> コラム > 伊原吉之助教授の読書室
お見事、撫子日本!
前 言
「 讀書室 」 には似合はぬが、現代史研究者として一言したくなつたので書きます。
私は、中學一年生の夏から二年生の夏まで丸一年間、堺中蹴球部に在籍し、
走り込むこと ( 持續走 ) と、ボール扱ひの基本技を習得しました。
蹴ること、ドリブルすること、パスワーク、大きく蹴つたボールを受止める技、
ヘディング、ボールの位置に應じて自分がどこへ動けば良いか判斷すること、等々。
都島工專では、一時、サッカー部に屬し、若干の試合に出たこともあります。
私が汗かきになつたのは、蹴球部にゐたからだと思ひます。
因 ( チナミ ) に、 「 なでしこ 」 は河原撫子と書き、元來植物です。秋の七草の一つ。
大和撫子 ( ヤマトナデシコ ) といふ表現で 「 日本女性の美稱 」 になります。
「 撫子 」 だけでは、 「 撫で摩 ( サス ) りたいほどの可愛い子 」 です。
試 合 經 過 と 勝 因
18日午前 3時半 ( 日本時間 ) からの決勝戰を生中繼で觀ました。
1 ) 前半戰の初期に米國が猛攻、幸ひ皆外れたものの、
この猛攻と、撫子お得意のパス回しが屡 相手に奪はれ、相手が見事なパス回しを
やるのを見て、これはひよつとするとボロ負けかも、と思ひました。
でも、この猛攻を、得点させずに凌いだのが、勝因の第一です。
米國は、長身と長い脚で、先行する日本選手を後から追ひ抜くパワーあり。
これに堪へて互角にボールをキープした撫子の粘り強さは“驚異" でした。
2 ) この猛攻のあと、撫子も相手ゴールに迫るやうになつた。
そして前半を 0−0 で終へた。これが、勝因の第二です。
3 ) 後半、互角に鬪つた。
米國の先制で、日本が活氣付き、思ひ切つた攻勢に出始めた。
ここで 「 互角 」 から 「 壓倒 」 に移り、米國に焦りと疲れが見えて來た。
かくて一點入れ、追ひ付いた。
先制して追ひ付かれると氣落ちします。
勝因の第三です。
4 ) 延長戰でも先制されますが、後半ぎりぎりで又追ひ付いた。
米國は愈 疲れが目立ち、追はれる焦りが出て來ました。
勝因の第四です。
5 ) 日本は調子に乘つて追ふ立場に立ち、餘裕があつた。
疲れで動きが鈍つた米國に較べ、驚異的な持續力を發揮しました。
勝因の第五です。
6 ) そして最後のPK戰。佐々木監督が選手を集めます。選手が笑顔です。
日本選手には餘裕がありました。 「 王者の風格 」 と言つてをきませう。
米國選手には、得點しても得點しても追ひ付いて來る日本に對する焦りがありました。
「 王者の餘裕 」 がなかつた。
だから二番手のロイドのやうに、高々とゴールを外す蹴りも出て來た。
それにしても、米國の一番手ボックスと三番手ヒースの球を止めた
GK海堀の働きは見事でした。
これが勝因の第六です。
7 ) 斯くて日本は優勝。フェアプレー賞も貰ひました。
澤穗希主將は 「 優勝戰の最優秀選手 」 と 「 得點王 」 ( 5ゴール ) に選ばれました。
國際サッカー聯盟 FIFA は、女子ワールドカップ ドイツ大會で活躍した選手の中から
21人の 「 オールスターチーム 」 を選びました。
その中に撫子から 4人が選ばれました。
澤穗希・海堀あゆみ・大野忍・宮間あや、です。
日本人の本領を見せてくれた 「 なでしこジャパン 」 、有難う、有難う!
幸運を引き寄せた一所懸命
扨 ( サ ) て、私が言ひたかつたのは、これからです。
米國は強かつた。
私が米國の立ち上がりの猛攻を見て、これはボロ負けかも知れないと思つたのは、
間違ひではありません。
恐らく、10戰すれば、8勝2敗位の實力差があるのではないか。
嘗て巨人ダントツ時代の川上監督が、メディアの問に答へてかう言ひました。
「 早慶戰の王者と巨人のどちらが強いかつて?
「 そりやあ、やつてみないと判らんよ。勝負つてさういふもんだ。
「 但し、20戰すれば、巨人が19勝 1敗の勝率で勝つよ。
「 それがプロとアマの違ひだ 」
これだけ強い米國に勝てた一應の理由については、上に六つ書いて置きましたが、
日本現代史から見て、もう一つ言つて置きたいことがあります。
一所懸命が勝利を引き寄せた前例です。
日露戰爭は、日本が 「 勝てる 」 戰爭ではありませんでした。
ロシヤの首都どころか、北滿にさへ攻め上る國力がなかつたからです。
その中で 「 完勝 」 を演じたのが帝國海軍です。
では、帝國海軍は何故、ロシヤ海軍に 「 完勝 」 できたか?
私は、 「 一所懸命 」 が幸運の女神を引き寄せたのだと思ひます。
聯合艦隊は、緒戰の旅順艦隊との戰ひで、虎の子の軍艦を喪ひます。
1 ) 5月15日、新鋭巡洋艦 「 春日 」 7700トン と 二等巡洋艦 「 吉野 」 4500トン が深夜、
濃霧の中で衝突し、 「 吉野 」 は沈没、 「 春日 」 が傷つきます。
2 ) 同日、戰艦 「 初瀬 」 1萬4850トン 及び戰艦 「 八島 」 1萬2320トン が敷設水雷に觸れ、
沈みました。
これらの艦艇があつてロシヤ東洋艦隊と互角だつたのに、二等巡洋艦はともかく、
實力の中核を成す戰艦を2隻も喪失するとは!
東郷司令長官は動じませんでしたが、海軍軍人は上から下まで
「 えらいこつちや! 」 と真つ青になつた筈です。
これが帝國海軍全員を 「 必死 」 にした、と私は判斷します。
この必死さが數々の幸運をも呼び寄せ、
翌年の日本海海戰の大勝利に集約するのです。
私の説を裏付けるのが、大東亞戰爭でのミッドウェーの敗戰です。
ハワイイ出撃は慎重に秘匿しましたが、マレー沖海戰のあと、
帝國海軍は弛緩し、敵をなめます。
1 ) 海軍の年功序列人事。存亡の危機に臨んでいるといふ認識なし。
日露戰爭では、適材適所に配慮して、東郷平八郎を聯合艦隊司令長官に任命しました。
大東亞戰爭では、business as usual とばかり、年功序列人事で長官を任命しました。
眞珠灣攻撃で南雲忠一 ( 海兵36期 ) でなく、小澤治三郎 ( 海兵37期 ) か
山口多聞 ( 海兵40期 ) を長官にしてゐたら、第二次攻撃を實施してゐて
米海軍はかなりの長期に亙つて太平洋で反撃に出られなかつた筈だし、
せめて ミッドウェー でこの二人の何れかを長官にしてゐたら、
絶對負けなかつた筈です。
然も海軍は、ミッドウェー の敗戰の責任を誰も取らぬばかりか、
敗戰の事實をひたすら秘匿し續けました。
無責任極まります。
2 ) 海軍省軍務局長岡 敬純 ( タカズミ ) 大佐が、報道陣を集めて、
「 今や“無敵海軍" と書いて貰つて結構 」
と言ひ放つのです。
3 ) 敵を嘗めてゐたから、ミッドウェー作戰では、情報を秘匿しませんでした。
寧ろ 「 情報が漏れて敵が來てくれた方がよい 」 と“豪語" する海軍軍人さへ
居ました。
4 ) ミッドウェー作戰の前に、聯合艦隊航空參謀 淵田美津男中佐が盲腸になつたのは
實に不運でした。そのため、第一次攻撃隊の指揮を、太平洋上の戰に不慣れな
友永丈市大尉が取つた。
戰果が上がらず、友永大尉は 「 第二次攻撃 」 が必要と、赤城に打電します。
淵田中佐ならうまく誘導できてゐた筈で、
空母上の飛行機を爆彈に換裝することは避けられた筈です。
こんな所に、大東亞戰爭に於る日本軍の 「 不運さ 」 を感じます。
奢りたかぶる帝國海軍に、幸運の女神がすり寄る筈もありません。
人も人の集團も、謙虚さを忘れると墓穴を掘るのです。
撫子日本は、追ふ立場だつたから、ここまで來たのです。
今後こそ、本當の實力が問はれます。
( 平成23年/2011年7月19日記 )