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長島隆二 『 政 界 秘 話 』
( 平凡社、昭和3年10月25日發行 ) 壹圓貳拾錢
伊原註:本書の末尾に書込んだ私のメモでは、
1969.2.24 東京、巖南堂書店で購入、
1970.9.23 讀了──とあります。
帝塚山大學で 「 日本現代史 」 を講義してゐましたから、その參考文獻として讀んだのです。
最近、讀返して感ずる所あり。そこで紹介することにします。
著者の長島隆二の經歴:大藏官僚 → 桂公の秘書官 → 桂の女婿 → 桂の遺志を繼ぐ政治家
( 本の背中・表紙と序文の署名は 「 長島 」 /奥付では 「 長嶋 」 。どちらでもよいのか? )
25歳で東京帝大を出て大藏省に入り、2年後に歐洲に派遣されて ロンドン に 3年滯在。
英國では、日露戰爭の外債募金中の高橋是清とも知り合つてゐます ( 71頁 ) 。
歸朝後も、政治家の政策立案に關り、
桂公の近邊で 「 政治練習生の境涯に置かれた 」 ( 90頁 )
桂公の秘書官となり、桂太郎の三女潔子と結婚 ( 宇野俊一 『 桂太郎 』 274頁 )
桂公が亡くなつた大正2年 ( 1913年 ) 2月に36歳 ( 96頁 ) 。
大正の政變で10年勤めた大藏省を止めて政界に飛込む。
昭和3年 ( 1927年 ) に50歳 ( 84頁 ) 。
「 大藏省に居り乍ら、第一次西園寺内閣を倒す策も殆ど私が描き、その儘實行した。
「 第二次の桂内閣の組織も同然である。從つて、
「 明治41年/1908年から大正元年/1912年迄の間は、
「 殆ど政治の要處に觸れざるなしと言つてもいゝ位であつた。
「 政友會との妥協問題とか例の情意統合問題等と云ふ場合も興味ある役割を演じた。
「 又、外交問題では、朝鮮併合、日英同盟繼續等の大問題の機密にも與つた 」 ( 91-92頁 )
しかし間もなく桂太郎逝去。上記したやうに、その後政界に入り、
桂太郎が殘した新政黨 「 立憲同志會 」 の育成に努めるが、
やがて脱黨し、第三勢力の育成を圖つて政界で孤軍奮鬪した。
──といふのが、本書を通じて判る凡その經歴です。
本書を41年ぶりで讀み返して、殆ど記憶に殘つてゐないことに驚きました。
全く初めて讀んだに等しいのです。やれやれ。
シナ革命と東洋の平和
冒頭の一文が 「 革命の支那 」 。
中國國民黨を高く買つてゐるのはまあ良いとして、
孫文 ( 孫逸仙 ) を頗る高く買つてゐるのは驚きです。18頁に曰く、
「 近代に現れた世界の人傑は、ロシヤの大革命家レーニンと支那の大革命家孫文とである。
「 この二大傑物に比ぶれば、
「 彼 ( カ ) のイタリーのムツソリニなぞは尚未だしと言はなければならぬ 」
あとの方でも曰く ( 298頁 ) 、
「 孫文は、支那に現れた一大英雄……。ロシヤのレーニンと對立すべき大もの……。
「 かの クレマンソー、ロイドヂョーヂ、ヒンデンブルク、ウイルソン とか、近くはイタリーの ムツソリーニ なぞ、
「 孫文、レーニン の二大人物に比べると一段下のやうに思はれる 」
中國國民黨による 「 シナ革命 」 の前途に餘程期待してゐたやうです。
確かに、蔣介石が 「 新生活運動 」 を展開した 「 十年建設 」 の時代 ( 1928-37年 ) は
ある程度期待出來たのですが……
本書は、北伐が終つた1928年に出版されてゐます。
孫文は、私にとつては、日本人に物心兩面で散々シナ革命を支援させておきながら、
最後には日本を見限つてドイツ・ソ聯と結び、革命の暴亂 ( ニヒリズム ) をシナに導入して
「 東洋永遠の平和と秩序 」 を踏みにじつた張本人の一人です。
伊原註:孫文がシナにソ聯と共産主義を引込んだことは誰でも知つてゐますが、
ドイツを引込み、ドイツの武器で武裝した蔣介石軍がドイツ軍事顧問團の指揮の下に
第二次上海事變で日本軍潰滅を圖つたことは、
餘り知られてゐません。
( ドイツ帝國軍人 ゼークト や ファルケンハウゼン にとつては青島の復讐戰でした )
( だから ヒットラー が日本と軍事同盟を結んだ後も蔣介石支援を續けます )
これについては、下記を參照されたし。
田嶋信雄 「 孫文の 『 中獨ソ三國聯合 』 構想と日本 1917-1924年 」
( 服部龍二・土田哲夫・後藤春美編 『 戰間期の東アジア國際政治 』
( 中央大學出版部、2007.6.28, 7300圓+税 の第一部第一章 )
ゲルハルト・クレープス 「 在華ドイツ軍事顧問團と日中戰爭 」
( 軍事史學會編 『 日中戰爭の諸相 』 錦正社、平成9/1997.12.1, 4500圓 所載 )
阿羅健一 『 日中戰爭はドイツが仕組んだ:上海戰とドイツ軍事顧問團の謎 』
( 小學館、2008.12.21 ) 1500圓+税
所で、この冒頭の一文の注目點は──
孫文と 「 一番早くから深い交友をなし、彼を師導し援助し鞭撻した 」 ( 3頁 ) 秋山定輔が、
大正 2年 ( 1913年 ) 2月、 「 支那から孫文を呼んで桂公と會見させたこと 」 だと。
二人は三田の桂邸で會ひ、徹宵して懇談した ( 6頁 ) 。
「 この東洋の偉人達が胸襟を開いて語合つた問題は、今後のアジヤ經營の大計劃であつた 」
此會見を經て、桂公の對支意見が確定した。
此會見後、孫文は
日支提携−大アジヤ主義−アジヤ・モンロー主義
を確立し、歸國後上海から直ちに世界に向け
アジヤ・モンロー主義を絶叫した、と。
桂太郎が政黨 ( 立憲同志會、民政黨の前身 ) を組織したのは、
「 支那問題解決のたため 」 だつたと ( 5頁 ) 。
「 同志會創立の精神は、支那問題の解決が第一の主眼點である 」 ( 104頁 )
「 日本の政治行政も、
「 維新後50年に近き歳月を經て凡ゆる方面に罅 ( ヒビ ) は入り腐敗した。
「 人間も形式的となり制度も組織も老廢した。
「 從つて、内政大改革の時期に遭遇したのである。
「 是を救濟するには、新政黨を創りこれに依る他ない。
「 この意味精神に於て桂は 『 最後の御奉公 』 として立つたのである 」 ( 105頁 )
「 桂が上述の如き志であつた事は、幾つかの事實に依つて證明出來る。
「 明治の最後に、後藤・若槻の諸氏を從へて露國を經て歐洲旅行を劃 ( クハダ ) てたのも
「 この考へからであつた。露國や支那やドイツやと東西の大局に就いて
「 腹藏無き意見を交換して、その結論に迄達しようとしたのである。
「 大正 2年に政黨組織を發表すると同時に支那から孫文を招致し、
「 數回に渉つて徹宵意見を交換したのもそのためだつた。
「 支那の新興勢力と、日本の新たなる中心勢力と相結んで、復興アジヤの完成に猛進する
「 と言ふ事は、その當時堅く誓約された處である。
「 その後孫文も、最後の日の來る迄、この深大な精神を以て一貫してゐた 」 ( 107頁 )
しかし、桂太郎は、立憲同志會を組織した直後に死にます ( 大正2.10.10 歿 ) 。
桂太郎が 「 大きな可能性 」 を殘して世を去つたことに御注目あれ。
私の人生観
著者曰く ( 82頁 ) 、私は人生を鬪ひと觀る、と。
そして、處世訓は 「 誠意 」 と 「 忍耐 」 だといふ ( 84頁 ) 。
信念があれば、その實行をせざるを得ない。
これは苦しい。苦しいが止められない。
「 信念から湧き出した事は、どんな大困難にぶつかつても止められないものだ。
「 大事だから大障害大迫害がやつて來るに決つてゐる。
「 それをぢつと堪 ( コラ ) へると、
「 禍 ( ワザワヒ ) 轉じて福 ( サイハヒ ) となり、きつとその事は成る。
「 この誠實さへあれば、至誠神を動かし何事も成就する。
「 それから後の私は、腹の坐つた安穩な境涯に入つた。
「 今迄人生は險しい坂道の如く感じたのが、坦々たる大道を闊歩してゐるやうに感じ始めた 」
伊原コメント:これは凄い人ですね。
官界出身者と政黨人の差
一匹狼暮しをした著者は、 「 孤獨の淋しさ 」 を徹底的に味ひます。そこで得た觀察によると、
官吏方面から來た人々は信頼できない、
官界出身者は學問もあり一藝もあり相當仕事も出來るが、
一個の人間としての修養がまるで出來てゐない事を痛感した。
その反對に、民間出の人は、たとへ鈍重でも、金はなくとも、何處か人間の鍛練が出來てゐる。
鐵は鐵の如く、銅は銅の如く、鉛は鉛の如くちやんと人間としての修養が出來て居るから、
いざと云ふ場合、必ずそれ相當の役に立つ事を動かす可らざる現實として感じた。
だから、政黨方面から來た人々に對しては、心中多大の敬意を拂ふやうになつた ( 99-100頁 ) 。
原敬寸評 ( 111頁 ) :
「 原氏は、大手腕家の如くではあるが、かう言ふ點になると力を頼む鬪將であつて、
「 策を帷幕にめぐらす軍師ではない 」
西園寺公望寸評 ( 147頁以下 ) :
「 粹好みの老優と云ふ面影 」 ( 147頁 )
「 聰明その儘の人 」 ( 149頁 )
「 冴え切つた人。但し偉大さなし、深さ、威迫なし 」 ( 150頁 )
「 聰明そのものゝ如き人であると共に、なかなか意地張りの人 」 ( 153頁 )
日露戰後の財政經濟整理をした第二次桂内閣
長島さんは、
日露戰爭後の財政經濟の整理がうまくやれたのに、
第一次大戰後の整理はなつとらん!
と叱ります。
そして、日露戰爭後の財政經濟整理をやつたのは、
正に自分の原案に應じて桂公が周到に處置したからだと誇ります。
( 實は秘書官だつた著者が深く關つてゐたのです )
私 ( 伊原 ) が本書を紹介しようと考へた理由は、ここにあります。
著者曰く ( 115-123頁 ) 、
日露戰後の財政經濟整理は餘り手際よく行つたので、
その整理にどれ程の努力を費したか、世間の人は殆ど氣付かぬ位である。
實際その當時は餘程の難局であつたのだ。
──と、以下、當時の困難を列擧します。
軍費は巨額に上り外債は急増し、然もロシヤからは償金が取れぬ。
そこへ戰勝當時の株式界事業界の熱狂時代の反動が一時に襲來したので、
この難局の整理は尋常一樣の腕前では到底是 ( コレ ) を實現する事が不可能だつた程である。
加之 ( シカノミナラズ ) 國内では鐵道買収公債が未交附の儘であり、
財政上は豫算に多大の缺陷を見ると云ふ有樣であつた。
而してその頃の我國と歐洲大戰後の財政經濟を比較すると、その實力の點から見て
比較にならぬのだ。從つて財政經濟危險の程度も到底同日の論ではない。
──そして以下は、財政經濟整理につき、桂太郎を支援した人材です。
今日に到つて考へて見ると、よく此難局を切抜けたものだと思ふ。
當時の政局の事情を云へば、西園寺首相を初め松田大藏大臣、原内相等は餘りに樂天的で
此の危難の形勢を突き詰めて考慮する眞面目さがなかつた。
當時桂公は元來は武人ではあつたが、なかなか計數の頭腦があつて
かういふ問題に對する意見の大綱は自分自ら立てた。
然しこの時樞機に與つて實行的整理案を立てたのは
當時の大藏次官で今日の會計檢査院長である水町袈裟六氏であつた。
私は未だ若年だつたが、大藏省理財局の一番實際的方面に當つてゐたから、
幸に此水町氏の立案を初めから終りまで助けて働いた。
大藏省では若槻禮次郎、荒井賢太郎、水町袈裟六の三氏が轡を並べて進んだが、
若槻は腕の人、荒井は計數の人、水町は心の人であつた。
銀行界を通じて凡 ( スベ ) ての人物を手足の如く働かせた中心は豊川良平君だつた。
豊川君の活躍によつて一般の輿論は定つて、財政整理・公債整理を成し得ない西園寺内閣は
必然に倒れてこれを實行し得る内閣が次に現れて來なければならぬ事が明瞭となつた。
──先づは、第一次西園寺内閣の倒閣です。
左樣な事からして井上侯は松方侯と連名で、
西園寺首相初め閣員を内田山の私邸に呼び集めて
十數ヶ條の質問を出した。
質問と云ふよりは寧ろ詰問であり彈劾であつた。
その質問の箇條書は實は私 ( 著者 ) が起草したものであつた。
この案をひつさげて井上侯が閣員に迫る態度は
維新當時の井上聞多丸出しで、本當に眞劍熱烈なものであつた。
私はその席に出て問答の凡てを筆記したが、
その頃の政治家の會合、論議等が斯く迄眞劍なものであつたことは
此頃の政治家の輕薄に比べて思ひ出しても崇敬の念に驅られる。
此詰問の後、西園寺首相は引退の決意を井上侯に傳達。
私達は次の内閣で實行す可き整理案を作成。
この整理案を桂は陛下に奉呈して内覧に供し奉つた。
明治41年 6月、西園寺内閣は退き、7月 第二次桂内閣が成立。
──第二次桂内閣が 「 財政經濟整理 」 のため組閣されたことは、
桂首相が 「 藏相を兼任したこと 」 で判ります。
桂は大命を拝すると、直に閣員たるべき人々を召集し、
別々に財政經濟整理案を呈示して是に署名捺印を求めた。
是が即ち新内閣の大方針たる財政整理案で、これに反對の者には入閣を許さなかつた。
故に第二次桂内閣が成立した時は、閣議を開く迄もなく、
閣員全部が財政經濟整理案に同意を示してゐたのである。
桂首相は組閣すると直ちに財政經濟整理案と、
別に新内閣の取る可き全般に亙る政務政策の方針計劃施設に關する書類を調整して
是を陛下に奉呈した。そして勅許を仰いで即座に實行に入つた。
後に實行せられた日韓合併だの國有鐵道の整理だのの大問題は、
悉くこの書類に記載されてあつたのである。
故に日露戰後の財政經濟整理は極めて手際よく實行された。
新規公債は當分募集する事なくして豫算の收入支出の均衡を保つ樣になり、
而も現存公債は毎年五千萬圓以上償還する計劃が決定され、其結果財界が安定に歸した。
從つて銀行の恐慌、及一般事業界の不安も又驅逐一掃されて景氣が再び恢復した。
久しく間誤ついてゐた鐵道買収公債も順調に交付され
而も市場に少しも影響を蒙 ( カウム ) らなかつたのみならず、
公債は内外市場に於て一齊に騰貴し其爲に戰時中に發行した公債は
短期のものは長期に、高利のものは低利に借換する事が出來た。
──そして、第一次大戰後の財政經濟問題の處理を誤つた
原敬内閣・高橋是清藏相の不手際を叱ります。
これぞ、私が言つて來た 「 大正の間違ひ、昭和を殺す 」 の元兇なのです。
この問題點については、下記を參照されよ。
岡田益吉 『 昭和のまちがひ 』 ( 雪華社、昭和42.11.25 ) 540圓
〃 『 危ない昭和史 ( 上 ) 』 ( 光人社、昭和56.4.7 ) 1200圓 ( 上記の新版 )
高橋亀吉・森垣 淑 『 昭和金融恐慌史 』 ( 清明會出版部、昭和43.10.1 ) 400圓
( この名著は、講談社學術文庫に収録されてゐます )
是に比較すると歐洲戰後の財政整理の方法は全然問題にならぬ程拙劣である。
大正 8年末から 9年10年の間 ( 1919-1921 ) に、桂内閣當時の如き覺悟と用意を以て
財政に一大整理を加へ同時に物價調節に適當の方策を實行してゐたならば、
その後數年に渉る財界の波瀾國民生活の不安はつひに起らずに濟んだ筈である。
然るに歴代の内閣が目前の黨利黨略に囚はれ、
必ず爲す可き事を爲さず爲す可からざる事を敢へて爲したるが故に
今日の經濟的大困難大破局を招來したのである。
── 「 今日の經濟的大困難 」 とは、正に昭和に不吉な出發をなさしめた
「 昭和恐慌 」 の大不景氣です。
第二次桂内閣は、3年後引退するに當つて再び上奏を爲した。
その内容は、組閣時奉呈した財政整理案と施政方針書と、
3年間桂内閣の實行した處とを詳細に比較し計劃と實行とを對照して
内閣の責任を明らかにしたものである。
この上奏記録は今何處に殘つて居るか知らないが、
その内容顚末は私が直接に關係し自ら筆を取つたのであるから
間違ひなき事實であることを保證する ( 123頁 ) 。
( 直接引用、終り )
諸著の記述を參照して見れば……
以上、ちよつと長くなりましたが、大事な點を逐一引用しました。
これまで餘り注目しなかつた第二次桂内閣の重要さを初めて知つたからです。
私が前述したやうに、
「 大正の間違ひ、昭和を殺す 」 と言つて來たことに關係するからです。
( 第一次大戰の後始末が放置されたため、昭和が大變な重荷を背負い込んだ )
これが 「 明治の間違ひ、大正を殺す 」 ことにならなかつたのは、
第二次桂内閣の業績と判つたからです。
著者が、 「 日露戰後の財政經濟整理は餘り手際よく行つたので、
「 その整理にどれ程の努力を費したか、
「 世間の人は殆ど氣付かぬ位である 」 ( 上記 )
と言つてゐる如く、世間も歴史家も、第二次桂内閣の業績を殆ど無視してゐます。
例へば、宇野俊一校注 『 桂太郎自傳 』 ( 平凡社、東洋文庫 563、1993.4.9 ) の解説では
「 第二次内閣では、韓國併合を強行し、條約改正を完成させるなど、
「 日本が列強の一員として飛躍し、一人前の帝國主義國となる諸契機をつくつた 」
でお終ひ ( 340頁 ) 。
但し、同じ著者の人物叢書 ( 新裝版 ) の 『 桂 太郎 』 ( 吉川弘文館、2006.3.10 ) では、
流石に財政整理にちやんと觸れてあります ( 但し、ちよつとだけ ) 。
普通の著者で、經濟問題がちやんと判る人は曉天の星の如く尠いですから。
弘田直衛 『 五十年間内閣更迭史論 』 ( 澤藤出版部、大正10.11.5 ) 八圓 では、
628-715頁と百頁近くを使つて詳しく述べてゐるにも拘らず、
「 西園寺内閣が財政政策の不備で倒れたので、財政整理をせざるを得なくなつた 」 ( 640頁 )
と消極的に取上げるだけ。
しかし軈て不景氣を招いて、初め期待された財界からも不評判になつて倒れた、
と極めて消極的な扱ひに過ぎません。
坂口基吉 『 大正政變前後 』 ( 白揚社、昭和15.7.19 ) 貳圓五拾錢 では、
111-194頁を第二次桂内閣に費やしながら、桂首相が自ら藏相を兼任したことに觸れは
するものの、財政整理への言及は極めて尠く、終始一貫、政治史の叙述が續きます。
日本宰相列傳の川原次吉郎 『 桂 太郎 』
( 時事通信社、新裝版、昭和34.11.1/49.10.1, 1400圓 ) も
餘り明確には取り上げてゐません。
古川 薫 『 山河ありき:明治の武人宰相 桂太郎の人生 』
( 文藝春秋、1999.10.10 ) 1524圓+税
は、 「 歷史小説 」 ださうですが、ちやんと史實を踏まえてゐて參考になります。
しかし、第二次内閣での財政整理には碌に觸れてゐません。
明確なのは、
一木 豐 『 藏相 時代と決斷 』 ( 日本經濟新聞社、昭和59.10.12, 2000圓 ) です。
冒頭の小活字の部分で明確にかう述べます。
「 第二次桂太郎内閣では、藏相は桂首相が兼任した。
「 これは内閣の最重要課題が財政の緊縮整理にあつたため、
「 その責任を一身に背負ひ、首相の リーダーシップ のもとに
「 各省の經費増額要求を統制しようとしたからである 」
「 ( 軍人上りの政治家だが ) 戰後經營の困難な時期に、
「 敢へて自ら藏相を兼任した 」 のは 「 政治家としての自信の表れ 」
最後に、桂太郎の傳記の決定版とされる下記です。
徳富蘇峰 『 公爵桂太郎傳 坤巻 』 ( 原書房の覆刻、昭和42.12.15 ) 6000圓
第二次桂内閣時代に 327-560頁を充ててゐて、
蘇峰の記述に較べ、資料の直接引用が多い。
その分、記述が平板になつてゐますけれども。
──長くなりましたが、もう一項目だけ引用してをきます。
次の見出しは、内容に即して私 ( 伊原 ) がつけたものです。
米國の阿呆さ加減
ワシントン條約に對しては、私 ( 長島龍二 ) は初めから不服であつた。 ( 166-169頁 )
眞の世界平和はこの會議の如き不純な動機で出來上るものではない。
米國は、支那に對しては門戸開放機會均等を要求してゐるが、
本國にあつてはその反對の事をやつてゐる。
つまり、支那に於ては日本の排斥、米國に於ては日本排斥・米國の利益擁護である。
ワシントン會議は、米國が日本を怖れ、日本海軍の主力艦隊を制限せしめんとする案に過ぎない。
日英同盟を破約して太平洋附近の平和の爲、九ヶ國條約を結んだが、
結局我國から英國を引離して
八ヶ國の力を以て我國の太平洋上の勢力を監視する精神に他ならない。
又支那に於る我國の地位を覆し、滿蒙に於る地歩にさへ容喙しようと云ふ有樣である。
のみならず、日本の要塞を破壞した後から、
英國はシンガポールの要塞建設予算を議會に要求することを平氣でやつてゐる。
我國は全然狂犬扱ひにされてゐるではないか。
ワシントン條約ほど下らない條約はない。
どう考へても米國の東洋觀には非常な誤謬がある。殊に對支問題に於て甚だしい。
米國人の如き薄つぺらな觀察で、
宣傳上手な支那人の表面的主張なぞを基 ( モトヰ ) にして下す判斷は、
徹頭徹尾滑稽である。
であるから ワシントン條約は、一時の誤魔化しにもならない。
斯くて支那問題と太平洋問題とが、世界に於る最大問題となつて來た、云々
──かくて、私の結語:
長島龍二の 『 政界秘話 』 からは、まだまだ紹介すべき處がありますが、
焦點は上記 「 日露戰爭後の財政經濟整理 」 を第二次桂内閣がやつたことの紹介ですから、
此の邊で打切ります。
償金が取れなかつた日露戰爭の戰後處理が破綻を來さなかつたのは、
第二次桂内閣の存在があつたことを肝に銘じて戴ければ幸です。
( 平成23年/2011年 7月14日 )