ポスト・モダンに向ふ世界と日本

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 ポスト・モダンに向ふ世界と日本


伊原註:これは 『 關西師友 』 平成22年11月號に掲載した

      「 世界の話題 ( 251 ) 」 の増補版です。





       近代と近代の超克


  大東亞戰爭中に 「 近代の超克 」 ( 西歐流近代化の問題點克服 ) が叫ばれましたが、

  第二次大戰後、日本も世界も今一度 「 モダン 」 に戻りました。


  この問題、つまり


  プレ・モダン → モダン → ポスト・モダン

  ( 前近代 )    ( 近代 )   ( 近代の克服 )


の問題を扱つた興味深い本が出ました。


  古田博司 『 日本文明圏の覺醒 』 ( 筑摩書房、2010.3.30 )  2500圓+税

です。


  古田さんが言ふ三段階は、


  前近代社會 → 近代化社會 → 成熟社會


であり、經濟面では、


  農業時代 → 工業時代 → 脱工業時代 ( 又は 情報化時代 )


です。


  古田さんは モダン を

  「 普遍信仰の時代 」

  「 理想ないし幻想に向けて進歩を目指す時代 」

と解説します。

  「 頑張つて前進した時代 」 と言つても宜しい。

  「 成長信仰の時代 」 でもあります。


  そこで ポスト・モダン とは──

  普遍信仰が崩れ、あるが儘を認める孤立分散のニヒルな時代なのです。

  モダン=積重ねと世襲による農民社會、

  ポスト・モダン=各個に活躍する狩人社會だ、とも。

  ( 各個が活躍する時代とは、各個が没落する時代でもあります )


  情報が、何百部も刷つてゐる新聞ではなく、

  大勢が見てゐる筈のテレビでもなく、

  インターネットの眞僞取混ぜた情報の個人蒐集に據るといふ

  アナーキーな情況を御想像あれ。


  1991年のソ聯崩壞後、世界は四つの國家群に分れたと 古田さんは言ひます。


  資本主義も民主主義もできる國 ( 歐 米 日 ) 、

  資本主義はできるが民主主義ができぬ國 ( 露 中 韓 ) 、

  どちらもできぬ國 ( CIS諸國・北朝鮮など ) 、

  何もできぬ國 ( ソマリア・リベリアなど ) 。


  あとの三者は獨裁國だから、民主國と獨裁國に二分すると判り易い、とも。


       我國の國風は女性的


  朝鮮半島の專門家である古田さんは、朝鮮にない我國の 「 國風文化の時代 」 を評價します。

  平安時代 ( 9世紀〜12世紀 ) の 400年間の假名文字を驅使した女流文學の時代です。

  直前の 『 古事記 』 ( 語り部・稗田阿禮は女性 ) を含め、

  『 萬葉集 』 や紫式部の 『 源氏物語 』 、清少納言の 『 枕草子 』 などを想起されよ。

  これぞ、日本が男系中心の中華文化圏とは別系統に屬することを示す一大特徴です。


  古田さん曰く、 「 日本の歴史的個性は女性の柔弱さを國風として發展してきた 」

    その象徴が皇室でありまして、天皇は 「 學問 」 ( 和歌の道 ) と色の道 ( 女色 ) が

    學ぶべき二大對象でした。

    最大のお仕事は 「 祭祀 」 なのですけれども。

     ( 五穀豊饒・天下泰平を神々に祈られるのです )


  さう言へば、こんな歌があります。


  日の本は天の岩戸の昔より女ならでは夜の明けぬ國


  しかし日本にも 『 古事記 』 と並んで漢文の 『 日本書記 』 があり、

  平安時代のあと武士が擡頭し、

  鎌倉幕府 → 足利幕府 → 江戸幕府と、男の時代が展開しました。

  そしてこれに續く明治期も、紛れもなく男の時代です。

  ( 私は、日本のモダンは江戸元祿時代から戰後の高度成長期まで、と見ます )


  それに對してポスト・モダンは女の時代です。

  日本の國風に合致する時代なのです。


  この記述を讀んで私は、中西輝政さんの 400年周期説を思ひ出しました。

  彌生的激動活性化期 → 繩文的女性的安定とその爛熟期の循環、といふ説です。

  これは、益荒男ぶりの時代 → 手弱女ぶりの時代 の循環です。

      ( ますらを )               ( たをやめ )


   cf. 中西輝政 『 國民の文明史 』 ( 産經新聞社、平成15.12.20 )  1714圓+税

     西尾幹二・中西輝政 『 日本文明の主張 』 ( PHP研究所、2000.12.5 )  1600圓+税


  3世紀が彌生時代から古墳時代への轉機、

  白村江の敗戰後の8世紀の律令國家成立、

  12世紀の古代社會崩壞・源平合戰、

  16世紀の戰國期から天下泰平への轉換、

  そして19〜20世紀の幕末・明治維新から昭和の敗戰までの激動と戰後の平和期。


  さて、以上の問題提起からして、

    我が日本國の前途

はどうなりませうか?


  日本は異質な諸國に取捲かれてをります。


  プレ・モダンの北朝鮮、

  モダン真つ盛りの中國、

  冷戰期の專制支配に先祖返りしかけてゐるやうなロシヤ……。


  これら諸國は、核を持つ獨裁國です。

  それらの獨裁核保有諸國と隣接しながら、

  核を持たず、武力使用を封じた儘、

  成熟社會に入つた手弱女ぶりの我國の前途やいかに?


  私の構想は、

    「 動物文明から植物文明へ轉換しよう 」 ( 正論 『 産經新聞 』 平成19.3.24掲載 )

です。


  つまり 「 動物文明の襲撃を退ける力を持つ美と慈悲の植物文明 」 構築なのですが、

  目下、この維持に必須な反撃力が缺けてゐるのです。

                                  ( 2010.10.10 )




  古田さんは本書でもつといろいろ、興味深い話を展開してゐるので、追記します。


その一、丸山眞男の文章は既に古典?  ( 97頁以下 )


  「 超國家主義の論理と心理 」 ( 『 世界 』 1946.5. )  を輪讀した時の話です。


  ヨーロッパ近代國家はカール・シュミットがいふ樣に、中性國家たることに一つの大きな特徴がある。換言すれば、それは眞理とか道徳とかの内容的價値に關して中立的立場をとり、さうした價値の選擇と判斷はもつぱら他の社會的集團 ( 例へば教會 ) 乃至は個人の良心に委ね、國家主權の基礎をば、かゝる内容的價値から捨象された純粹に形式的な法機構の上に置いてゐるのである。


[現代語譯]

  ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットが言っているように、中性国家であることに、一つの大きな特徴がある。言いかえれば、それは真理とか、道徳とかの内容的な価値に関して中立的な立場を取り、そのような価値の選択と判断は一切、他の社会集団 ( 例えば、教会 ) から個人の良心まで任せて、国家主権の基礎というものを、このような内容的価値から抽出して余分な物の捨てられた、純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。


〈語句説明──いふ=いう、さうした=そうした、もつぱら=一切・すべて、乃至=AからBまでの範囲で、をば=対象を強調する時用いる語法、かゝる=このような、ゝは同じ字を反復する時使う、捨象=抽出する時に本質的でない物を捨てること〉                               


伊原コメント:

  丸山眞男の文章は、敗戰の翌年に書かれてゐますから、歴史的假名遣+正字です。

  これを現代假名遣+略字に直さないと讀めない。

  戰後育ちに戰前の書物を讀めなくした 「 日本の傳統斷絶 」 の占領政策が功を奏してゐるのです。

  「 かゝる 」 が讀めないのは、今の大學院生が戰前の文章に全く觸れてゐないことを示してゐます。



その二、大學教師は 「 碩學 」 ( 知のセンター ) ではなく、アクセスし易い知的端末の一つ ( 105頁以下 )

  專門書の多くが 「 讀めない 」 「 使ひ物にならない 」 ( 古びた理論に則つたものが多い ) ので、ゼミで專門書を輪讀するのをやめて、文章修行をさせた。

  それにもつてこいなのが、 「 起承轉結 」 指南の都々逸──

  「 大坂本町絲屋の娘、姉は十六妹は十四、諸國大名は弓矢で殺す、絲屋の娘は目で殺す 」

  これを皆で唱和する。


伊原コメント:

  私は教養學部で卒論指導をして居た時、序論・本論・結論の三分法で指導してゐました。

   序論=問題提起

   本論=問題解明 ( ここを 「 承轉 」 で構成すると、上記四分法になります )

   結論=解明した問題點の纏めと、殘る問題の指摘


その三、今の學生の頭の中は袋が二つ ( 108頁以下 )

  今の青年の知識の貯藏庫は 「 今のこと 」 と 「 昔のこと 」 と二つあり、

  二つの間は架橋されてゐないのださうです。


  「 昔のこと 」 は 「 自分が生れる前のこと 」 、

  「 今のこと 」 は自分が物心ついて以來のことのやうです。


  そして、二つの間が 「 架橋されてゐない 」 といふのが重要です。

  「 昔のこと 」 は答案を書くための知識に過ぎず、自分が使ひこなす知識ではない。

  そして、彼らが身近に感ずる 「 今のこと 」 も、端末にアクセスして集めたごちや混ぜの知識の集積であつて、知的體系にも思想にもなつてゐない。彼らの知識は並列的であり、綜合性も體系性もないと。

  これでは 「 智慧 」 に程遠いですよね。


  大學教授は 「 昔のこと 」 を教へたがるが、寧ろ 「 昔のこと 」 と 「 今のこと 」 の間を繋ぐ 「 架橋術 」 を教へれば良いのではないか、といふのが古田さんの意見です。

  あとは彼ら自身に探求させれぱ宜しい、と。


  北朝鮮やイランが、大國の牽制にも拘らず核武裝をやつてゐるのは、アナーキーな現代世界には一昔前の 「 覇權と勢力均衡 」 理論が通用しなくなつたからではないか。

  ならば 「 覇權 」 や 「 勢力均衡 」 は教へぬ方が良いのではないか、といふのです。


  ここで一言、 「 モダン 」 の真只中の中國は、19世紀の帝國主義論を實行しつつあるのではないか。

  ならば 「 昔のこと 」 を教へなくては、隣國として對應できないのではないのか……?


  結 語:

  本書は 「 今の若者 」 と格闘してゐる大學教授の 「 ポスト・モダン 」 論です。

  知的刺戟に滿ちてゐます。

  御一讀あらんことを!

( 2010.10.14 )