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愛憎を超えた鎮魂のために
伊原註:暫く前から、
世界平和女性連合
Women's Federation for World Peace WFWP ( 國聯NGO )
といふ所から 『 Her Story 』 ( 月刊 ハーストーリー ) といふ
薄い雜誌が届くやうになりました。
その 7月號に、下記の話が出てゐました。
久郷ポンナレット 「 失ふ悲しみを分かち合へる世界に 」
こんな キャプション がついてゐます。
地獄のカンボジアから亡命して30年
體驗した悲しみ、苦しみを語り傳へることで
一歩づつ、戰爭のない世界に近づけて行きたい
久郷ポンナレットさんは
1964年、カンボジア の プノンぺン 生れ。
1975年からの ポル・ポト による暴政で、
國立圖書館館長の父と小學校教師の母、兄弟 4人を失ひ、
自らも強制勞働に從事させられた。
1979年、ポル・ポト政權崩壞の混亂の最中、タイに脱出。
1980年、留學中の姉を頼つて來日、苦學して小中學校を卒業。
1988年、日本人男性と結婚し、日本國籍取得。
2004年、湘南高校通信制 卒業。
現在、平塚市在住。
著書: 『 色のない空 』 『 虹色の空 』 ( 共に、春秋社 )
この文章は、全文 4頁。小見出しが七つあります。
兩親と兄弟 4人を失ひ カンボジアから日本へ
行方不明になつた村で 母の慰靈をして安堵
加害者の村人を許せる 母が導いてくれた思ひ
強制勞働に耐へたのも 母に會へる希望のゆゑ
母を失つたトラウマで 來日しても眠れぬ夜が
世界が平和にならないと 眞の心が安らぎは來ない
失ふ悲しみを共有すれば 世界から戰爭がなくなる
この二番目と三番目の本文を、以下に採録します。
先づは、それ ( ポンナレットさんの談話 ) をお讀み下さい。
行方不明になつた村で 母の慰靈をして安堵
2005年、私は母や姉妹が強制移住させられ、行方不明になつたカンボジアの村で、
家族とそこで亡くなつた人達の合同慰靈祭を行ひました。
きつかけは、夢に母達が現れ、
「 お願ひ、早く助けに來て 」
と叫ぶのを聞いたことでした。
佛教では、遠く離れた土地でも死者の供養はできると言はれ、
私は日本に來てから 25年間、毎日お線香を焚いてゐました。
でも、何故か氣持が安らぐことはなく、お盆に兩親や兄弟に
「 安らかに眠つて淨土に行つてね 」
と言へませんでした。
村人の話や客觀的状況から、亡くなつたと理解してゐても、
まだ家族の死を受入れられなかつたのです。
母達が行方不明になつた村の人達は、ポル・ポト派の思想教育を受けて、
プノンペンからの移住者を見下してゐました。
更に差別し、虐殺もした譯で、
そんな 「 加害者 」 の村には二度と足を踏み入れたくない、
と私は思つてゐたのです。
それでも、カンボジア内戰が終つた時、母が夢枕に立つたことで、
母が亡くなつたその村で供養せねば成佛できないのではないか、
といふ思ひになりました。
私にとつてはおぞましい村でしたが、そこで慰靈祭を行ひ、
更に故郷で靜かに眠れる合同供養塔を建立したことで、
私にやつと安らぎが訪れたのです。
加害者の村人を許せる 母が導いてくれた思ひ
慰靈祭の時、カンボジアの習慣に從ひ、喪主の私は剃髪しました。
頭を剃つてくれたのは村の女性です。
ポル・ポト派の村人は確かに憎むべき加害者でしたが、
彼女の手が私の頭に觸れると、その温もりが傳はつて來て、
私の心に變化が生じたのです。
それまで私が惡魔と思ひ、顔を見るのも嫌だつた村人達も、
温かい手をしてゐる同じ人間なのだと判つたのです。
剃髪の後、木陰に擴げた御座の上にみんなで坐ると、
私は晴れやかな笑顔になつてゐました。
迚も優しい氣持になれたことが不思議でした。
慰靈祭の最後に、同行したお坊さんが私にマイクを向け、
「 皆さんに何か話して下さい 」 と促したので、
素直に村人に感謝の言葉を語りました。
家族と犠牲者を供養するための行でしたが、
私自身が最も安らぎを得たのです。
遺族として加害者を許すのは簡單ではありませんが、
犠牲者を弔ふことで、憎しみを取拂へました。
全てお見通しの母が
「 貴女も充分苦しんだのだから、もうこれで終りにしませう 」 と、
私を慰靈祭に導ゐてくれたのではないかと思ひます。
同じ民族を憎むのを、母は望んではゐなかつたのでせう。
伊原記:
これを讀んで、私は二二六事件の鎮魂と同じだ、と思ひました。
最近、高橋是清の傳記を讀み、改めて
二二六事件は何と偉大且つ貴重な愛國者を簡單に虐殺したことか、と嘆じました。
そこへこの文章です。
この母上の偉大さと佛教の教への有難さに、
改めて畏敬の念を覺へました。
そして、ぜひ皆さんに紹介しようと、
ここへ掲載した次第です。
( 平成23年/2011年 7月8日 )