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江青の謎 二つ
伊原註:これは 『 關西師友 』 平成23年6月號 ( 8-9頁 ) に載せた
「 世界の話題 」 第258號の拙文です。
例によつて、少し増補してあります。
無防備だつた毛歿後の江青
NHKのBSプレミアムが企劃した 『 近代中國に君臨した女たち 』 の第四話 「 江青 」 に
語り役 4人の 1人として出演し、久しぶりに江青と文革について見直しました。
曾て 『 江青評傳──文化大革命の一研究 』 といふ大著を書くための前提作業として
『 帝塚山大學論集 』 に 「 江青評傳稿 」 を連載しました。
當時は資料が尠くて往生したのを思ひ出します。
その後、毛澤東が死に、四人組の逮捕と裁判があつて、
江青の評傳や論評が輩出して大助かり。
しかしながら、今以て解けてゐない謎が二つあります。
第一の謎は、毛澤東歿後の江青の無邪氣さです。
敵だらけだつたのに、後繼に向けて直進し、あつさり逮捕投獄されてしまひました。
第二の謎は、“革命の鬪士”が自殺したことです。
てつきりケ小平と 「 長生き競爭 」 をしてゐると思つてゐた私には、
江青の自殺は意外でした。
このうち第一の疑問については、
「 毛澤東の權威を確信する餘り、その權威を受繼ぐ資格のある自分が黨主席になつて當然 」
と思ひ込んでゐた、といふのが 「 一應の答 」 です。
それにしても、 「 敵が多い 」 ことは判つてゐた筈なのに、
自分の權威・權力の源泉である毛澤東亡きあと、
何に依つて權威と權力を保持するつもりだつたのかは、今なほ謎です。
リンカーン曰く、 「 人の性格は、權力を持たせてみると直ぐ判る 」 と。
至言です。
江青は權力を持つと、好き勝手、おのれの好みの儘 行動しました。
「 公 」 がないのです。淺はかです。
西太后が 「 女に政治をとらせるな 」 と言つた通り!
江青は、毛澤東の權威を笠に着て威張り散らし,苛めまくつたから、
毛澤東亡きあと總スカンと豫想して當然だつたのに──。
伊原註:彼女は寧ろ、自分の毛澤東後繼を邪魔してゐるのは毛澤東自身だと考へ、
毛澤東が早く死ぬやう願つてゐたやうです。
9月上旬、毛澤東危篤で大寨から呼戻された江青は、
毛澤東の世話をしてゐた醫師や看護婦に
「 私が後繼ぎになるのよ 」 と嬉しさうに話してゐます。
實情認識が出來てゐない!
參 照:The Private Life of Chairman Mao, Chatto & Windus, London, p.624
( 李志綏 『 毛澤東の私生活 ( 下 ) 』 422-423頁 )
「 9月7日の午後、主席の病状が一段と惡化する。一同、死期が近いと悟つた。
「 江青は知らせを受けて 202號館にやつて來た。……
「 醫師團と會ひ、一人づつ握手しながら、
『 これで貴方も御滿悦でせう 』 と繰返し言葉をかけた。
「 私 ( 李志綏 ) はあとになつてやつと、主席歿後に自分が權力を握るから
「 貴方がたは嬉しいでせうと言はんとしてゐたことに氣付いた 」
自殺は女優江青の“白鳥の歌”
第二の疑問は、今回、語り手の一人、楊逸さんの説明で納得しました。
「 江青はなぜ自殺したのでせう? 」 との司會者進藤晶子さんの問に、
私が先づ
「 獨り娘の李訥に革命家としての自分の後を繼ぐ意志なく、
「 それではせめてと託した自分の鬪爭の生涯も書いてくれず、
「 この儘では革命家の傳統が途絶えると悲觀した 」
といふ説を紹介したところ、隣席の楊逸さんが反論しました。
「 私はさうは思ひません。
「 李訥の政治嫌ひは前から判つてゐました。
「 江青は死ぬ前に、何か絶望的になるやうな事態にぶつかつてゐたのではありませんか。
「 江青は最後に、女優に相應しいスポットライトが當る死に方を選んだのではありませんか 」
流石は作家、なるほど、それに違ひない、と合點しました。
江青は晩年、喉頭癌に惱み、病院と刑務所を往復する生活でしたから、
「 この儘病死しては、靜に退場させたい連中の思ふ壺。
「 最後迄反逆精神を見せつけて“叛逆者・江青”の真骨頂を見せてやる 」
とばかり自殺を試みたに違ひないのです。
江青の一生の動因は、
第一に“革命の闘士”として目立つこと、
第二に“女優" として 「 脚光を浴びる 」
でしたから、
おとなしく病死することに甘んぜず、自殺したのは、
いかにも江青らしい人生の結末の付け方と言へます。
似た者夫婦:毛澤東と江青
それにしても
「 無法無天 」 ( 無法者 ) の毛澤東と江青は、何とまあ近所迷惑な夫婦だつたことでせう。
伊原註:毛澤東は始終、 「 わしや“和尚打傘" の男じやよ 」 と言つてゐました。
これは闕後語 ( ケツゴゴ ) と言ひ、言葉遊びの一種で、
言ひたい言葉の前半分だけを擧げたものです。
「 和尚が傘さす 」 類の男だ、といふのです。
「 和尚が傘をさせば 」 → 「 無髪 ( =無法 ) 無天 」
つまり、法律にも道コにも縛られぬ男だ、といふ意味です。
正しい譯語= 「 わしや無法者だよ 」
毛澤東は 1965年 1月 9日、スノーにかう語りました。
ところが通譯はこれを直譯し、 「 私は傘を持つ僧侶 」 とやつたものですから、
「 毛澤東は、自分は破れ傘を手にした修道士だと言つた 」 と傳はり、
その謙虚さに、世界中から尊敬の念を集めました。
何のことはない、
「 わしや無法者、これから文革で中共をひつくり返すよ 」 と
文革の豫告をしただけなのに。
毛澤東は
「 少年時代には二百年生き抜き、洪水の勢ひで三千里を壓倒しようと夢想 」 して、
先づは真面目な 儒教的理想主義青年として思想形成し、
多くの友から尊敬されますが、
禮儀正しく行動するだけでは權力は得られぬと悟り、
權力獲得に手段を選ばなくなります。
平氣で人を踏み台にしてより大きな權力を追求するのです。
1936年作の 「 沁園春・雪 」 では、
「 秦の始皇帝もジンギスカンも何する者ぞ。
「 中國史上の眞の英雄はこの俺樣だぞ! 」
と胸を張ります。
そして、權力獲得後も政治家 ( 建設者 ) に轉身せず、
革命家 ( 破壞者 ) であり續けました。
自分の權力慾のために何千何萬もの同志をいびり殺し、何千萬もの人民を飢死させた奸雄!
“革命家”毛澤東は今だに天安門の上から大肖像が睥睨し、
遺體 ( 蠟人形? ) が祀られてゐますが、
毛澤東に寄り沿つてゐた“革命の闘士”江青は、
忘却の彼方に去りつつあります。
發電機と電動機の差でせう。
( 2011.5.14/6.7加筆 )