は特殊權益・特殊事情を認めさせようとしたのである。
滿洲事變以來の日米關係を見ると、それは叶はぬ願ひだつたとしか思へない。
結局、日米は衝突するほかなく、日本は敗戰によつてしか日米關係を調整できなかつたのだらう。
殆どの都市を燒かれ、多數の死傷者を出さなければ日米關係も日華關係も修復できなかつたとは、
餘りにも痛ましい話である。
しかし、あの徹底抗戰があつたからこそ、戰後の日米關係はうまく行つたのだ。
米國が善戰した日本を見直し、復興を助けてくれた。
日本が日米戰爭を避けて中立を保つてゐたら、戰後の日本がどうだつたか、を考へれば、
戰爭なしに日米關係が調整できたとは信じ難い。
大東亞戰爭で死んだ軍民の靈よ、戰後の日本の安定・平和・繁榮はあなた方の犧牲のお蔭である。
以て瞑せられよ。
【追記】この邊の記述は、我ながら甘過ぎます。
米國は軍事占領中に日本弱體化の時限爆彈を幾つも重複して仕掛けました。
戰前の歴史の抹殺、戰前の日本語を讀めなくした國語改革、皇室の斷絶への仕掛け、
個人主義 ( 實は利己主義 ) の刷り込みによる日本國民の孤立分散化、等々。
日本人から魂を抜く仕掛けが 1990年代以降 利いて來て、
日本は今や半分腐つて來たやうに見えます。
女子サッカー大和撫子日本のワールドカップ優勝を見ると、
まだ望みなきに非ずと思へて來るのですけれども。
ソ聯を育てたFDR
日本やドイツの現状打破の行動は米國に阻止されたが、米國にもおほいに問題がある。
左翼かぶれの米國民主黨〈F.D.ローズヴェルト〉がソ聯と結んで反共の日獨を潰したため、
米國が日獨の身代りになつてソ聯と直接對峙する羽目になつた。
第二次大戰後の東西冷戰は、その意味で、米國民主黨政權の左翼偏向の産物である。
スイスの外交官であり、歴史學の教授でもあつた カール J.ブルクハルト が、
親友の劇作家 フーコー・フォン・ホーフマンスタール に宛てて 1925年に送つた書簡がある。
ブルクハルト は、ロシヤの膨脹的體質こそ、西側諸國にとつての眞の危險だと指摘した上で、
かう書く ( ラインハルト・ゲーレン 『 諜報・工作──ラインハルト・ゲーレン回顧録 』 ( 讀賣新聞社、1973.3.5,
14-15頁 ) 。
「 ドイツと日本は、ロシヤの擴張に對する天性の敵對者だ。
「 ところが西側、つまり ロシヤの擴張によつて長期的には最も脅威を受ける筈の英帝國と
「 アメリカ合衆國は、ドイツ・日本を弱めるため全力を擧げてゐる。
「 日英同盟の廢棄 ( もうあれから三年になるだらうか? ) は、私からすれば、全く二次的な
「 北米の權益に對する極めて近視眼的、且つ不吉な屈服のやうに思へる。
「 序に言はせて貰へば、ロシヤに關する限り、日本はドイツよりも遙かに確實な要素だ。
「 ドイツでは、フランスに對抗して結ばれた古い同盟の記憶、例へば フリードリヒ 二世の幾つか
「 の戰爭の思ひ出などがいまだに生き殘つてゐる。……
「 國内的な心醉や情熱を全て外交の分野に投影したがるのは、民主主義國の特徴のやうに思へ
「 るが、これはとかく實に恐るべき害惡を惹き起し易いものだ 」
日本の反省
「 あの戰爭 」 に對する日本人の反省は澤山ある。
日本の生存の道を見附け損つたこと、
日本の安全と生存といふ大局的判斷を棚上げにして、中目的や小目的に振り回されたこと、
國論が分裂し、纏められなかつたこと、
( 外務省・陸軍省・海軍省/陸軍省と參謀本部/中央と出先など )
出先の勝手な振舞を抑制できず、止め處無く國力を消耗したこと、等々。
滿洲で留つてゐればまだ救ひようがあつたのに、
華北へ、華中へと際限なく勢力圏を擴大して大陸に深入りしてしまつた。
( 島國・海洋國が大陸に深入りすると、足を取られて抜けなくなるのである )
シナだけで持て餘してゐたのに、更に南方 ( 佛印 ) にまで手を擴げ、
米英蘭相手の戰爭までやつてしまつた。
( 「 相手を孤立させ、こちらは味方と中立を殖やすといふ勝つ原則 」 の反對をやつた )
國力に限りがあるのに、攻勢終末點を考へぬ攻撃など、
どうしてやつてしまつたのだらう?
追詰められ、孤獨に堪え兼ねて逆上したのであらうか?
【追記】疑問型にしてゐますが、答は 「 幕僚國家の悲劇 」 「 指導者不在 」 です。
つくづく冷靜に 「 彼ヲ知リ、己ヲ知ル 」 必要を思ひ知らされる。
現在、日本企業があちこちで貿易摩擦を起してゐるが、彼らに 「 攻勢終末點 」 があるのだらうか?
日本人は 「 あの戰爭 」 から教訓を學んでゐるのだらうか?
「 あの戰爭 」 の教訓は、二つある。
第一、獨善は必ず行き詰まる。
第二、共存共榮しか、人類が生き延びる道はない。
( 平成23年/2011年 7月31日 増補版作成 )