辻政信 『 ノモンハン 』

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紹 介:ノモンハン戰は大東亞戰爭の先驅的近代戰として若い時から注目して來ました。

      だから、めぼしい本は買ひ揃へてあります。

      その中からたまたま、下記を讀みました。當時の事情をよく傳える好著です。

      戰鬪で日本側が優勢にあつたことを、ちやんと指摘してゐます。

      ノモンハンが 「 負け軍 」 になつたのは、中央 ( 東京の日本政府+參謀本部 ) の所爲。

      關東軍は正しい判斷をしてゐたと。

      本書の缺點は、日本軍の兵器の性能不足・量的不足と補給の不備への反省が薄いことです。

      この反省が出來て居たら、日本は對米戰爭はしなかつた筈です。


      しても、もつとうまく戰つてゐたでせう。




      辻  政信 『 ノモンハン 』

                    ( 亞東書房、昭和25.8.27 ) 定價 180圓



  本書は、辻政信が戰後に書いたものです。日記帳を見て書いてゐるので、實にくはしい。

  寫真と地圖がふんだんに挿入されてゐて、戰鬪の模樣がよく判ります。


  本書は 『 ノモンハン秘史 』 と改題して原書房から復刻されます ( 100冊選書 No.42 ) 。

  昭和42年12月20日、 400圓。

  これが今また新刊で發賣中ですが、この原書房版は、關長風執筆の 「 十一  國境外交の内幕 」 を省略してゐます。

  省略部分は、ソ聯政權の無法な本質を暴露したべらぼうに面白い記事なのに!

  だから皆さん、ぜひ圖書館で昭和25年發行の 「 原著 」 の方をお讀み下さい。


  原著で省略された 「 前がき 」 が、復刻版にちやんと載つてゐます。

  この 「 前がき 」 で辻は、大事なことを言つて居ます。


  曰く、朝鮮戰爭の勃發を見て、ノモンハン戰の 「 眞相 」 を明かにしようと思ひ、ペンを取つた。

  著者は、當時の幕僚としてノモンハン事件失敗の責任を痛感する。

  にも拘らず 「 當時の眞相 」 を公表する所以は以下の通り。

  「 慘烈な近代戰 」 では、戰場で血を浴びつつ戰ふ第一線の者と、冷房の利いた大厦のデスクでペンを持つて戰爭を指導する銃後の者とが 「 戰爭目的に一致するやう調和させること 」 がいかに難事であるか、その調和を缺いた時、いかに悲しむべき結果が齎されるかを、本書から學んで欲しいからだと。


  私は、高砂義勇軍の戰績を追つてニューギニア戰線の死闘を知り、東京の大本營參謀が如何に現地の状況を無視した命令を出すかに呆れ返つた經驗があります。

  簡単に移動を命ずるのですが、未開地の海岸は暴れ河で寸斷されてゐて、渡河裝備を持たぬ軍隊は簡単には渡れない。

  ポート・モレスビー攻撃のため、オーウェン・スタンレー山脈を越ゑさす。

  日本アルプスより高い山々が聳へてゐることを、命令者は知つてゐたのか?

  しかも、越へてポート・モレスビーの街の燈火を望んだとたんに攻撃中止・引つ返せと命令する。

  つるつる底の軍靴で足元が見えぬ夜の闇の中、どれだけ大勢の兵士が足を踏外して谷底に轉落して死んだことか!

  東京の大本營參謀の現地に對する無知を、私は論文を書きながら憎みましたから、命令者と命令を受けて實行する者との乖離の問題を指摘した辻參謀に共感します。


  戰後、陸軍が惡者にされ ( 註 )   、その陸軍でも 「 出先の暴走 」 が批判されますが、少くともノモンハン事件に關する限りは、出先の關東軍の判斷が正しく、東京の判斷は間違ひでした。


  ( 註 ) 陸軍を惡者にしたのは、米占領軍と口裏を合せた海軍と外務省だと言はれて居ます。

        だから東京國際裁判で死刑になつたのは陸軍の將官だけで海軍は入つて居ないと。

        東京裁判史觀は、陸軍惡者史觀です。


  同じことが、關東軍内部でも言へます。

  本書冒頭に、辻が飛行機に便乘して前線を視察する話が出て來ます。

  關東軍參謀も辺鄙な前線を親しく視察する者は少なかった。

  本部の部屋でぬくぬくして作戰をたてるものが大半だつたのです。

  この前線と後方の命令中樞との乖離が、大きな戰爭ほどずれが大きくなるので、大問題になる譯です。


  辻政信が指摘する出先 ( 關東軍 ) と中央 ( 東京 ) の乖離を示した最初の出來事が、張鼓峰事件の處理です。

  ( その前に滿洲事變がありますが、今は辻の著書の紹介に徹します )


  「 千數百の死傷者を出した戰場の跡には、依然としてソ聯軍が不法越境の既成事實を確保してゐる。確かに我が負けである 」 ( 40頁 )

  「 關東軍司令官が滿洲防衛上、採るべき方策の指示を求めたのに對し、參謀總長の回答は 『 その儘にして置け 』 だつた。張鼓峰事件は、かくして犯されたままで幕を閉ぢた 」 ( 41頁 )

  「 敵を撃攘して國境線を回復確保せよとの大命は無視された。あのとき徹底的に庸懲し、實力を以て主張を貫徹してゐたら、恐らくノモンハンの慘闘を惹き起さなかつたのではなからうか 」 ( 42頁 )

  「 中央部は 『 侵されても侵さないこと 』 を希望し、關東軍は 『 侵さず、侵されざること 』 を建前とした 」 ( 45頁 )

  そして曰く、 「 弱味につけ込む相手を前に控へて、消極退嬰に陥ることは、却つて事件を誘發するものである 」 と ( 同上 ) 。


  實は、この 「 中央 」 の 「 武力行使禁止 」 は、滿洲事變以來の昭和天皇の陸軍不信があつたのです。そのことは、井本熊男 『 作戰日誌で綴る支那事變 』 ( 芙蓉書房、昭和53.6.30 ) の第二章第五節張鼓峯事件 ( 252頁以下 ) に明かです。

  參謀本部は、張鼓峰事件での原状回復について、參謀總長はかう上奏するつもりでした。


  「 張鼓峰の位置は、大兵力を集めて抗爭を擴大する危險は比較的少いと考へられますので、この際一撃を加へてソ聯邦の抗爭意志を圧縮し置くを至當と判斷致します 」

  「 事件を局地的に處理し得ると考へてゐる次第であります 」


  しかし天皇は,


  「 ソ聯と外交交渉する前に兵力を以てソ聯兵を驅逐するが如き措置は採るべきでない 」


とのお考へだつた上に、板垣陸相の奏上手違ひもあつて

  「 また陸軍が自分を誤魔化す 」

とお取りになつたらしいのです。そこで

  「 滿洲事變・支那事變勃發時の陸軍の遣り方を繰返させない 」 御決意を固められ、

  「 當面の問題も、朕の許しなくして兵を用ひることは罷り成らぬ 」

といふ嚴しい態度を示されました。


  この天皇の御決意を知つたあと、參謀總長の關東軍に對する回答は、 「 その儘にして置け 」 しかあり得なかつたのです。


  さて、辻の 『 ノモンハン 』 の紹介に戻ります。

  出先と中央の乖離の第二の實例が、本書の主題、 「 ノモンハン事件 」 です。


  この事件の前提知識が幾つか指摘されてゐます。

( 1 ) 極東ソ聯軍と關東軍の實力比:

  1931年の滿洲事變勃發時は一對一。

  1937年の支那事變勃發時は二對一。

  1939年のノモンハン事件勃發時には、關東軍の精鋭が支那大陸に引抜かれてゐたため、そしてソ聯軍が五カ年計画 ( 註 ) の實施により、軍備を急速に充實してゐたため、實に三對一に低下。

  「 大雜把には三對一になるが、戰車は十對一、騎兵は十一對一 」 ( 57頁 ) とも。

  これだけ實力に差がついた段階で、ソ聯の 「 挑戰的越境 」 が俄然殖ゑたと ( 45頁 ) 。


  ( 註 ) 第一次五ヶ年計劃:1928.11.-1933.10.→ 1年繰上げ達成

        第二次五ヶ年計劃:1933 -1937

        辻は 「 昭和10年 ( 1935 ) が攻守所を異にする峠であつた 」 ( 57頁 ) と書いてゐます。


( 2 ) 昭和14年 4月25日、關東軍司令官植田謙吉大將が全關東軍に 「 滿ソ國境紛爭處理要綱 」 を下達。

  その全文が 46-47頁に掲載されてゐます。

  第一項目の 「 軍は侵さず、侵さしめざるを滿洲防衛の根本基調とす 」 が眼目です。

  この 「 要綱 」 を起案したのが關東軍參謀辻政信でした。

  このことから、ノモンハン戰を始めた日本側の 「 契機と動因 」 を關東軍參謀辻政信個人に結びつける論者も居ます ( 註 ) 。


  ( 註 ) 『 ノモンハン全戰史 』 ( 自然と科學社、1988.4.30 ) の著者、牛島康允氏です。

        ( 『 ノモンハン・ハルハ河戰爭 』 原書房、1992.8.15, 32-33頁参照 )


  ノモンハン事件は、この命令下達の半月後に發生しました。

  そして、關東軍は 「 侵さしめざる 」 を貫徹しようとし、東京は、初め同調しながら、やがてそれを抑へようとして、齟齬を來すのです。


( 3 ) ノモンハン戰を戰つた第23師團 ( 師團長=小松原道太郎中將 ) は、大陸戰線に轉用された師團のあとに編成された未熟師團であつたこと。

  編成開始が昭和13年 7月。

  ノモンハン事件突發が翌年 5月。編成して 1年に滿たぬ未熟師團でした。


  最初、例によつて小競り合ひと思つてゐたが、戰車まで繰出す本格戰鬪と知つて、關東軍參謀部は 「 積極庸懲策 」 を立案します。


  まづ、新京 ( 關東軍 ) は東京 ( 參謀本部 ) と意見調整し、 「 ピツタリ呼吸を合せて出發 」 ( 95頁 ) します。

  次に、作戰計劃です。

  第23師團は第二線に下げる。

  そして關東軍の最精鋭部隊・第七師團を動員して敵を撃滅する。


  これに關東軍司令官植田謙吉大將は異議を唱へます。


  「 ノモンハンは小松原師團長の擔任正面である。その防衛地區に發生した事件を他の師團長に解決させることは、小松原を信用しないことになる 」

  「 自分が小松原だつたら腹を切るよ 」


  戰術的には參謀が作つた原案が正しいが、 「 統帥の本旨 」 に悖る、といふのです。


  參謀達もこれに服し、計劃を立て直します。


  一つ、第23師團に事件を處理させる。

  一つ、第七師團に代へるに、安岡支隊 ( 安岡中將の指揮する戰車第二聯隊と第七師團の歩兵 1聯隊 ) を小松原師團長の指揮下に入れる。


  小松原師團がよく善戰した背景に、この 「 統帥上の配慮 」 がありました。

  辻は 「 老將の高邁な統帥が師團長を鼓舞し、將兵を奮起させた 」 ( 106頁 ) と書きます。

  かくて彼らは、未熟師團と思へぬほどよく戰ひました。

  しかし、結果から見て、やはり兵力不足でした。結果的に、ノモンハンの戰ひは 「 兵力逐次投入 」 の缺陷を持ちます。


  以上、三つの前提知識を得た上でノモンハン戰を見ませう。


  ノモンハン戰は、三つの戰から成ります ( 三つ目は未遂ながら、關東軍は準備濟 ) 。


  發  端:1939.5.11- モンゴル騎兵が 「 越境 」 してハルハ河東岸に進出し滿洲軍警備隊と衝突。

          日本軍 ( 第23師團 ) 支援。ソ聯軍も介入。 6月、ソ聯軍が兵力大増強

  第一次ノモンハン戰:6.27  タムスク越境爆撃。→参謀本部、關東軍を抑へにかかる

                      7. 1- 日本軍、攻撃開始、挫折/7.23- 日本軍、攻撃再開、挫折

  第二次ノモンハン戰:7.15- ソ聯、第一集團に擴大改變、大量の兵器・資材を前線へ

                      8. 4- 關東軍、第六軍を編成して本格反撃を準備にかかる

                      8.20- ソ聯・外蒙軍が總攻撃  →第23師團、壞滅的被害

                      8.23  獨ソ不可侵條約締結  →第二次世界大戰、勃發へ

                      8.29- 參謀本部、二個師團増強を内定

  第三次ノモンハン戰:8.30/9.3 の大本營陸軍部命令 ( 第343號/第349號 ) で戰鬪停止

                      9. 7 關東軍首腦を更迭

                      9.15 停戰協定。→第三次ノモンハン戰、未遂に終る

  國境劃定交渉:チタ會議 ( 39.12. ) ・ハルビン會期 ( 40.1. ) 決裂。

                41.4.の日ソ中立條約締結後、交渉を續け、42.5.議定書交換。國境確定


  戰鬪の經過は本書を直接お讀み下さい。


  幾つかメモして置きます。


  ( 1 ) 越境攻撃を嚴禁された關東軍の嘆き。

  「 敵は刻々兵力を増強し、虎視眈々として侵攻を準備しているとき、我は手足を縛られて、強敵との喧嘩をせねばならなくなつた 」 ( 123頁 )

  「 敵は滿領内を無制限に爆撃するのに反し、我はハルハ河を越ゑて爆撃することは大命で固く禁ぜられてゐる。脚を縛つて走らされる苦痛…… 」 ( 156頁 )

  「 ああ、東京が怨めしい。足枷手枷を外してくれたらと、毎日天を仰いで嘆息する日が續いた 」 ( 158頁 )

  ( 敵情報告を得て ) 「 敵の現地指揮官が常に弱音を吐き、後方の司令部は激しい督戰を加へてゐる。これは我が第一線と東京との關係と正反對の現象 」 ( 175頁 )

  「 ノモンハン事件を大規模に積極的に指導したのはクレムリンであり、之を消極的に退嬰的に収拾しようと焦つたのは東京である 」 ( 同上 )

  「 關東軍は内外二正面作戰をしてゐる 」 ( 181頁 )


  ( 2 ) 陸軍の人事失敗の嘆き。

  戰場で見事な働きをする將領を冷遇してきた陸軍人事の 「 人を見る眼の無さ 」 ( 132頁 )


  ( 3 ) 質が量に勝てぬ嘆き。

  「 質に於て我は斷然彼を凌駕したが、量には叶はなかつた 」 ( 107頁 )

  「 殘り少い彈丸で必中彈を浴せたものの、遂に質は量を制し得ない様相…… 」 ( 142頁 )

  「 百五十輛の戰車を潰したものの、質は遂に量には勝てなかつた 」 ( 146頁 )

  ( 以後、この嘆きは繰返し出て來ます )


  ( 4 ) 參謀としての自責の念。

  「 敵情の判斷を誤つたこと。我と同等と判斷した敵兵力は我に倍するもの 」 ( 155頁 )

  「 特に量を誇る戰車と、威力の大きい重砲とは、遺憾ながら意外…… 」 ( 同上 )

  「 まさかあのような大兵力を、外蒙の草原に展開できるものとは、夢にも思はなかつた 」 ( 181頁 )

  「 第23師團の陣地を固め、戰力を補充し、重砲と第七師團の一聯隊を増強すれば十分對抗出來るものと信じてゐた 」 ( 同上 )

  「 作戰參謀としての判斷に誤りがあつたことは、何としても不明の致す所、この不明のために散つた數千の英靈に對しては、何とも申譯はない 」 ( 182頁 )

  ( 火炎瓶を投げつけても燃ゑない敵新鋭戰車の出現に負傷兵續出。歳が40に近い老兵〈上等兵〉の負傷兵に 「 參謀殿! 戰車に負けない戰をさせて下さい 」 と訴へられて ) 「 胸が締めつけられる思ひ 」 ( 187頁 )

  「 火炎瓶で面白いほど炎上させた敵戰車が、今度は車體の上に金網を張つてゐる ( 伊原註:それだけではなく、ガソリンエンジン をディーゼルエンジンに換裝した ) 。火炎瓶や地雷は容易に奏功しなかつた。量に於て四五倍の敵は、質に於て運用に於てまた舊態を改めてゐた。薄ノロと侮つたソ聯軍は、驚くほど手輕に迅速に、兵器と戰法を變へてゐる 」 ( 206-207頁 )

  「 小松原師團をあのやうな苦戰に陷らしめたのは幕僚の不明にその大部の責任を歸すべきである 」 ( 215頁 )


  ( 5 ) 「 ソ聯の損害は我より大 」 と認識。

  「 我が損害も並々ならぬが、敵は更に大きな打撃を受けたらしい 」 ( 156頁 )


  長くなつたので、十一の國境劃定會議の紹介は止めます。

  ここでも二箇所、ソ聯の損害の方が大きかつたことに觸れて居ます ( 240頁/266頁 ) 。


  以上、辻政信の 『 ノモンハン 』 を下敷きに、ノモンハン事件を概觀しました。

  ノモンハン事件については、當事者の回想録を含め、多くの參考文獻がありますが、先に註記した牛島康允 『 ノモンハン全戰史 』 のほか、下記 2冊が必讀です。


  田中克彦 ( 代表 ) 編 『 ノモンハン・ハルハ河戰爭 』 ( 原書房、1992.8.15 )

  田中克彦 『 ノモンハン戰爭──モンゴルと滿洲國 』 ( 岩波新書、2009.6.19 )


( 平成21.7.26記 )