郭華倫先生を悼む ( 再録 )

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伊原註:曽永賢さんの回想録の紹介を書き終へた時、偶然、昔書いた郭華倫先生への追悼文を發見した。

        これは、曽永賢さんの回想録と關聯するので、ここに再掲する。

        昔書いた文章は全部富士通の ワープロ專用機 OASYS で書いてをり、その フロッピーは 5インチなので

        今は再利用できない。

        これは新たに打込んだもの。極く僅か、言葉を修正したほかは、原文の通り。

        ( 但し、當用漢字・現代假名遣を正字・歴史的假名遣に改めてある )

        そして若干の追記をつける。




      郭 華 倫 先 生 を 悼 む ( 再録 )

                ( 『 問題と研究 』 第14巻第1號/昭和59/1984.10月號, 90-94頁 )


  郭華倫先生が亡くなられた。8月4日、台灣大學附屬病院で逝去。享年57歳。


  この3月、台北で開かれた第11回日華 「 大陸問題 」 研究會議でお目にかかつたときには相變らずお元氣だつたのに……。

  じつと坐つてをられるだけで、威風邊りを拂ふ貫祿の持主であつた。恐い顔をしてをられた譯ではない。寧ろ、温容溢れる笑みを浮かべて人に接せられたが、近寄る者に 「 威壓 」 を感じさせる迫力をお持ちであつた。


  その郭華倫先生、今やなし!

  人が死するものであることはよく承知してゐるが、訃報に接して、意外感と、惜しみても餘りある氣持を抑へられなかつた。

  もつともつと長生きされて、中國研究に關して後進を指導して頂きたかつたと思ふ。

                                                                     

  私が郭華倫先生と出逢つたのは、今からちやうど10年前の1974年、國際關係研究所に一年留學した時だつた。

  それまで日本語文獻に頼つてゐた中國研究を中國語文獻中心に切換へること、

  「 江青評傳──文化大革命の一研究 」 を書くための資料を集めること、

  できれば中國語を喋れるやうにすること、が私の目標だつた。

  そのための最適の留學先として、桑原壽二先生の御紹介を得て、中華民國國立政治大學 ( 中國國民黨中央黨校の後身、台灣では、國立台灣大學に次ぐ優良大學 ) の附屬研究機關である國際關係研究所 ( 現在、國際關係研究中心と改稱 ) を選んだ。

  郭華倫先生は、當時既にこの國研所 ( 國際關係研究所の略稱。グオ イエン スオ と發音する ) の副主任だつた。

  しかし、私が郭華倫先生を知つたのは、留學先の副主任だつたからではない。


  私が住込んだのは、國研所の構内にある東亞研究所 ( 政治大學の大學院修士課程。東亞所 トン ヤー スオ と略稱する ) の學生宿舎であつたが、入つて早々、學生から郭華倫先生のことを聞かされたのである。


  伊原追記:台灣でも中國でも、研究所に二種類ある。

            一つは本來の研究所で學生は居ない。

            もう一つは大學院のことで、修士 ( 中文=碩士 ) 課程と博士課程がある

            台灣の國際關係研究所は本來の研究所、その附屬施設 「 東亞研究所 」 は大學院。

            私が居た當時は修士課程 2年だけだつたが、その後、博士課程 3年も出來た。


  「 伊原先生、ここ ( 國研所 ) の副主任の郭華倫先生が中共黨員だつたことをご存じですか? 」

  へぇー、さうですかと聽き入る私に、その學生はいろいろ説明してくれた。

    郭華倫先生が古參の中共黨員であつたこと、

    日本の敗戰後、國共内戰時に某省の省長をしてゐて、内戰勝利の直前に中國國民黨に捕まり、台灣へ連れて來られたこと

      ( 學生は 「 口惜しかつたでせうねえ、その時捕まつてゐなければ、今頃は中共首腦部の一員として

      ( 然るべき地位にあつたでせうに…… 」 と言ひ、 「 その代り、文革で散々痛めつけられたでせうけ

      ( れど 」 とも言つた )

    嚴しい訊問のあと轉向して國研所で中共研究に從事し、共産主義を批判してゐること、等々。


  最後の點に關して、この學生は、かう付加へた。

  「 郭華倫先生の轉向が本心からのものかどうか、學生の間で議論があります。

  「 國民黨に捕まつたから已むなく僞裝轉向した、せざるを得なかつた、とも考へられますし、

  「 建國後の中共の遣り方を見て、これじやいかんと本氣で共産主義を捨てたといふ見方もできます。

  「 私自身は、郭華倫先生の共産主義批判は本物だと考へてゐます 」


  別の學生が、私に郭華倫先生の著書 『 中共史論 』 四册を貸してくれた。

  「 これは東亞研究所の教科書です。いい本だから、是非お讀みなさい。

  「 特別の人以外は買へません。東亞所の學生も、在學期間中貸與を受けるだけです。

  「 伊原先生は、歸國の時に申請されれば買へるでせう 」


  『 中共史論 』 はその後、割と簡單 ( 時々市販される ) 且つ廉價 ( 新台幣 400元 ) で手に入るやうになつたが、10年前は正に特別の者しか入手できず、値段も飛切り高かった ( 新台幣1200元 ) 。

  私は留學前の年に日本で 4册合計 1萬2000圓で手に入れてゐたが、まだ目を通してゐなかつた。

      ( 伊原追記:私は台灣で讀むため1200元で入手して歸國時持つて歸つた )

      ( 日本で入手してゐたこの 4册は、歸國後、大學圖書館に寄贈した )


  これを貸してくれた學生は、第三册をぱらぱらめくり、長征時の軍團編成を記した中の六頁に、第三軍團 ( 軍團長=彭徳懐 ) の 「 中央地方工作團主任  郭潜 ( 按:即提供作者資料之陳然 ) 」 とある箇所を指さしながら説明してくれた。


  「 ほら、ここに郭潜とあるでせう。これが郭華倫先生の中共黨員時代の名前だと言はれてゐます。

  「 郭先生は、彭徳懐の側近だつたさうです。それから、文中に屡陳然先生の話とか、陳然先生が提

  「 供した資料によるとか出て來ますが、これも郭華倫先生御自身のことだと思はれてゐます 」


  郭華倫先生の迫力は、この經歴から出て來てゐる。

  先生の中共研究は、私のやうな机上の勉強の産物ではなく、運動の渦中で革命の鬪士として數々の修羅場を潜り抜けて來た體驗を踏まへてゐるのである。

  その著 『 中共史論 』 は、運動の内部に在つた 「 陳然先生 」 の見聞記として、類書に見られぬ重みが感ぜられる。


  この話を聞いて以來、私は郭華倫先生を畏敬するやうになつた。


  私が親しく郭華倫先生のお話を承つたのは、私の研究主題である江青について、先生がよく知つてをられると聞いたからである。

  廣東省の客家出身である郭先生の言葉は、訛がきつくて聽取り難いので、客家系の通譯を介してお話を聽いた。

    ( 伊原追記:郭華倫先生の 「 北京語 」 は7割が客家語だといふ )


  「 江青が延安に來て、最初に接觸したのが私だ。江青は延安に着くと直ぐ、黨籍復活の申請をしに來たのだが、その窓口の責任者が私だつたからね 」

  郭華倫先生は、當時、中共中央宣傳部に居られたのである。

  二度に亙つて伺つたお話は、一部 「 江青評傳稿 」 に引用して置いた。

  引用した部分はもとより、しなかつた部分も、私の中共理解に大いに貢献した。


  以來、 「 大陸問題研究會議 」 でお目にかかる度に、郭華倫先生の發言には最大の注意を拂った。

  先生はまた、注目に應へるだけの内容ある發言をされた。


  日華 「 大陸問題 」 研究會議には、郭華倫先生のほかにも、中共革命運動の體驗者が少なからず居られる。私のやうな机上の觀察者は、これまで、それら體驗者の報告や判斷に教はつて、どうにか自らの判斷力を磨いて來た。郭華倫先生は、トウ小平同樣、中共の第一世代に屬する歴史的人物である。今や大陸の方でも、革命は遠くなりにけりといふ有樣だ。


  時は流れ、世は移り、人は過ぎ行く。貴重な歴史の證人が、また一人消へた。

  「 巨星墜つ…… 」

  悲しい哉。




  追記 ( 1 ) 拙稿 「 江青評傳稿 」 に掲載した郭華倫先生の證言:


「 江青:上海から延安へ 」 ( 『 帝塚山大學論集 』 第14號/昭和52.4.30, 29頁 ) から──

  藍蘋 ( 江青の上海での藝名。江青は延安で毛澤東と“結婚" してから自らつけた名前 ) は“七七事變" のあと、上海を離れ、武漢を經て延安に行く。

  外部から延安に到着した人間は、先づ 「 招待所 」 といふ關門で足止めされ、審査をうけなければならない。


  藍蘋は青島から上海へ移住した時に共産黨から離れたので、黨籍恢復申請をした。

  當時、中共中央宣傳部に居て、その申請を受付けた陳然先生は、かう證言する ( 1974.10.22談 ) 。

  「 江青は、七七事變の直後 ( といふ印象 ) に單身延安へ來た。9-10月に黨籍問題が起きてゐるから、

  「 遲くとも 8月には來てゐた 」

  「 江青の足取りは、青島→天津→上海 ( ここで離黨 ) →武漢→延安である。重慶へは行つてゐない 」

  江青の黨籍恢復申請は、 「 證據なし 」 として却下された。

  この間に、同郷人康生に取り入つたらしい。

  10月に曾ての戀人で入黨紹介者である黄敬 ( 兪啓威の變名 ) が延安に來たので、證人を得て無事黨籍を恢復し、直ちに黨校に入つて 6ヶ月學習する。

  陳然先生の夫人は、この黨校で江青を教へてゐる。


「 毛・江結婚問題 ( その三 ) 」 ( 『 帝塚山大學論集 』 第17號/昭和52.9.30, 36-37頁 ) から──

  陳然先生は、當時、抗日軍政大學主任教官で、中共中央宣傳部に在籍して、江青の黨籍恢復申請を受付けた人である。

  だから例へば、 「 江青が延安に着いた時の服裝は中國式の短い上着 ( 廣東服に似たもの ) と、中國式のズボン ( 〈衣偏+庫〉子 ) だつた 」 と詳しい。

  この陳然先生が、江青は延安に着くなりたちまち戀人をつくつたと、次のやうに證言してゐる ( 1974.10.4 談 ) 。

  「 江青が黨籍恢復の申請をする時、いつも朱光 ( 中共中央宣傳部職員、陳然先生の下僚 ) と二人で私のところへ現れた。この二人はいつも一緒にゐたので、周圍は戀愛關係にあるものと認めてゐた 」


  陳然先生また曰く ( 1976.8.16 談/上掲拙稿 41頁 )

  「 江青の知識水準も政治水準も低いものだ。私の妻は黨校で江青を教へたが、江青についてこう言つてゐるよ。

  『 江青は黨の會議ではさつぱり發言しなかつた。理解が淺くて發言できなかつたのだ。

  『 たまに發言すると、 「 私はよく知らないので皆さんどうぞ教へて下さい 」 と切出すので、

  『 皆に笑はれてゐた。當時、女性黨員は江青を見くびつてゐた。當時の女性黨員は長征參加者、

  『 高學歴者、黨歴や活動歴の古い者が澤山ゐたので、彼女らは皆、江青を見くびつてゐた 』 とね 」


  陳然先生の話はまだあるが、これ位にしてをかう。



  追記 ( 2 ) 郭華倫先生の著書 『 中共史論 』 と、その邦譯:

  郭華倫先生の 『 中共史論 』 の原典で私の所藏本は、1974.3.25 に國研所で手に入れたもの。

  奧付はなく、本の裏表紙に 「 中華民國國際關係研究所・國立政治大學東亞研究所印行 」 とあり、表紙の折返しに 「 中華民國58.9.初版/62.6.増訂版 」 とある四册本である。


  これは、紆余曲折の末、邦譯された。


  矢島鈞次監修/藤井高美・小貫範子・藤井彰治・菊地一隆・陳 財崑譯

  郭華倫 『 中國共産黨史論 』 全四巻 ( 春秋社、I.1988.9.20/II.12.20/III.1990.2.20/IV.1991.12.20 )


  愛媛大學名譽教授・松山商科大學教授藤井高美さんが譯してをられることは、 「 大陸問題研究會議 」 に參加してをられた本人から直接聞いて知つてゐたが、藤井さんはやがて、松山商大の法文學部長に就任したため、中斷せざるを得なくなつた。そこで譯稿の提供を受けて、矢島鈞次さんが翻譯チームをつくつて譯業を完成させ、出版したのである。


  本書の 「 はしがき 」 に、郭華倫先生の經歴が載つてゐる。それによると──

  1909.10.26 インドネシア の スマトラ島 アチェに誕生。兩親は アチェで數代續く華僑。

  幼時に本籍地廣東省 梅縣の祖母の家に預けられ、ここで育ち、廣東省中山大學に入學。

  1937年、支那事變勃發後に中國國民黨入黨。

  以後の職歴は──

  江西保安司令部參議、中央調査統計局專門委員、中央調査統計局專門委員會組長、中央黨員通信局副處長、天津辧事處處長、〈門+虫〉台督導區書記、内政部調査局台灣省調査處處長、國家安全局局長、國家安全局顧問、司法行政部調査局副局長。

  そして、 「 國民黨に入黨以前の青年時代に、中共幹部として大活躍した經歴がある 」 としてゐる。

  この經歴は、納得し難い。

  上述したやうに、私は御本人から直接、支那事變勃發後、延安に來た江青の入黨申請を受付けた話を聞いてゐる。それなら、支那事變勃發後の中國國民黨入黨は、勃發直後ではあり得ない。

  私が東亞研究所の學生から聞いた話では、郭華倫先生が國民黨に捕つたのは、抗日戰爭末期 ( それとも戰後の國共内戰時? ) である。

  この邊りは 「 謎 」 としてをかう。


  私は、元版を部分的に參照しただけで、通讀してゐない。

  譯本は、手に入れただけで讀んでゐない。

    ( 今回、この文章を書くため、中文版も含め、拾ひ讀みした )

  私學の教師は講義と學生指導・雜務に追はれ、講義關係以外の大部の本を通讀する時間に惠まれなかつた。

  定年退職後は毎日、常に五種類ほど、分野の違ふ本を並行して讀んでゐるので、郭華倫先生の本書も何れ通讀するつもりでゐる。



  追記 ( 3 ) 郭華倫 『 中共史論 』 の批判文獻:

  出典を控へ損ねたので何時頃のものか判明しないが、多分、アジア政經學會の機關誌 『 アジア研究 』 掲載と思はれる以下の文獻のコピーを私は所藏してゐる。

  ( 私が所藏してゐた 『 アジア研究 』 は大學圖書館に寄贈濟で、手許にない )


  蜂屋亮子 「 中國共産黨史研究ノート 」 ( 『 アジア研究 』 ?  78-92頁 )

    陳然・郭華倫・蔡孝乾──中國共産黨史 ( とくに江西ソヴェト期 ) における 「 生證人 」 の證言と

    その取扱ひについて──


  この 「 研究ノート 」 は、陳然先生=郭潛=郭華倫先生といふ事實を知らぬ儘、郭華倫が陳然の證言を 「 全然檢討なしに取上げてゐる 」 ことを問題視し、幾つかの問題點につき、詳細な檢討を加へたものである。

  そして陳然の證言は、取上げた問題點に關して 「 完全なでたらめ 」 ( 83頁/84頁 ) 、 「 とるに足りないでたらめ 」 「 事實に對して不誠實 」 ( 85頁 ) と結論してゐる。


  「 當事者であつても、當時の記録を參照しないで記憶によつて記した回想は、人によつては往々間違ひにみちてゐる 」 ( 87頁 ) と一應の理解は示すが、 「 人の記憶は……時とともに曖昧になり、他の記憶と混同したり、後の學習が入り込むものであつて、先づ第一次資料には適さない 」 ( 88頁 ) と結論する。


  そこまではまあいいとして、 「 中國共産黨史偽造への、台灣における一つの試み ( 陰謀 ) ではないか 」 ( 88頁 ) とまで勘繰るのは、日本の中共研究者が、中共を 「 官軍 」 、國民黨を 「 賊軍 」 とする勝者史觀に染まってゐた過去の偏向を想起させる。この偏向は今やかなり消失したが、今度は 「 中共の怒りを恐れての自己規制 」 がまかり通つてゐる。

  何れにせよ、中共研究 ( 獨裁政權研究 ) が公正さを保つのは至難の業のやうである。

( 平成22.4.17記 )