“明治の間違ひ”の是正

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伊原註:以下は、 『 關西師友 』 平成22年新年號に載つた 「 世界の話題 ( 241 ) 」 です。

     少し増補してあります。






“明治の間違ひ”の是正



         明治の間違ひの認識


  岡田益吉 『 昭和の間違ひ──新聞記者の昭和史 』 ( 雪華社、昭和42.11.25 ) を讀んで以來、 「 大正の間違ひ、昭和を殺す 」 といふ日本現代史觀を持ちました。

  大正デモクラシーの輕佻浮薄が昭和の敗戰を呼込み、更に戰後デモクラシーで倍加する、と。


  しかしその後、大正の間違ひは、明治の間違ひに由來することを知りました。

  岡田益吉流に言へば、 「 明治の間違ひ、大正の輕佻浮薄を生み、昭和を殺す 」 です。

  この間違ひを是正しないと、日本は日本でなくなります。


  明治の間違ひは三つあります。

    第一、指導者教育の闕如 →指導者の小粒化・輕量化・無責任化

    第二、天皇親政の顯教化 →圓滑な運營の妨害要因

    第三、和魂の傳承に失敗 →日本の良き傳統を無視。根無し草・輕佻浮薄の淵源


  江戸時代、武士政權は破産するよう仕組まれてゐたので、中期以降、各藩は藩校を造つて藩政改革の人材を養成します ( * ) 。

  文武兩道を通じて御國を正しく導く識見力量を育てたのです。


    *頼祺一編 『 日本の近世 ( 13 ) 儒學・國學・洋學 』 ( 中央公論社、1993.7.20 ) 125頁によれば、

     藩校の開設年と開設數とその持續年數は以下の通り。

       寛   永 ( 1624〜 64年間 )  9校

       貞享・元祿 ( 1688〜 28年間 ) 17校

       正徳・享保 ( 1716〜 35年間 ) 15校

       寛延・寶暦 ( 1751〜 38年間 ) 53校

       天明・寛政 ( 1789〜 41年間 ) 84校

       文政・天保 ( 1830〜 38年間 ) 63校


  ところが幕末に黒船が來寇するや、近代國家形成・工業化の人材不備に氣付き、明治の學制は官僚・幕僚・專門家・技術者の養成に傾きました。

  官僚・幕僚・專門家・技術者とは、全てこれ 「 指導者 」 の指示の下に働く人達であつて、指示を出す役割を擔ふ存在ではありません。

  だから帝國大學第一回卒業生の加藤高明以來、日本外交は失敗を重ねます。

    ( 「 世界の話題 」 97回 「 日本を滅ぼす戰後世代 」 參照 )

  指導者らしい指導者は原敬までです。

  あとは、官僚が日本を指導したのです。

  だから昭和の日本は 「 無責任 」 がまかり通ります。


  鎌倉幕府以來、日本は權威 ( 皇室 ) と權力 ( 幕府 ) を分けて來ました。

  これは凄い智慧なのに、明治は 「 王政復古 」 による 「 天皇親政 」 を建前にしました ( * ) 。

    ( それは無理なので、實際は 「 輔弼の臣 」 に實權を委ねました。天皇機關説です )

    ( この建前と本音の違ひを衝いて 「 天皇親政 」 をやれ、と迫つたのが二二六事件です )


    *第一、慶應3.12.9 ( 1868.1.3 ) の 「 王政復古の大號令 」 で、玉松操が、建武新政を更に遡ら

        せて、神武創業に戻る、としました。

     第二、慶應4.明治元.3.14 ( 1868.4.6 ) の 「 維新の詔 」 で 「 中葉朝政衰へてより武家權を專ら

        にし…… 」 と幕府を否定しました。

     第三、明治15 ( 1882 ) 1.4 「 陸海軍軍人に下し給へる勅語 」 で以下のやうに幕府を否定します。

         「 古は大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて……兵馬の權は一向に其

        武士どもの棟梁たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡そ七百年の間武

        家の政治とはなりぬ……朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大將軍其政權を返上し……

        古の制度に復しぬ……夫兵馬の大權は朕が統ぶる所なれば其司々をこそ臣下には任すな

        れ其大綱は朕自ら之を攬り肯て臣下に委ぬべきものにあらず子々孫々に到るまで篤く斯

        の旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再び中古以降の如き失體なからん

        ことを望むなり 」

     第四、明治22 ( 1889 ) 2.11に發布された 「 大日本帝國憲法 」 では、幕府の再來を恐れ、首相に

        閣僚の任免權を與へませんでした。伊藤博文の名で公刊された 『 憲法義解 』 ( 執筆者は

        井上毅 ) に曰く ( 岩波文庫、昭和15.4.15/昭和38.3.10 第六刷, 88頁 )

         「 總理大臣・各省大臣は均く天皇の選任する所にして、各相の進退は一に叡旨に由り、

        首相既に各相を左右すること能はず 」


  内閣の幕府化を恐れて首相の權力を削いだ結果、中堅官僚が各省の省益を背負つて勝手な國家運營を始めます。

  官僚=參謀は、立案・指導はしても、責任を取らないといふ存在です。

  昭和初年代の後半に日本は 「 下剋上 」 時代を迎へ、三月事件・滿洲事變・十月事件を經て官僚中堅が實權を掌握します。とりわけ、滿洲事變で 「 統制經濟 」 による國家運營を實驗して味を占めた中堅官僚が、日本を 「 總力戰體制 」 に持込み、國家を牛耳ります。

  昭和10年代は、軍および各省の中堅官僚が國家を運營した時代です。

  言換へれば、 「 指導者不在の時代 」 です。

  志を持ち、誇りを持ち、使命觀を抱き、見識があつて人々を纏め導く人が激減しました。

  かくて日本は、意志決定中樞を欠いた儘、世界を相手に戰ひ、敗戰を迎へました。


       國民共同體の再建へ


  第三の和魂の喪失こそ、各人が孤立分散する日本の現状を生んだ最大の原因です。


  現代日本人の活躍期は元祿から戰後の高度成長期までです。

  高度成長以降に生れ育つた人達は、孤立分散し利己主義化して、それまでの日本人の特質から大きく乖離して行きます。


  では、それまでの 「 現代日本人 」 の特質とは?

  職人氣質・清潔質素・清廉實直・正直勤勉・集團行動が得意・臨機應變・手先が器用・家庭と近隣社會が據點・思遣り・情深い・控へ目で寡默、等々。


  でも戰後の價値觀が個人尊重と稱して利己主義を煽り、核家族・個室生活・人より機器を相手にする生活などが、家族の絆を寸斷しました。

  また、高度成長が近隣社會・地域社會を破壞し、近所付合が限りなく影を薄くしました。

  高度成長時期に輩出した 「 團地 」 とは、根無し草の轉勤族の一時の塒に過ぎませんでした。

  そして、激増した都會生れ・都會育ちとは、故郷を持たぬ根無し草の風來坊なのです。


  集團生活をする人間が分散孤立すると、前途は野垂れ死あるのみではないでせうか?


  我國の隣には、重武裝を續ける低信用國家 ( 力を信じて人は信ぜぬ國家 ) が威令を周圍に及ぼさうと日夜武力を築いてゐます。

  我國が生延びるつもりなら、明治の間違ひを斷固是正せねばなりません。


  第一、指導者教育の再開。國民全員に文武兩道の教育を施すこと。


  第二、新憲法制定。現行憲法は即時廢止して、制憲までは不文憲法で行く。

  我國には權威と權力の二重構造を運營してきた長い歴史あり、その慣習に則れば、成文憲法なしで充分やれます。


  第三、和魂 ( 大和魂 ) の再確認。我國の良き傳統を歴史に學んで再認識すること。

  差當りは、中西輝政 『 國民の文明史 』 ( 産經新聞社、平成15年12月20日 ) や、横井小楠の傳記・著作をお讀みください。


  横井小楠については、最近、續々と評傳や論評が出てゐます。

  別冊環 『 横井小楠 』 ( 藤原書店、09年11月30日 ) が包括的です。

  横井小楠の著作は、中央公論社の日本の名著30巻 『 佐久間象山・横井小楠 』 ( 昭和45年7月10日 ) が現代語譯で讀み易い。

  原文は、下記2冊があります。

  日本思想大系55巻 『 渡邊崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内 』 ( 岩波書店、1971.6.25 )

  續日本史籍協會叢書 『 横井小楠關係史料 ( 一・二 ) 』 ( 東京大學出版會、昭和52.6.20 )

( 09.12.3/2010.1.16補筆 )