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紹 介:
松本重夫 『 自衛隊 「 影の部隊 」 情報戰秘録 』
( アスペクト、2008.12.5 ) 1800圓+税
先に紹介した阿尾博政さんの本と題は似てゐますが、内容は大分違ひます。
松本重夫さんは大正9年/1920年生れ。阿尾博政さんの10歳上。
帝國陸軍の將校から自衛隊に轉進した人です。
自衛隊の情報部隊を創設した一人ですが、阿尾博政さんが尊敬する藤原岩市と松本さんは衝突してゐます。
松本さんは阿尾さんの上司になる筈ですが、行違つたのか、合はなかつたのか、時代が違ふのか、それぞれの著書に相手の名前は出て來ません。
さて、以後は敬稱省略。
松本重夫は朝鮮の大邱生れ、 『 葉隠 』 で有名な佐賀武士の家系ださうです。
因に、 『 葉隠 』 は 「 武士道とは死ぬことと見つけたり 」 で有名ですが、
松本曰く、私が教はつた 『 葉隠 』 の心構へは違ふ、と。
「 人は必ず死ぬが、死ぬ迄は生きてゐる。
「 たつた一度死ぬだけだから、安んじて信念を通せ。
「 生も無、死も無。
「 ここに死ぬことと見つけたりの本義がある 」
釜山中學 4年生から陸士を受けて合格。
陸士時代の話は、別著 『 市ヶ谷教育 』 ( 新人物往來社 ) に詳述濟の由です。
昭和20年 ( 1945年 ) 8月6日、廣島に原爆が投下された日に陸大卒業。
即日、福岡市篠栗にある第57師團司令部に赴任し、敗戰處理 ( 敗戰パニックの處理 ) と進駐軍相手の戰後處理に奔走しました。
日本人の惡徳船主に騙された朝鮮の軍人・民間人をうまく朝鮮に送り届けた話は、25歳の若造である著者の紛糾處理能力が並々ならぬことを示してゐます。
惡徳日本人が夜中に船を出し、翌朝暗いうちに釜山港に着いたと偽つて佐賀縣唐津港で下船させ、船賃を騙し取つた。
暴動寸前の險惡な情勢の中、松本はとつさに金少佐と名乘つて朝鮮人になり濟まし、宿と食糧を與へ、一週間ほどで全員を無事、朝鮮に送還した。
この恩返しに、彼らは38度線を越へる日本人に食事を與へたさうです。
「 朝鮮から引揚げるときに、福岡の師團でお世話になつた御禮だと言つて温い食事を振舞つて貰つた時は本當に嬉しかつた 」 ( 數年後、著者が親戚から聞いた話 )
「 情は人の爲ならず 」 !
米占領軍との交渉もなかなかのもの。
その中で特筆に値するのが、 「 情報理論 」 に出逢つたことです。
特に Counter Intelligence 理論に出會ひ、この米軍の 『 情報教範 』 を熟讀して、後に自衛隊の情報チーム を創設する基礎が出來ます。
藤原岩市と衝突するのも、この理論が絡んでゐます。
藤原岩市は何の理論も持合せなかつたのです。
公職追放令が出たあと、著者は大阪理工科大學 ( 近畿大學工学部の前身 ) 應用化學科に入ります。
ここでズルチンや醤油を合成して闇市でさばいたり、同級生が自宅から持出した米粉を手製パン燒釜で燒いて食べたりして、戰後の混亂時期を凌ぎます。
かういふ生存のうまさ、しぶとさは、さすが情報將校の卵です。
神戸商業大學 ( 神戸大學の前身 ) に知合ひの教授が居て研究室に出入りするうち、經營學の泰斗平井泰太郎教授が開發したカード式情報處理機が故障しました。
これを 「 機械いぢりが好きで、陸軍時代にも隊の武器や機械類の應急修理をやつていた私 」 が直してしまふ話は、著者の情報處理能力を偲ばせます ( 49頁 ) 。
やがて兄の紹介で産經新聞社を見學し、創業者である社長前田久吉に會つたことが縁となつて産經の記者になります。福田記者 ( 司馬遼太郎 ) とも出逢ひます。
そして産經の東京進出の尖兵として東京駐在。
東京で、米國陸軍情報部 CICの依頼により仕事 ( 國會での左翼勢力の活動状況調査+ GHQの意向を國會運營に反映さす任務 ) をするのが、その後の重要な布石になります。
この時代に幣原喜重郎衆院議長と親しくなり、憲法第九條につき 「 遺言 」 を聽いた話が貴重です ( 63頁 ) 。
「 私 ( 幣原喜重郎 ) は戰前・戰時中、勇氣があればあの戰爭を拒否し得る立場にあつたが、勇氣がなくてこの戰爭となり敗戰となつた。そしてあの憲法に賛成したのだが、第九條は私の遺言的なもので、別な言葉で言へば 『 念佛 』 のつもりで マッカーサーの案に賛成したのである。君達が將來、時期が來れば直さねばならぬものである。このことはしつかりと君の心に入れておいて殘して貰ひたい 」
幣原さんは信頼する後輩にはつきり 「 憲法九條は改正せよ 」 と言残したのです。
それを、戰後60年經つてまだ變へてゐない日本は、國民も政治家もだらしない限りです。
さて、本書第三章 「 GHQの國會工作 」 を見ると、間接統治と言ひつつ GHQが意の儘に國會を操つてゐたことがよく判ります。だから、占領軍が占領中にやつた施策は、獨立後、一旦全廢すべきであつたのにさうしなかつたのは、直接には吉田内閣の責任ながら、痛恨の極みです。
朝鮮戰爭で中共軍の參戰情報を事前に得てゐた話 ( 95頁 ) は 「 さすが 」 !
但し、この情報を米軍上層部は 「 無視 」 し、中共軍參戰後、米韓軍は大敗北を喫します。
警察豫備隊から自衛隊に入つた著者は、自衛隊創設 ( 昭和26年/1951年 ) の翌年、米國陸軍の情報部隊 CIC ( Counter Intelligence Corps ) に倣つて調査隊 ( その後 「 情報保全隊 」 ) を創設します。
「 尋問・逮捕の權限を持つ警察は權限に頼り、情報入手の努力・ノウハウの蓄積が疎かになる。
「 私 ( 松本重夫 ) はそれまで日本には無かつた 『 情報理論 』 に基く組織を作りたかつた 」 ( 111頁 )
──といふ著者は、同僚と協力して 『 情報教範 』 を完成させました ( 129頁 ) 。
情報觀の差から、藤原岩市と衝突する話は第五章でたっぷり述べられます。
考へ方の相違ばかりか、人格的疑問にまで及びます。
この邊、興味ある方は直接お讀み下さい。
著者は、藤原岩市との確執にうんざりして、昭和39年/1964年 ( 帝塚山大學創立年です ) 、自衛隊を退職します。
そして軍事情報紙 『 櫻花 』 を編輯發行します。
以後は、獨自情報活動を始めた著者の活動期の一端です。
先づ、金大中事件の話。
ここで著者は金大中の證言にある 「 自衛隊の關與 」 を否定してゐます ( 171頁 ) 。
金大中の證言:
「 船上で殺されかかつた時に、米軍機か自衛隊機らしき飛行機が現れ、照明彈を撃つて牽制したため、誘拐犯は殺すのを中止した 」
この金大中の證言が傳はり、自衛隊の關與が疑はれます。
著者曰く、これは自衛隊への無知の産物だ、自衛隊機が飛んで來たといふのは 「 幻の飛行機 」 ( 173頁 ) に過ぎないと。
しかし私は最近、この牽制飛行をやつた當人の證言を讀みました ( 典據が思ひ出せない! ) 。
「 上から命令あり、何度も漁船の上を飛んで威壓した。
「 任務が何かさつぱり判らなかつたが、あとで金大中誘拐事件への牽制だつたと承知した 」 と。
著者の軍事情報の特徴は、ソ聯情報が優れてゐたことです。
それには、KGBの要員と接觸してゐたことが大きい。
そして曰く──
「 優れた情報員ほど愛國者であり、雙方にとつて最善と判斷して情報を交換する 」 ( 189頁 )
つまり、優れたスパイは二重スパイなのです。
なぜなら、相手から畏敬されないと、優れた情報がとれないからです。
先に紹介した阿尾博政が自著の中で 「 陸軍中野學校が教へた 『 謀略は誠なり 』 」 を強調してゐたことを思ひ出して下さい。
但し、お人好しの日本人には、もう一言、注意書きが要ります。
「 狡智の極みとしての誠 」 であつて、單純な 「 誠一點張り 」 では騙されるだけですよ。
昭和63年 ( 1988年 ) の ソウル・オリンピックへのソ聯參加問題を巡る遣り取り ( 第七章 ) :
韓国五輪委員會は、ソ聯參加問題で頭を惱ませます。
第一の問題:韓国五輪委からソ聯五輪委に送つた公式文書が届いたり返送されたりする。
韓国五輪委は 「 内輪揉め? 」 と訝ります。
第二の問題:ソ聯五輪委はいろいろ難癖をつけて不參加を臭はす發表が相次いだ。
さては、ソウル五輪 ボイコット か?
著者が KGB ルートを通じて調べたところ、ソ共中央は ソウル五輪參加決定濟と判明。
ソ聯五輪委のいちゃもん付けは、モスクワ五輪を ボイコットした アメリカ側への嫌がらせだつたさうです。
では、韓国五輪委がソ聯五輪委へ送つた文書が着いたり返送されたりしたちぐはぐ問題は?
答は他愛もない話でした。
モスクワの郵便局員が、黨に忠實な人間だつたら、國交のない韓国からの文書は返送處理をした。
作業ノルマをこなすだけの 「 意識の低い 」 人間たつたら、無事、ソ聯五輪委に配送した。
この笑話から、重大な歴史の警告が窺へます。
私達は、一國の行動を 「 一貫した意志の發露 」 と受取り過ぎる危險があるのです。
その痛切な事例の一つが、 「 田中上奏文 」 ( 田中メモランダム ) です。
あれが僞書であることは立證濟なのに、ロシヤ や中國、台灣の學者の多くが未だに 「 日本の侵略意圖 」 の根據にします。大正末〜昭和初の日本の國家意志だつたと信じ切つてゐるのです。
例へばソ聯は、ノモンハン事件を 「 單なる國境紛爭 」 ではなく、 「 日本の世界侵略行動の端緒 」 と見て、本氣で反撃したのです。
日本國内を見てゐると、日露戰爭後に日本に統一的國家意志があつたとはとても見て取れないのに!
瀬島龍三のソ聯抑留時代に關する 「 不穩當な話 」 ( 昭和20年/1945年 8月19日に開かれた日ソ停戰會議で關東軍將兵による 「 役務賠償 」 の提案をした張本人? との疑惑 ) を晴らしてゐるのも、本書の注目點の一つです ( 198頁 ) 。
KGB 調査により、そういふ記録は KGB側に殘つてゐないといふのです。
瀬島龍三は 「 軍人は言上げせず 」 といふ陸士の教へを忠實に守つたから反論を控へたらしいのですが、著者は瀬島龍三に忠告します。
「 噂をその儘にして置くと史實になつてしまふから、そろそろ本當のことを發表されてもいいのではありませんか 」
瀬島龍三が 「 シベリア抑留 "密約説" は虚構 」 を 『 産經新聞 』 に掲載するのは平成5年/1993年12月1日、それを回想録 『 幾山河 』 ( 産經新聞社、221頁以下 ) に再掲するのは平成7年/1995年9月30日のことです。
著者が朝鮮生れであることが絡んでゐるのか、本書は戰後の韓國事情に詳しいが、紹介は控へます。
三島事件の 「 黒幕 」 として藤原岩市を名指ししてゐる ( 230頁 ) のも注目點の一つです。
「 角福戰爭 」 で田中角榮を勝たせた經緯も出てきます ( 233頁以下 ) 。
この時の自民黨総裁選は國會議員投票ではなく、自民黨員の投票で決りました。
福田赳夫が都議・縣議レベルまでの上層しか摑んでゐなかつたのを察知した著者が、陸士53期の同期生亀岡高夫と組んで 「 その下の黨員 」 を總ざらへします。
その下とは、 「 區議會議員と村長、市町村を全部 」 です。
田中軍團のローラー型選擧。
これで田中角榮が勝つたのです。
大慶油田の産出量を現地調査で確かめた話 ( 235頁以下 ) 。
米軍は無人偵察機の航空寫真で撮つたハルピン驛のタンク貨車の數量から彈いて、年間 600萬トンと推定します。
著者はハルピン驛で貨物列車の周圍を歩き回り、原油のほかにアルコールも運んでゐることを發見します。
ハルピン驛は、西の大慶油田からの原油と、東の佳木斯周邊の畑で収穫した甜菜から作つたアルコールの集積地だつたのです。
かくて、大慶油田の年間産出量は 300萬トンに過ぎず、中國の國力の弱さが判明します。
實地調査の勝利!
私は、田中角榮逮捕を主導したのは、三木武夫だと思つてゐました。世間にさう傳はつてゐたからです。
ところが本書を讀むと、さに非ず ( 241頁 ) 。
逮捕直前に稲葉法相が三木首相に電話して知らせたら、三木首相は聲を荒らげて叱りとばし、あとずつと不機嫌だつたといふのです。
だから當日訪問豫定だつた著者は、訪問をキャンセルされます。
後日、三木首相に 「 何を怒つてゐたのか 」 と訊いた時の三木首相の答──
「 一國の總理大臣を務めた人物を 『 逮捕 』 、つまり裁判にかけて處斷することは、政治家のすることではない。國の恥を表に出すやうなことはあからさまにすべきでない、と稲葉を叱つた 」
著者はここでも 「 噂を放置しておくと時間の經過で史實となるから、是非反論すべきです 」 と三木首相に進言します。
三木さんは月刊誌・週刊誌に反論を掲載したさうですが、世間の 「 記憶 」 は改つてゐませうか?
情報は女から流出する:
有名な橋本龍太郎首相と中國女性通譯との スキャンダル ( 245頁以下 )
「 これが歐米なら一大スキャンダルになるところ 」 だが……
「 スパイ天國 」 の日本では何事もなく見過ごされた──と著者は嘆きます。
橋本首相通敵事件に關聯して、日露戰爭の旅順攻撃の最中、要塞の秘密地圖を盗み出して乃木軍に渡した日本女性道田春子の話が出て來ます ( 251頁以下 ) 。
敵情が判つたあと、乃木軍の要塞攻撃が 「 突貫強襲主義 」 から 「 電光型坑道掘鑿法 」 に變ります。
乃木大將は、この女性 「 道田春子 」 に感状を出したさうです。
但し著者は、情報專門家らしく、こう付加へます。
「 この事例は日本では美談だが、 ロシヤ側からは對情報 CI 的には 『 管理不良 』 である 」
同樣のことが自衛隊でも外務省でも起きてゐる、とも。
情報戰では、女性は要注意なのです。
堺市と羽曳野市で起きた O-157の集團中毒:
著者はこれを 「 單なる食品中毒事件 」 とは全く違ふと指摘し、 「 人爲的集團中毒 」 らしい、それも細菌テロの 「 豫行演習 」 であると指摘します ( 256頁 ) 。
テロに無防備なノーテンキな我國は要注意です。
最後に著者は、中國での遺棄化學兵器處理事業を 「 日本に全く責任なし 」 と斷定してゐます。
これは聯合軍相手に、受取つたあとの管理責任は聯合軍と取決めたからです。
これは、著者の生き證人としての 「 證言 」 です ( 274頁以下 ) 。
從つて、舊滿洲のガス彈の處理はソ聯軍の擔當なのです。埋めたのはソ聯軍と 「 斷定してよい 」 と。
中共はそれを百も承知で、1990年に日本側に處理を持掛けたのです。
この歴史的事實を無視して 「 毒ガス處理問題 」 に國民の血税を投入し、利權の温床にしたのは、まぎれもなく 「 日本政府 」 です。
國會での外務省の阿南惟茂の答辯が引用されてゐます ( 277頁以下 ) 。
著者は防衛廳に、毒ガス問題は聯合國の責任であつて、日本側にないといふ情報を提供してゐたのですが、これを利權化したい政府に握り潰されます ( 279頁 ) 。
こういふ利權構造に、我國は政財官から マスメディア に到るまで馴合で、群りたかつてきたのです。
( cf.拙稿正論 「 『 反日 』 はびこる不思議の國ニッポン 」 『 産經 』 平成15/2003年年5月9日 )
我國は、なんといふ浅ましい國になり果てたことか!
付記:末尾に、大韓航空機撃墜事件が出て來ます。
これは巷間で言はれた 「 スパイ目的 」 ではなく、 「 事故 」 でした。
しかし事故機が通過したルートの下にソ聯の新設通信基地があつたため、ソ聯側は撃墜した。
問題は、ソ聯の航空基地の通信を傍受し、暗號も解讀してゐた自衛隊の傍受内容を發表するか否かです。著者は 「 するな 」 と上層部に忠告したのに、中曽根總理の判斷で發表したのださうです。
中曽根康弘は、何度か日本の國益を害する行動をしてゐます。
「 日本の總理大臣が日本のため死んだ英靈に參つてどこが惡いか 」 と言つて靖國神社參拜をしておきながら、中共政權内の親日派に惡影響ありとして參拜を中止し、靖國神社を日中間の政治問題化したのがその一つ、
その前、佐藤内閣の運輸大臣だつたとき、迷う佐藤總理に 「 造らず、持たず、持込ませず 」 の非核三原則 ( 特に 「 持込ませず 」 ) を閣議で強く主張して宣言させたのがもう一つ。
中曽根康弘は、日本弱體化に先鞭をつけた惡徳政治家の一人です。
( 平成21.8.29記 )