紹 介:阿尾博政 『 自衛隊秘密諜報機關 』

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  紹 介:

  平成21年9月14日 伊原吉之助追記:

  この紹介を掲載後、自衛隊の元東部方面調査隊の高木三郎氏から 「 後半の記述は出鱈目 」 との指摘を受け、その詳しい説明文を 「 いかがはしい本を見抜く見識 」 と題して本欄に掲載しました。

  高木さんの批判を理解するには、この紹介を殘して置かねばなりません。

  しかし無條件で殘して置くと、これを丸々信ずる人が出て來る恐れがあるので、但書が必要となります。


  以下、最初讀んだ時に些か疑念に囚はれながら見過ごし、高木さんの御指摘ではつきり自覺した本書の問題點を三つ擧げて置きます。


  第一、 「 まへがき 」 2頁に曰く、

  本來、自分が手掛けた工作内容は、誰にも明かさず墓場まで持つて行くのが諜報員のけじめである。

  だが、私は餘命幾許もない、生きた證を殘さず死ぬのは真つ平御免と思つたと。

  諜報員の掟を破つてでも、私が見てきたことを日本人に傳へる義務がある、とも。


  この箇所を讀み、私は、

  「 本物の情報員なら、公表するのはやはりおかしいんじやないか…… 」 と思ひました。

  ( 高木さんの指摘: 「 諜報員 」 という言葉で 「 素人 」 と判ると )


  なほここで阿尾博政氏は 「 カネや賣名と言つた慾に驅られたのではない 」 と書いてゐますが、この言葉は、高木さんの指摘の後では、 「 問はず語り 」 と見えて來ます。


  講談社の編輯擔當者はさすがに疑問を持ち、自衛隊の幹部に確認したやうです ( 3頁 ) 。そして 「 預算が硝子張りの自衛隊で、秘密諜報機關など存在する譯がない 」 との返事を得てゐます。

  この返事は、高木さんの指摘と全く同じです。

  編輯者の疑問について、著者は

  「 ここに書いてあることは、すべて眞實である 」

と斷言し、萬一嘘が書かれてゐたら、腹を掻切つてみせる、と言切ります。

  これも、高木さんの指摘の後では 「 問はず語り 」 に聞こへます。疑はれることを承知の上で、事前に予防線を張つておいたのだと。


  著者が本書を出版した重大な契機は、眞相を知る關係者が大方死んだことです。

  だから 「 正體が暴露することはよもやあるまい 」 と思つたのでせう。


  第二、阿尾機關が 「 自衛隊幹部の思想動向調査 」 をやつたといふ記述 ( 97頁以下 ) 。

  これは全くおかしな記述で、大きな疑問を感じましたが、それを指摘しなかつたのは私の手落ちです。


  第三、 「 生きてゐた川島芳子 」 ( 111頁以下 ) 。

  この箇所を讀み、浦和市ほどの都會に住んでゐて、川島芳子の噂が立たぬ筈がない。その噂が立つてゐないところを見ると、川島芳子ではなかつたのではないか、と考へました。

  それなら、この段階で 「 本書は出鱈目本 」 と斷定すべきでしたが、著者は信じてゐるんだなあ……と思つて通り過ぎました。

  この邊り、評者 ( 私 ) の 「 見識 」 「 洞察力 」 が問はれます。


  結論:結局、私は著者の言ふ大筋を信じて、本書を紹介した次第です。


  國際政治は虚々實々の世界、狐と狸の化かし合ひの世界ですから、餘程の見識・洞察力を備へてゐないと眞僞の區別がつかなくなります。

  自戒の念を持ちつつ、本紹介を元の儘で掲載を續けます。


  別項 「 いかがわしい本を見抜く見識 」 に掲載した高木さんの批判文と讀み較べて、讀者の見識を高められんことを祈ります。




  阿尾博政 『 自衛隊秘密諜報機關 』

               ( 講談社、2009.6.5 )   1600圓+税



  紹介すべき讀了濟の本が一杯溜つてゐるのですが、昨夕から讀出し、今朝午前3時に讀終へた本書を簡単に紹介しておきませう。

  私が觀察を續けてゐる台灣の話も出て來ます。


  著者は私と同年の昭和五年、1930年生れです。但し、私は得生れなので、敗戰時に舊制中學 4年生、彼は 3年生です。


  著者は富山灣に面する氷見市生れ。自分では、九州熊本の菊地勤皇黨の流れを引く阿尾一族といふが、著者の惡友は、富山灣に先住していたアイヌと、縄文時代前期に對馬海流に乘つてやつて來た越人 ( 長江流域に住んでゐた稲作・漁撈民族 ) との混血だといふ ( 244-245頁 ) 。


  何れにせよ、著者は 「 國のため一身を擲つ生き方 」 を選びます。

  そして、 「 自分が手掛けた工作内容は、誰にも明かさず墓場まで持つて行くのが諜報員のけじめ 」 と言ひつつ、敢て諜報員の掟を破つてでも自分の經驗したこと ( の一部 ) を日本人に傳へる義務を感じて本書を書いた、と 「 まへがき 」 に述べます。

  その理由は──

  「 腑抜けの日本に活を入れるため 」

です。

  正に、中西輝政のいふ 「 老人パワー 」 の發揮です。


  それにしても、自衛隊に秘密諜報機關が存在した?

  ──したのです。幸ひなことに!


  先づ、著者の經歴が面白い。

  中央大學商學部の學生時代に、佐郷屋留雄の知遇を得ます。

  言はずと知れた、濱口雄幸を東京駅頭で銃撃したあの人物です。

  著者は佐郷屋留雄の 「 人間性に大いに魅かれて 」 弟子入りします。

  佐郷屋留雄は 「 愛國者團體の顔役 」 と 「 任俠團體の顔役 」 といふ二つの顔を持ち、戰後日本の愛國運動を支へた人物らしい。


  佐郷屋留雄は、あるとき著者に曰く、滿洲で生れて廣大な天地の間で暮らしてゐると、人間など小さな存在だと感ずる。だが、小さな存在も、志を持てば大きなことが出來る、と。

  人それぞれが成るように成る。ここに生きる醍醐味がある、とも。

  著者はこの佐郷屋留雄の生き方を、 「 無念、無相、無住の心境 」 と説明します。

  簡単には、 「 囚はれぬ心 」 です ( 27頁 ) 。


  學生時代にもう一人、重要人物と出會ひます。

  姉の旦那から紹介された佐藤和三郎といふ相場師です。

  獅子文六の 『 大番 』 は、佐藤をモデルにした小説です。

  著者は、佐藤和三郎の合同證券で働きながら、調査部に興味を持ちます。

  著者には元々、スパイの素質があつたようです。

  佐藤和三郎は、著者を後繼者にしようといふ魂膽があつたらしく、お供にして連れ歩きます。

  當然、著者も株に手を出し、大儲けします。

  しかし、これは著者にはアルバイトであつて、相場師になるつもりはない。


  かくて無事、中央大學を終へたあとの昭和30年 ( 1955年 ) 、著者はある人物の勸めで自衛隊に入るのです ( 陸上自衛隊幹部候補生學校 ) 。

  時に著者、25歳。

  著者は何にでも適正があつたかの如く、行く所行く所でうまくやります。

  中でも自衛隊は向いてゐたやうです。

  地獄の訓練を優秀な成績で突破します。

  「 恐怖のレンジャー訓練 」 も突破。


  そして遂に 「 影の部隊 」 に入り、 「 秘密諜報員 」 になるのです ( 81頁以下 ) 。

  ここでは 「 想像を絶する嚴しい教育 」 が連日、休む暇なく行われるのですが、寝る時間を切詰めないとこなせぬ課題にふうふういふ同級生を尻目に、

  「 私はさつさと課題を濟ませ、スナックや赤提灯を徘徊してゐた 」 ( 83頁 )

  「 私には、どんな物事でもどんな環境でも、短期間に要領よく取纏める異能がある 」 ( 84頁 ) 。

  著者は實に、稀に見る 「 諜報工作適性者 」 だつたのです。


  諜報活動を始めた著者が最初に勤務するのが、米軍と自衛隊の 「 合同諜報機関 」 ( 通稱 「 ムサシ機關 」 =武蔵野の朝霞にあつたため ) です。

  自衛隊が米軍の下請兵力として出發してゐることが、諜報活動にも反映してゐたのです。

  米軍下請を嫌ふ著者は、このあと 「 獨立機關 」 を發足します ( 95頁以下 ) が、極めて小規模です。戰後日本の指導者の自立性の無さは、殘念ながら、今だに續いて居ます。


104頁以下に、三島由紀夫との出會ひの話あり。

  著者が先輩と二人で三島と會つて、20分の豫定が 2時間に及びます。

  著者曰く、三島由紀夫は素晴しい聞き役だつた。それにつられて、こちらの話もどんどん熱を帯びた。途中發せられる三島の質問も實に本質を衝いてゐて、その意見も素晴しいものだつたと。

  著者が詳しく話した自衛隊での訓練の模様に興味を持つた三島が、やがて體驗入隊し、楯の會をつくつたのです。著者曰く、私達が三島邸を訪問した時には、三島には楯の會を設立する構想なく、自衛隊に體驗入隊する考へもなかつた筈だと。


  著者は、戰後生延びた川島芳子にも會ひます ( 108頁以下 ) 。

  愛親覺羅家の肅親王善耆の第14王女であつた芳子は、1948年 3月25日、處刑された筈ですが、實は秘かに匿はれて日本で生延びてゐたのです。

  埼玉縣浦和市の海兵出身の元特務機關長古谷氏宅を訪れた時、奥さんらしき人以外の 「 もう一人の老婦人 」 に出逢ひます。これが川島芳子でした。

  「 古谷の家にゐた老婦人は、本當に上品だつた。あれが清朝王族の血なのだらう。髪は雪のやうに真白で、あの高貴な風貌は今なほ忘れられない 」


  著者が田中角榮を天敵にする話も抜群に面白い ( 120頁以下 ) 。

  阿尾機關が日本で展開した 「 國土の守りを考へる會 」 の工作 「 移動防衛博覧隊 」 の設備費用・巡行費用に、自民黨から3000萬圓の資金が得られることになつた。


  自民黨本部事務局長曰く、 「 それなら佐藤總理に5000萬圓必要と言ひなさい 」

  著者は激怒して言返す。

  「 我々は國のためにやつてゐるんです。これで金儲けする氣は毛頭ない! 」

  ところが、佐藤總理の後繼爭ひ 「 角福戰爭 」 の真最中だつたから堪らない。

  福田派の行動なら何でもけちをつける田中幹事長が3000萬圓を1000萬圓に削つてしまつた。

  著者は借金を重ね、計劃は途中で挫折といふ結果になります。

  憤懣やるかたない著者は田中角榮を罵倒します。

  「 大馬鹿者田中角榮。自分の反對派閥の福田派のやることは盡く潰してやるといふ、利己主義と我慾に凝固つた下らぬ男 」

  「 この時感じた田中角榮への怒りは、40年經つた今なほ収らない 」

  あんな非國民は生かしておけないから殺す! と口走つた著者に、尾行がつきます。


  ほとぼりを冷ますため、機關は著者をバーンコークに派遣します ( 132頁 ) 。

  黄金の三角地帯へ。

  中國國民黨の殘黨軍が麻藥で生延びてゐるのを支援してゐたのは米國の CIA です。

  ここで、ラオスで消えた辻政信を消したのは CIA? との示唆が示されてゐます ( 143頁 ) 。

  さもあらん。


  阿尾博政の活躍の本番は、台灣での活躍です。

  ニクソン訪中後、日本は中共政權と國交を結び、國府の台灣とは切れます。

  だが台灣は日本の生命線。

  「 台灣をずつと見守る人間が必要 」 と判斷した自衛隊上層部が、その任務を著者に與へます。


  1ヶ月半の特訓で台灣事情を呑込んだ著者が台灣に渡るのが1972年 5月。

  私の台灣初訪問は東京オリンピックの年 ( 昭和39年/1964年 ) 、台灣に毎年何度も行くやうになるのが昭和48年/1973年以降ですから、その 1年前に著者が台灣に渡つてゐたのです。


  日中國交正常化で切れた日台航空路線の再開に著者が深く關つてゐた話 ( 175頁以下 ) は頗る興味深かつた。

  その時、著者がかついだ同郷の政治家松岡松平代議士が 「 疑惑の死 」 を遂げる邊りは、政治の深い闇を示します。

  葬儀の準備中、松岡の秘書の一人がある花輪を指して 「 馬鹿者! そいつは取下げろ! 」 と血相を變へて怒鳴つた。

  取下げられた花輪は、名前を聞けばびつくりするやうな自民黨の有力者のもの……と。

  暗殺を指令したのは一體、誰でせう……?


  186頁に、著者が靖國神社と交渉して 「 台灣人戰歿者の約三萬柱の靈位 ( 佛教でいふ位牌のやうなもの ) を交付して貰ひ、それを台灣に持歸り、黄同吉の團體に寄贈した、とあります。

  いま、原住民を偽装する在台シナ人の高金素梅が靖國神社を荒らしてゐますが、この話を知つてやつてゐるのでせうか?


187頁以下に、台灣省長だつた林洋港が1981年 3月訪日したとき、国賓待遇で迎へたことが、林洋港の失脚に繋がつたという趣旨の話が出てきます ( この時、林洋港は内政部長だつた筈 ) 。

「 訪日以降、林洋港の出世の道が閉された 」 ( 188頁 )

  私の承知する所では、彼が内政部長のとき、蒋經國が林洋港の實力を警戒して、以後重用しなかつたのだと。


  昭和57年 ( 1982年 ) 以來、著者は中國國民黨大陸工作會から望まれて、中國大陸で工作を始めます。

  大陸でもうまく工作して、ボロを出さぬばかりか、彼が關る仕事は概ね順調に軌道に乘ります。

  それは、著者に言はすと、行く先々でその土地の人々のために 「 何かしてあげたい 」 と考へる 「 持つて生れた性格 」 ( 220-221頁ほか ) のなせる業のやうです。


  著者は、 「 陸軍中野學校で教へた 『 謀略は誠なり 』 」 が諜報に從事する者の基本的心得とします ( 224/235頁 ) 。

  これは實に大事な指摘です。


  「 あとがき 」 に著者曰く、

  馬英九總統は反日と言われるが、私はそうは思はないと。

  そう思はぬ理由は書いてないが、馬英九は紛れもない反日思想の持ち主です。

  この點、著者の判斷根據を知りたいところです。



( 平成21.8.28記 )