昭和天皇と二二六事件

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伊原註: 『 關西師友 』 平成22年10月號掲載の 「 世界の話題 」 ( 250 ) の増補版です。

        似たテーマ で 「 二二六事件の處理と天皇 」 ( 工藤美代子 『 昭和維新の朝 』 の紹介 ) 、

        「 國體の危機 」 ( 平成20年6月号 ) 、其他を書いてゐますが、

        新しい資料も讀込んでゐるところにご注目下さい。





        昭和天皇と二二六事件





            分裂を招いた輔弼 ( ほひつ ) の失敗


  福田和也の 『 昭和天皇 』 第四部が出ました ( 文藝春秋、2010.8.10 ) 。

  第一部・第二部は 「 世界の話題 」 で紹介濟ですが、第三部 「 金融恐慌と血盟團事件 」 は未紹介です。

  紹介しなかつたのは、ロンドン海軍軍縮條約を扱つてゐないからです。


  ロンドン海軍軍縮條約こそ、昭和を分裂と對立、暗殺と對外戰爭に導ゐた決定的事件なのに!

  昭和 5年/1930年のロンドン海軍軍縮條約で 「 統帥權干犯問題 」 を惹起し、

  昭和 7年/1932年の五一五事件で首相を殺した帝國海軍が昭和前期の分裂と對立を生んだ首謀、

  それに續いて帝國陸軍が分裂と對立を深めて政治の主導権を握り、

  昭和を暗殺とクーデターと戰爭の時代に引ずり込むのです。

  そして、こんな時代を招いた張本人は、政黨政治家の間違つた政策

  ( 特に濱口民政黨内閣の井上緊縮財政と幣原軟弱外交 )

  です。これが日本を、

  國内では分裂と對立を激化させ、民心の政黨離れを加速し、

  對外的には孤立化を深めます。


  そしてこの背景に、


  ウッドロー・ウィルソン大統領以來の米國の日本壓迫政策があります。

  ( 所謂 「 ワシントン體制 」 です。

  ( 英米の對日壓迫が主因、日本の對應策が從屬因です。

  ( この短い文章では、外國の動きは扱つてをりません )


  扨て、 『 昭和天皇 』   第四部は二二六事件が主題なので、

  新刊書も參照しつつ論ずることにしました。


  昭和前期は、上述したやうに、分裂と對立を深刻化させ、

  政黨政治の低落・軍部の擡頭を招き、

  支那事變の長期化と

  その解決のための對英米戰爭に到つて

  敗戰で大日本帝國の滅亡を迎へます。


  この國内過程を一口に言ふと、

  ( 1 ) 臣下では人物の小粒化と組織の官僚化、更に政黨政治の機能不全、

  ( 2 ) 皇室の側では輔弼の失敗による若き天皇輕視の風潮の招致です。


  昭和前期の國家意志の分裂は、昭和 5年のロンドン海軍軍縮條約に始ります。

  その背景に、昭和天皇を輔弼した内大臣牧野伸顯の偏見 ( 民政黨好み・政友會嫌ひ ) がありました。

  その前の昭和 4年 7月の田中義一政友會内閣の退陣事情と相俟つて、


      伊原註:文章の途中ですが、昭和 3年/1928年の張作霖爆殺事件に關して、

              犯人と目された河本大作大佐を陸軍が庇つたのを

              昭和天皇が咎められ、 「 もう田中首相の顔は見たくない 」 と仰せられた。

              これで田中首相は 「 天皇の信任を失つた 」 と判斷して

              昭和 4年/1929年 7月、内閣總辭職した。

              この出來事が

              「 天皇が田中内閣を潰した 」

              として

              「 未熟な天皇の越權 」

              が非難の的となつた。


              因みに最近、

              「 ソ聯の機密資料に基き、張作霖爆殺はコミンテルンの仕業 」

              といふ新説が出てゐる。

              これを否定する學者が少くないが、

                ( 1 ) 河本大作は 「 俺がやつた 」 とは證言してゐないこと、

                ( 2 ) 「 關東軍にコミンテルンが浸透してゐた 」 こと、

              を考へれば、コミンテルン實行説は辻褄が合ふ。


  これで臣下の皇室輕視・獨斷專行・下剋上の動きが出て、

  この動きが、滿洲事變 → 五一五事件 → 二二六事件へと展開します。

  滿洲事變前後に軍部のクーデター未遂事件も二度ありました。

  三月事件と十月事件です。

  何れも昭和 6年/1931年に起きました。

  この 「 軍部 」 の實力行使の姿勢が、その後の政治に隱然たる影響を及ぼします。


  内政外交の機能不全 ( 民政黨が酷い ) に國民が愛想をつかし、

  社會主義・共産主義の浸透や、普通選擧による無産政黨の登場と關聯して

  政治に激動が生じます。

  ( この背景に、既成二大政黨の 「 大衆政治 」 適應失敗の事實があります。

  ( 明治23年/1890年の第一回帝國議會召集以來の地主と資本家による 「 名望家政治 」 が、

  ( 第一次世界大戰による重化學工業化に伴う勞働運動の登場、

  ( 大正14年/1925年の普通選擧法の成立・公布、

  ( 昭和 3年/1928年の最初の男子普通選擧による無産政黨の當選で 「 大衆政治 」 化したのに、

  ( 既成政黨 「 政友會 」 「 民政黨 」 共に大衆政治への適應にもたついたこと )


      伊原註: 「 民政黨が酷い 」 ことにつき一言。

              昭和の動亂の始まりを創つたのは、民政黨内閣の責任が大きいのです。

              第一、金融恐慌をこじらせた第一次若槻内閣の手際の惡さ、

              第二、硬直的・原理主義的幣原軟弱外交の失敗、

              第三、濱口首相−井上藏相の硬直的 「 戰前平價での金本位復歸 」 政策の失敗、

              を考へただけでも、政友會より民政黨の方が遙かに罪深いと言へます。


              cf. 高橋亀吉・森垣  淑 『 昭和金融恐慌史 』 ( 清明會出版部、昭和43.10.1 )

                                                      ( その後、講談社學術文庫に収録 )

                  岡田益吉 『 昭和のまちがひ 』 ( 雪華社、昭和42.11.25 )

                  (   〃  『 危い昭和史 ( 上 ) 』 ( 光人社、昭和56.4.7 )


  二二六事件は、天皇直屬の軍隊が大命なしに青年將校が勝手に武力發動した ( 統帥權干犯! ) のですから、死刑は當然でした。

  でも事後處理が拙かつた。

  昭和11年5月4日、第69特別議會開院式に臨んだ昭和天皇の勅語に曰く、

  ( 『 昭和天皇 ( 第四部 ) 』 299頁 )


  「 今次東京ニ起レル事件ハ朕カ憾 ( ウラミ ) トスル所ナリ 」


  これは昭和天皇の陸軍に對する怒りを廣田弘毅首相が汲んで挿入した語句ですが、

  これは、張作霖爆殺事件以來の陸軍の 「 獨斷專行 」 に對する天皇の御怒りです。

  廣田首相はその御言葉を勅語の中に挿入し、國民全體に周知徹底させようとしたのです。


  しかし本當は、

  新聞掲載によつて廣く國民一般の目に觸れる 「 勅語 」 の御言葉としては、

  二二六事件勃發直後の陛下の御言葉 ( 『 昭和天皇 ( 第四部 ) 』 242頁 )

  「 全く朕の不徳の致す所だ 」

  を使つた方が良かつたのです。


      伊原註:この御言葉は、二二六事件發生を最初に陛下にお傳へした

              甘露寺受長 ( をさなが ) 侍從が直接聞いたものです。

              甘露寺侍從の著書に、さう書いてあります。

              『 背廣の天皇 』 ( 東西文明社、昭和32.9.21, 224-226頁 ) と、

              その改訂新版 『 天皇さま 』 ( 日輪閣、昭和40.11.1, 268-269頁 ) に

              その經緯が書いてあります。

              二月二十六日は、甘露寺侍從の當直でした。

              早朝の05時40分、宮内省の當直から事件發生の第一報が入ります。

              次いで鈴木貫太郎侍從長の官舎からも電話。

              「 私は早速御寝中の陛下の御寝室に伺つた。

              「 そして陛下を御起し申上げ、手短に御報告した。

              「 その時陛下は、

              「 『 たうとうやつたか── 』

              「 と、仰つた。

              「 その深い御悲しみを籠められた沈痛な御聲は、今も未だ耳底にある。

              「 陛下は、稍あつて、

              「 『 全く私の不徳の致す所だ── 』

              「 と、一言御口の中で仰つた。

              「 そして暫く御言葉もなく、御立ちになつていらつしやつた 」


  扨、元へ戻つて──

  叛亂分子も臣民ですから、包み込む御慈悲の御言葉が要つたのに、

  否定の御言葉だつたために、誤解が罷り通りました。


  この御言葉は張作霖爆殺事件以來の獨斷專行する陸軍全體への御怒りでした。

  それを廣田首相が 「 今次事件 」 に限定したため、 「 蹶起將校への御怒り 」 に限る形になつた。

  そこにつけ込み陸軍の統制派は、 「 蹶起將校=皇道派 」 への御怒りとして黨派的に利用した。

  國民もまた當然、蹶起將校への御怒りと受止めてしまつたのです。


      伊原註:だから例へば、後述する橋本徹馬も、 「 一方的 」 と理解してゐます。

              『 天皇と叛亂將校 』 ( 日本週報社、昭和29.5.10 )   53頁に曰く、

              「 天皇が國家の一大不祥事に際して、

              「 一方に憎しみのかかるやうな勅語を下さるべきでない 」 と。


  ですから、陛下の意に反して、その後も 「 軍部 」 の横暴は止みませんでした。


            怨念を殘した一方的裁き


  昭和天皇が蹶起將校鎭壓に動いた背景に、

  内大臣秘書官長木戸幸一の 「 徹底鎭壓方針の進言 」 があります。

  これも輔弼の失敗です。

  木戸に叛亂者も臣民と認める御慈悲の御言葉 「 朕ノ不徳 」 の視點があれば、

  日米戰爭が廻避できたかも知れません。


      伊原註:詳しくは、下記を參照。

              鳥居民 『 山本五十六の乾坤一擲 』 ( 文藝春秋、2010.7.30 )

              242頁:對米戰爭廻避の試みを木戸幸一は全て潰しました。

              242-243頁:

                昭和十年から昭和二十年まで、數限りなく若者を殺し、

                日本を燒け野原にするのに最も大きな役割を果した人物を一人選べと言へば、

                それは木戸幸一です。

                ほかの誰でもありません。


  その代り、對ソ戰爭が起きてゐたかも知れない、といふ所に、

  昭和史の國際關係の難しさがあるのですけれども。


  この勅語の誤りを當時、鋭く指摘したのが、先に述べた橋本徹馬です。


  橋本徹馬は、牧野伸顯の後任内大臣湯淺倉平を宮内省の内大臣府に訪問して直言します。

  ( 『 天皇と叛亂將校 』 49頁以下 )


  「 朕カ憾トスル所ナリ 」 はいけない。

  「 これで天皇が蹶起將校を憎んで居られると判り、陸軍内の對立が激化する。

  「 國家に不祥事が起きた場合、我國の國柄からすれば

  「 『 朕の不徳 』 と仰る文案を奏請すべきであつた。

  「 そしたら兩派とも深く反省し、相剋が収まる方向に向ふ筈だから 」

  と。

  湯淺内大臣は同意した由ですが、 「 綸言汗の如し 」 で、手遲れでした。


  橋本徹馬はもう一つ、重大な指摘をします。

  ( 『 天皇と叛亂將校 』 52頁 )

  「 彼らを叛逆者として殺せば、他日、必ずや國家は禍を受けますよ。

  「 お前達は國法を犯したから死刑は免れぬが、

  「 君國を思ふ念を汲んで叛逆の罪は赦すと仰せられたら彼らは喜んで死につき、

  「 自分達の採つた方法の誤りも充分反省しませうが、

  「 叛逆者として殺されては絶對浮ばれない。

  「 それが將來、君國への禍となりませう 」


  日本がその後、 支那事變に引摺り込まれてそれを泥沼化し、

      伊原註:引摺り込んだのは、ソ聯・英米の支援を受けた蔣介石です。

              盧溝橋事件の日本軍挑發も、

              第二次上海事變の帝國海軍陸戰隊への挑發も、

              蔣介石の指圖です。


  大東亞戰爭を發起して初めは調子良かつたものの、

  やがて日本を燒け野原にして原爆まで落されて敗戰を迎へ、

  大日本帝國が亡び、帝國陸軍が解體消滅したのは

  彼らの怨靈 ( をんりやう ) の報ひだつたのでせうか?


  この後始末をなされたのが、今上陛下 ( 昭和天皇の皇太子殿下 ) です。

  ( 工藤美代子 『 昭和維新の朝 』 日本經濟新聞社、2008.1.7  の 冒頭を見よ )


  栗原安秀・坂井直 ( なほし ) と 幼馴染み ( をさななじみ ) だつた

  歌人齋藤史 ( ふみ。蹶起派の軍人齋藤瀏 りう の一人娘 ) を二度、宮中に招き、

  二度とも親しく御聲をかけられます。

  「 御父上は軍人の齋藤瀏さんでしたね 」

  その結果、齋藤史が來るとき御庭に在り在りと見た 「 軍服の連中 」 の幻影が、

  歸りには消えてゐました。


  今上陛下は、蹶起將校の怨靈を鎮め給ふたのです。

( 2010.9.6/9.16 増補 )